明治二年四月。大軍を率いて新政府軍が攻め込んで来た。情報整理、武器弾薬の補充、人員の配置。土方の仕事は多く、頭を使う仕事のできないは物を運んだり、時に土方に無理やり休息をとらせたりと、慌ただしかった。
 土方の予想通り、新政府軍は乙部から上陸し、今は松前口と二股口に兵を進めているとのことだった。こちらも出陣の準備を整え、迎撃に向かうことになった。
 松前口に詰めている部隊は大鳥が率いている。二股口は土方の部隊だ。は土方の部隊について行くことになった。だが、二股口での戦いは善戦していたものの戦力差はどうしようもなく、敗北は目前だった。
 そんな夜のこと。土方は酒壺を持っていた。

「ここが正念場だ。気張ってくれよ。休みらしい休みも取れねえが、酒の一杯くらいは呑ませてやるからよ」
「あ、ありがとうございます!」

 兵の一人一人に声をかけ、微笑みながら酒を振舞っていく。陸軍奉行並が手ずから酒を注いでくれる。これはとんでもない待遇だと兵士たちは恐縮した。

「もっと呑ませてやりてえんだが、いつ戦いが始まるかもわからねえしな。敵が攻め込んできた時に、酔っぱらっちまってたら笑い話にもならねえ」

 土方は笑う。

「だから、今は一杯だけで我慢してくれ。戦いが終われば浴びるほど呑ませてやるからよ」
「我慢だなんて、とんでもないです!」
「また酒にありつく為にも、全力を尽くします!」

 そんな笑い声を背後に聞きながら、は最前に胡坐をかき、望遠鏡で遠くを見ていた。今のところ敵兵の姿はなし。せめて今は奇襲が来ないようにと祈った。



 土方の声がした。兵士たちに酒を配り終えたのだろう。

「酒はいりませんよ」

 目を向けずに答える。

「あ? おまえ下戸だったか?」
「土方さんと同じなんで」
「てめえ」

 土方が近くの木の根元に腰を下ろす。

「休んでていいですよ。何かあったらすぐ起こします」

 が望遠鏡から目を離し、それでも遠くを睨む視線を変えずに言う。

「……そうだな。少し休むか」

 遠くで兵士たちが騒いでいる。土方さんは良い人だとか、陸軍奉行並は最高だとか、ずっとついて行きたいとか、聞き取れるだけでもそんな言葉が聞こえる。

「土方さん、変わりましたね」

 が言う。

「なんだ、急に」
「鬼の副長が、部下に手ずから酒を振舞うなんて、考えられなかったでしょ」

 少なくとも、京で土方が隊士に酌をしているところなんて見たことがない。

「それとも、こっちが素の土方さんですか?」
「……」

 土方はしばし無言だった。答える気がないのだろうと、は気にしなかった。

「昔な、近藤さん以外に芹沢さんって人も局長だったんだ」

 がようやく土方に目を向ける。敵兵がいる方を見つめたままの、端正な横顔がそこにあった。

「浪士組の頃の話ですか」
「ああ」

 も昔、伊東から聞いたことがある。もう一人の局長の話。彼らが殺した、誰も語らない、もう一人の局長、芹沢鴨。

「苛烈な人だった。よそから金は借りて来るし、暴力は振るうし、どこに行っても問題を起こすし……毎日毎日知恵を絞って、どうやって芹沢さんを出し抜くか、それだけを考えてた時、あの人は言ったんだ。……本気で近藤さんを押し上げてえんなら『鬼になれ』ってな」

 土方は目を閉じてひとつ息を吐く。

「その言葉通り、おれは芹沢さんの命を奪った」

 目を開けた土方は、こちらを見ず、かといって敵陣を見ているわけでもなく、もっと遠くを見つめているように見えた。

「……思えば、俺が最初に受け取ったのは、あの人から託された荷物だったのかもしれねえな」

 託された荷物。託された思い。託された志。重いそれらは、生きている人間の肩や背にのしかかって来る。だが、誰も捨てない。担いで、背負って、繋いでいく。まるでその「火」を消さないように、絶やさないように、大事に大事に繋いでいく。

「余計な話したな」

 そう言うと、土方は再び目を閉じる。

「少し寝る」
「……おやすみなさい」

 そう言って、は前方に視線を戻す。

「鬼、か」

 近藤を押し上げるための土方は、その言葉の通り「鬼」であり続けた。厳しい鬼の副長であり続けた。だが、近藤はもういない。鬼である必要がなくなった。だから、本来の土方に戻ったということなのだろう。鬼であった時も部下思いではあったが、それを押し殺して厳しくあろうとしていたのだと気が付く。優しい土方は、一体どれだけの苦痛を味わいながら、鬼になろうとしたのだろう。

「まあ、前の土方さんも今の土方さんも嫌いじゃないですけどね」

 小さく笑って呟く。自分に覚悟をくれた。自分を隣に置いてくれた。だから、最後まで自分が戦う姿を見ていて欲しいと言ったのだ。あの言葉に嘘偽りはない。
 土方が咳払いをする。

「あれ、寝たんじゃなかったんですか」
「寝るから静かにしてろ馬鹿野郎」