春はまだ遠い。雪がちらつくある午後のことだった。窓の外を見ると、1人で雪の中立っている千鶴を見つけた。首を傾げ、も外に出る。
「こんな寒い中で何してるんだ?」
「あ、ちゃん」
千鶴が振り返る。頬が赤くなっていて、随分と長い間外にいたことが伺えた。
「この雪がある間は平和な日々が続くんだなって思ったら、ちょっと恋しくなっちゃって」
そう言って空を見上げる千鶴に倣って、も空を見上げた。雪雲は不思議だ。雨雲と違って重くない。太陽の光を微かに通すような白い雲を見上げて、は「そうだな」と返した。
雪がある間は新政府軍が攻めて来ることはない。だが、この雪はいつか溶ける。いつまでも今の平和な日々が続くわけではないことは、も千鶴もよくわかっていた。
「平和か。呑気なものだな」
ここにあるはずのない声が聞こえ、二人は視線を移した。雪を踏みしめて歩いて来るのは風間と天霧、不知火の三人だった。
「おまえら!」
千鶴を背後に隠し、が刀に手をかける。
「ハッ、わざわざ蝦夷地まで来たのか、ご苦労なこったな」
「貴様こそご苦労だったな番犬。今までよく我が伴侶を守り通した」
「千鶴はおまえのものじゃねえんだよ!」
千姫は言った。風間は千鶴を嫁にし、より強い鬼の子を生むために連れ去ろうとしていると。女鬼は貴重だから、連れ去ろうとしているのだと。
「連れては行かせねえ。おまえはここで、おれが殺す」
「ほう、鬼を殺すとのたまうか。人間の小娘の分際で」
風間は口元に弧を描いた。そして刀を抜く。
「いいだろう。どの程度腕を上げたのか見てやろう」
も刀を抜いた。
「だめ、ちゃん、今土方さんを――」
「いい。離れてろ千鶴」
服の端を掴む千鶴の手を払って、は地面を蹴った。鋼がぶつかる音が雪空に響く。一太刀。それだけで、風間は愉快そうに笑みを浮かべた。
「ふむ、なるほど。遊んでいたわけではないようだ」
ふっと短く息を吐き、は続けて攻める。剣戟の音が響き渡る。風間がの一撃を大きく弾いた。は後ろに跳んで体勢を立て直す。そこに風間が踏み込んだ。
「っ!」
首元を狙われた一撃を、見切って刀で剣筋を逸らす。薄皮が弾けて血が流れた。
「終わりだ」
に向かって風間が刀を振り上げる。千鶴が息を飲む声が近くに聞こえた気がした。それは受け止められない。受け流すこともできない。ならば、避けろ。そして攻めろ。――速く、速く! は地面を強く蹴った。
「なにっ!?」
二歩では風間の背後に回り込んだ。の横薙ぎの剣を、風間は寸でで避ける。切っ先が前髪を散らした。
風間が目を瞠る。……初めて風間に剣先が届いた。
「そうか……雪村千鶴の血を得ているのだったな。人間が鬼の真似事とは……所詮は紛い物と変わらぬ」
「その紛い物に前髪斬られた気分はどうだよ」
風間が不快そうに眉を寄せた。
大丈夫、まだいける。と風間が踏み込むのは同時だった。強い斬撃を受け流し、は傷を増やしながら風間に一撃を見舞おうと斬りかかる。
「ぐっ!」
風間の刀がの脇腹を裂いた。
「ちゃん!」
千鶴の悲鳴が聞こえる。は後退し、呼吸を整えた。ぼたぼたと地面に血が落ちる。ふらつきながらも再び刀を握る。
「貴様、傷は治らぬのか」
風間が怪訝に問いかけた。
「羅刹とは違うから、すぐには治らねえよ」
そう答えて、は再び踏み込んだ。何度も何度も、折れる程の力で振り下ろす。すべて風間に受け止められる。風間を相手にするにはこんな中途半端な速さではだめだ。こんな中途半端な力ではだめだ。せめてもっと速く。一瞬でも速く。切っ先だけでもいい。届け、届け!
「届けッ――!」
の鋭い刺突が風間に届く。
「くっ!」
切っ先が風間の頬を掠った。風間が後退し、驚いた顔で自身の頬に手を当てた。指先についた血を見る。
「げほっ、げほっ!」
刀を地面に突き刺し、口から血を吐き出した。傷による血ではない。羅刹化の反動だ。こうして、明確に寿命が削られて行く。は口元を拭って再び刀を握る。ただ立っているだけで、傷口から流れる血が地面に赤い華を咲かせた。
風間は真っ直ぐにを見つめ、そして刀を下ろした。
「紛い物の鬼にすらなれなかった娘よ。名を聞いてやる」
は刀の構えを解かずに答える。
「」
白い息が共に吐き出された。
「。貴様はなにゆえ戦う。くだらん武士道のためか」
風間が問う。
「武士道なんて知らない」
風間を睨みつけ、は言う。
「おれが戦うと決めた。どんなに無様な生き様になろうとも、最後まで諦めないと決めた。足掻くと決めた」
自分は武士ではない。だから、潔く美しく死のうだなんて思っていない。諦めずに戦うと決めた。皆が来れなかったこの地で、最後まで戦うと決めた。
「おまえは敵だ。だから戦う。それだけだ」
そう言って、は地面を蹴った。再び羅刹化し、踏み込む。先程と同じように斬りかかろうとすると、急に風間の金の髪が白くなった。それを視認するが早いか、の刀は簡単に受け止められ、そのまま薙ぎ払われた。は雪の地面に勢いよく転がった。
「ちゃん!」
千鶴が駆け寄った。血を吐きながら起き上がろうとするに手を貸す。風間の髪は元の色に戻っていた。
「雪村千鶴。貴様はなぜそこにいる。鬼が人と共に生きようとでも言うのか」
「そうです」
千鶴は風間を睨みつけ、答えた。
「私は、ちゃんやみんなとずっと一緒にいたい。一日でも、一瞬でも長く一緒にいたい。命をかけて戦うみんなの姿を、この目に焼き付けたい」
を支える手に力が込められる。
「だから、あなたたちとは一緒に行けません。私には、まだここでやらなければならないことがあるから」
「おまえの故郷を滅ぼしたのは人間だ。おまえは綱道や南雲薫すら捨てて、そいつらと共に生きるというのか」
千鶴は俯く。綱道が死んだことも、南雲が死んだこともまだ記憶に新しい。二人とは共に行くことはできないと訣別をした。
「それでも私は、みんなと共に生きます」
千鶴ははっきりと言う。
「それが、私の戦いです」
が再び立ち上がり、刀を構えた。千鶴も立ち上がり、の背後で風間を睨みつけた。そんな二人をしばし睨みつけると、風間は息を吐いて、刀を鞘に納めた。
「……帰るぞ」
「よいのですか、風間?」
黙って成り行きを見ていた天霧が問う。
「よい。人の世に染まり過ぎた鬼など、興味がなくなった」
風間はそう言うが、はそれでも刀を下ろさなかった。ふと、風間がに目を向ける。
「時に。貴様、薄墨桜を知っているか」
が怪訝に眉を寄せる。
「桜?」
「散り際に薄墨の色になる桜だ」
知らなかった。桜は咲いてから散るまで、同じ色であり続けるものだ。そんな桜があるのだと初めて知る。
「貴様はまるでその桜のようだ、薄墨の娘。紛い物は己の寿命を削りその力を使う。なりそこないなら尚のこと」
風間が真っ直ぐにを見る。
「桜のように儚い命で、最後まで足掻いてみせろ」
はようやく刀を下ろした。
「言われるまでもねえよ」
真っ直ぐに見返し、が言う。
「おれは儚く散ったりなんかしない」
自分は桜ではないし武士でもない。だから、潔くも儚くも散ったりしない。
その言葉を聞くと、風間は身を翻した。
「よお、こいつをおまえにやるよ」
不知火が軽い足取りで近付いてくると、彼の得物ではない一本の槍を差し出した。血の滲んでいるその槍には見覚えがあった。千鶴が受け取る。
「これ、原田さんの……」
「確かに渡したからな」
不知火がそう言って背を向ける。
「ありがとうございます、不知火さん」
きっと原田のことを看取ってくれたのだろう。礼を言う千鶴に、不知火は一瞬足を止め、肩を竦めて歩き出した。
「。あなたも今のように力を使い続けるなら、そう長くは持たないでしょう」
天霧が言う。
「後悔しない戦いを」
「……わかってるよ」
言われるまでもないことだ。の答えに満足し、天霧は頭を下げ、先を歩く二人の後を追った。完全にその姿が見えなくなるまで、二人は無言のままだった。
が刀を納める。そして、その場に膝をついた。
「ちゃん!」
「大丈夫、ちょっとくらくらするだけ……」
千鶴の肩を借りて屋内に戻ろうとすると、ちょうど相馬と野村に見つかり、相馬が逆側からを支え、野村が土方のところに状況報告に向かった。
部屋で千鶴に手当を受ける。なりそこないの羅刹の傷はすぐには癒えない。数日は不自由な生活だなと思いながらは欠伸をした。
コンコンとドアがノックされる。はーい、とが返事をすると土方が入ってきた。そして、包帯が巻かれた状態で服は半分ほどしか着ていないを見て額を押さえた。
「おまえな……開けちゃいけない時は返事するんじゃねえ」
「別にだめじゃないですけど」
「ちゃん、服着て。お願い」
仕方ないとぶつぶつ言いながらはシャツの釦を留める。別に見られても減るものじゃあるまいし。でも、原田がこういうものは減るんだと言っていたことを、槍が視界に入って思い出す。
「雪村、八郎がのことを心配してたんだ。状況を説明してきてくれるか」
「あ、はい。わかりました」
千鶴は頷くと、部屋を出て行った。と土方の二人だけになる。
突然、土方がの両頬を片手で鷲掴みにした。
「おまえは! 何度言えば俺の言うことを聞くんだ!? 風間とやり合うのも羅刹化も禁止だっつっただろうが!」
「ひゃっへ」
「だってじゃねえ!」
頬を解放され、両手で頬を押さえる。は不満そうに口を尖らせた。
「ここでおまえを失うわけにはいかねえんだよ」
土方が小さく言った。が顔を上げる。それは、多くの仲間を失って来た男の顔だった。は溜め息をつく。
「大丈夫ですよ、おれそう簡単には死なないんで」
「包帯まみれでどの口が言いやがる」
「だから生きてるでしょ」
心配げに言う土方に、は不敵に笑ってみせる。
「見ててくださいよ。儚くなんて散ってやりませんから。最後までおれは足掻きますよ」
足掻いたから、風間にだって剣が届いたのだから。まだまだ足掻いて、戦い続ける。
そう言うを見て、土方は息を吐く。
「そうかよ」
嬉しそうな声に聞こえたのは、きっと気のせいではなかった。