四月末。松前口を守っていた大鳥の部隊が破られる。土方の部隊も二股口の防衛を切り上げ、五稜郭まで撤退するよう命令を受けた。それでも、土方の目から戦意は消えない。だから、も前を見て土方の隣に居続けた。
 五稜郭に戻ってきたたちを出迎えたのは千鶴だった。本山は松前で銃弾を受けて死亡。伊庭も遊撃隊と共に木古内で戦っていたが、被弾して今治療を受けているところだという。傷病者の向かう湯の川ではなく五稜郭に戻ってきたのは伊庭の希望だろう。戦線から離れたくないのだ。
 そして五月になる頃には、連日会議が開かれ、降伏すべきだという意見が大勢を占め始めた。結果はどうあれ、この戦いはもうすぐ終わる。

「あ、千鶴。ちょっと話があるんだけどいいかな」

 ある夕暮れのこと。千鶴を見つけて、が声をかけた。

ちゃん、どうしたの?」

 千鶴を外に連れ出す。蝦夷地の桜は遅い。こんな時期に桜が咲くのかと思いながら、は千鶴と五稜郭の裏手の桜並木を歩いた。

「いつか謝ろうと思ってた」
「え?」

 千鶴が立ち止まったを振り返る。

「おれは、千鶴のためにって言いながら、自分のために戦ってた。千鶴を守るのが自分の役割だなんて、おまえのこと出しに使ったみたいになって……それがおかしいことだったって、新選組のみんなに気付かされた」

 は頭を下げる。

「そんな……ちゃんが私を守ってくれてたのは事実だもの。だから私は……」

 千鶴は少し俯いて、を改めて見た。

「それに、ちゃん途中で気付いてたでしょ? 私のためじゃなくて、何か別の目的で戦ってるなって思ったから」
「ばれてたか」

 頭を上げて、は苦笑する。

「うん。おれは、おれに志を教えてくれた……道標をくれた、新選組の一員として戦いたい」

 千鶴が眉を下げた。

「……戦いに行くんだね」
「止めるか?」
「本当は止めたい。ちゃんとずっと一緒にいたいから」

 千鶴は微笑む。

「でも、ちゃんはもう決めてるんだよね」
「……ごめん」
「ううん、謝らないで」

 千鶴は首を振る。

ちゃんがやりたいことを……守りたい気持ちを見つけたのなら、私はそれを応援したい」

 守りたい気持ちを見つけて欲しいと、千鶴に言われた。
 それは最後まで諦めない心だ。それは命をかけて足掻く覚悟だ。は、新選組と関わる中で、それをついに見つけた。

「おれは新選組のみんなに思いを託されて来た。だから、おれはこの思いを背負って、新選組の一員として、最後まで恥じない戦いをしようと思う」

 千鶴はを真っ直ぐに見た。

「……重くない?」
「え?」
「皆さんに託された思い、重くない? それはちゃんの重圧になってない?」

 頭を掻く。

「うーん。なってないかな」

 は微笑んだ。

「重くないよ。ううん、このくらいの重さがあった方がちょうどいい。おれは何も背負ってこなかったから、初めて背負うこの重さが心地いいんだ」

 死んでいった隊士の皆の思いを背負って、自分は戦う。土方を頼むと言われたから、自分は彼の隣に、最前線に居続ける。

「なあ、千鶴」

 ざあ、と風が吹いた。桜が舞う。

「おれはきっと死ぬと思う」
「……」

 千鶴は俯いた。が苦笑する。

「でもさ、できることならおれをこのまま送り出して欲しいんだ。おれは、おれと、おれに思いを託してくれたみんなのために戦いに行くから」
「うん」

 顔を上げて、千鶴は微笑んだ。

「自分の見つけた道標のために、最後まで頑張ってね」

 目の端に涙が見えたけれど、千鶴は泣かない。

「うん。ありがとう」

 桜が舞う中で、別れの言葉を交わす。桜のように儚く散りはしないと、ここに誓う。
 は最後に千鶴を抱きしめた。

「いってくる」

 千鶴が背中に手を回す。

「いってらっしゃい、ちゃん」

 桜が祝福するかのように、降り注いだ。


  ◆◆◆


 五月十日。は伊庭の部屋を訪れていた。ノックをしても反応はなく、部屋に入っても返事もない。ベッドの脇に立って、ようやく視線がを向いた。

ちゃん……無事、だったんですね……」

 弱弱しい声で伊庭が言う。伊庭の傷は治療の施しようがなく、あとはただ死を迎えるのを待つだけなのだという。胸への被弾で、肺の損傷がひどいようだ。

「今から無事じゃなくなりにいく」
「え?」
「新政府軍が仕掛けてくるなら明日だって、土方さんが言ってた。おれは夜には弁天台場に向かう」

 伊庭が目を見開く。だが、起き上がることも、に手を伸ばすことも叶わなかった。

「そんな……あなたが、いなくなったら、彼女は……」
「なあ、八兄」

 がベッドに腰かける。

「その怪我、もう治らないんだろ」
「……」
「だったら、最後は千鶴に傍にいてもらったらどうだ?」

 伊庭が千鶴を好きだということは知っていた。彼女には辛い思いをさせることになるだろう。自分を含め、幼馴染を一度に失うところを目にするだろうから。恋した女に看取られるなら嬉しいのではとの提案だったが、伊庭は首を振った。

「彼女は、この部屋に近付けないよう、言ってあります」
「どうして?」

 伊庭が薄く笑う。

「こんな、死にぞこないの姿を、見せるわけには……彼女には、元気な僕を、覚えていて、ほしいんです」

 そういうものなのか、とは思う。

「おれは別に何も言われてないけど、おれはよかったってこと?」
「君は、同志でしょう?」

 が目を見開く。伊庭が微笑んだ。
 今までずっと、を幼馴染扱いしてきた。女扱いしてきた。戦いの邪魔だとは一度も言わなかったものの、ずっと戦いに身を置き続けるをどうにか止めさせたいと思っていた伊庭が、初めてを「同志」と言った。共に戦う仲間だと。

「……あーあ、ずるいなあ。ちょっと迷っちゃうじゃんか」

 は苦笑しながら、懐から小瓶を取り出した。

「それは……?」
「変若水じゃないよ。赤くないだろ?」

 中の液体を見せるように振る。

「モルヒネって言うんだって。榎本さんから預かってきたんだ」

 聞いただけで伊庭にはそれが何を意味するかわかったようだった。

「痛みをなくす効果があるけど、量を増やせば毒にもなる。あってる?」
「……はい。致死性がある、劇薬です」
「榎本さんは、苦しんでる八兄をこれ以上見ていられないらしい」

 小瓶を手で遊ばせながら、が言う。

「だから、いっそ自決を……ですか」
「そういうことなんだけどさ」

 は一度立ち上がると、小瓶を左手に持ち、右手で刀を抜いた。伊庭の上に馬乗りになるようにベッドに乗って、心臓にぴたりと刃を向ける。
「気が変わったから、おれが殺してやってもいい。それなら、毒に苦しんだりせずに殺してやれる」

 目と目を合わせる。しばしの沈黙の後、伊庭は小さく首を振った。

「薬を」

 短く、そう言った。

「いいのか?」

 刀を下ろして問いかける。

「沖田君を、殺したのでしょう?」
「……」

 は眉を寄せる。まだこの手が、脳が、師を殺した感覚を覚えている。

「あなたが、これ以上、仲間の血で汚れるのは、見たく、ありませんから」

 そう言うと、伊庭は呻きながら上体を起こそうとする。がベッドから飛び降りて、刀を納めて手を貸した。ベッドに座り、伊庭の上体を支える。伊庭が右手を差し出した。は少しだけ悩んで、小瓶を渡す。にこりと笑うと、伊庭は歯で蓋を開け、迷うことなくそれを一気に飲み干した。一瞬だけ表情が苦痛に歪んだのが見えたが、すぐにの方に凭れ掛かって来た。

「僕は……武士で、あれたでしょうか」

 か細い声で伊庭が問う。

「トシさんたちの、ような……誠の、武士に……僕も……」

 腕を伸ばし、伊庭の肩を横から抱きかかえる。幼子にそうするように、眠りにつく幼馴染の肩を優しく叩く。

「ああ。あんたも、おれから見たら立派な武士だったよ」

 優しく告げる。
 呼吸は、もう聞こえなかった。


  ◆◆◆


 夜。千鶴や伊庭との別れを終えて、は奉行所を出た。夜明けと共に、町は戦場となる。先に弁天台場へと移動する許可は土方から得ていた。

さん」

 振り返ると、相馬が立っていた。

「戦いに行くんですか」
「行くよ」

 そう答えると、相馬は悔しそうに唇を噛んだ。

「どうしてあなたが……俺だって……俺だって戦えます!」

 相馬は土方から奉行所に残るように命令されていた。その時の愕然とした表情をも見ている。最後まで戦いたかった。命を懸けたかった。それを、土方は禁じたのだ。

「なあ、相馬」
「……はい」
「おまえにこういうこと言うのは酷なのはわかってるんだけどさ」

 は相馬に向き合って微笑んだ。

「生き残れよ」
「え……?」
「そして、千鶴のことを頼んだ」

 相馬の表情が歪む。は視線を逸らした。

「おれは女だ。死んでいったみんなのように、男同士の約束だなんて言えない。それでも……おれは、おまえに託してみたい」

 雪村千鶴という、自分の命よりも大切な人を。生き残ることになる、相馬主計に託す。流山の長岡邸での脱出も相馬に託した。これが二度目だ。相馬は二度の失敗はしない。は、そう信じている。

「まあ、結果を見ることはないんだろうけど」

 きっと、自分はこの戦いで死ぬから。

「だめです……だめです! あなたが死んだら、雪村先輩がどれだけ悲しむか!」
「あっはっは!」

 相馬の必死の説得を、は笑い飛ばした。

「なめるなよ、相馬。千鶴はおれの親友だぞ」

 自分のことをよくわかっている。だから、彼女は涙を堪えて送り出してくれた。もう二度と会うことはないのに、「いってらっしゃい」と。

「なあ、相馬」

 相馬は答えない。

「おれは、誰にも千鶴のことを任せようだなんて思ったことはなかった。組長たちはいい、あの人たちはおれより強かったからな。信用もしてたし、任せても大丈夫だって思ってた」

 は相馬に近付き、手を伸ばした。くしゃりと髪を撫ぜる。

「だから……よく追いついて来たな」

 相馬が顔を上げ、目を見開いた。
 その言葉がどれだけ嬉しいものか、は知っていた。自身が、言われた言葉だったから。

「千鶴を頼む」

 顔を覗き込んで、は笑みを浮かべた。相馬は涙を堪えるように顔を歪ませ、そしてこくりと頷いた。

「……はい」

 は最後に相馬の肩を叩いた。背を向ける。

「今まで、ありがとうございました」

 振り返ると、深々と頭を下げている。

「元気でな」

 はひらりと手を振り、歩き始める。
 もうこの場所に戻って来ることはない。もう彼らと会うことはない。別れは済んだ。
 自分は、死地に向かう。