外に積もった雪は、太陽が降りそそいでも溶ける様子はなく、ただただ寒い日が続いていた。冷たい廊下を歩いて、は目的の部屋の前に着くと、西洋のノックというやり方でドアを叩く。自分から来ることは何度かあれど、呼ばれることはほとんどなかったと思う。入れ、と言われて土方の部屋のドアを開けた。
「失礼します……って、大鳥さんじゃないですか」
「やあ、君」
土方の部屋には既に大鳥が来ていた。は首を傾げる。
「おれのこと呼んでるって聞いたんですけど、後にしましょうか?」
「いい。おまえも話に加われ」
「はい?」
自分も入れる話とは、と思いながら陸軍奉行と陸軍奉行並の会話に加わることにする。
「さて、君も来たし本題に入るよ。……奴ら、来ると思うかい?」
大鳥の言葉に、土方は頷く。
「来るさ。雪が溶ければ、すぐにでもな」
「ああ、新政府軍ですか。来るでしょうね」
話の内容を理解し、は頷く。
「二人が言うなら、間違いないな。実はね、僕も同じように考えていたんだ。榎本さんは話し合いで解決したいらしい。でも、僕はまず戦争になると思ってる」
大鳥が真剣な表情で言う。
「戦いになるだろうな。新政府が俺たちを見逃すとは思えねえ」
「新政府軍はなんとしてもおれたちを壊滅させたいと思うから、話し合いなんて言ってる場合じゃないと思いますよ」
も土方に同意する。
「榎本さんたちは反対するだろうが……俺たちは春までに戦支度を済ませておくべきだな」
土方が言うと、大鳥が笑みを浮かべた。
「その辺りは心配しないでくれ。根回しは済ませておくよ」
「さっすが、大鳥さん、頼りになるー!」
「はは、ありがとう」
が茶化すと、大鳥は笑った。
「しかし……この蝦夷に来て、あんたと意見が合うとは思わなかったな」
「そうだね。今だから言うけど、最初に会った時は面食らったよ」
宇都宮の手前で新選組は伝習隊と合流したという。その時のことだろう。
「そりゃ、こっちの台詞だ。いきなりシェイクハンドがどうのって言われた時は、どうしようかと思ったぜ」
「えっ、土方さん、大鳥さんと握手したんですか?」
「してねえ」
「僕は生まれつきの武士じゃないからね」
「俺もだよ。元々は多摩の百姓の倅だし、こいつにいたっては女だしな」
は頷く。
「でも、そんな君たちが今は誠の武士として皆の尊敬を集めている。生まれなんて関係ないさ。大切なのは志だよ」
大鳥が言う。
「僕たちは、自分が信じるもののために戦う道を選び取った。自らの足で歩んできた道の先が、今に続いてたってだけの話さ」
「何があろうと、俺たちの志は絶対に折れねえ。死力を尽くして最後まで挑み続ける」
はまた頷いた。最後まで戦い続けるために来た。新選組の行く末を見に来た。たとえその先にあるのが死への道だったとしても、自分は歩みを止めるわけにはいかなかった。だって、託された思いがたくさんある。
「同意するよ。邪魔したね」
そう言って、大鳥は部屋を出て行った。
「で、おれに用ってなんですか?」
「ああ」
土方は机の脇にあった冊子をの前に置いた。
「これをやる。この辺一帯の地図だ。頭に叩きこんどけ」
言いながら、土方は冊子を広げた。五稜郭を中心に、箱館や周辺の地域の広域地図だ。
「いいか。この地図を見て、おまえ、敵はどこから攻めて来ると思う」
考える。海から来るのは当然だろう。問題はどこに上陸するかだ。
「松前?」
「いい勘だが、松前は既に俺たちが落としてある。新政府軍がこの蝦夷地を攻め込むなら、乙部や江差のあたりから上陸するだろう」
地図を指さし、土方が言う。なるほどと思いながらは頷く。
「でも、黒船も来るでしょ?」
「ああ。港にゃ遠洋から砲撃を加える」
「挟み撃ちですね」
は素直に感想を述べる。
「開陽丸はもういないし、海での戦闘は絶望的か。上陸した方をなんとかするしかないですね」
開陽丸は榎本艦隊の旗艦だったが、江差攻略時に座礁して沈没してしまった。海上での戦闘は残りの艦では太刀打ちできそうにない。
「海での方もなんとかなるように考えはするが、基本は乗り込んで来た奴らとの戦闘になるだろう」
土方が地図を睨む。
「この五稜郭が最後の戦場になる」
が土方の横顔を見た。
「千鶴を相馬の小姓にしたのは、あの二人を生かすためですか?」
がずっと疑問だったことを問う。
「おまえと野村もだ」
土方は机に向けていた体をの方に向け直す。
「俺はここで最後まで戦う。それにおまえたちを付き合わせる気はねえよ」
は土方にじとりと目を向け、はあ、と長い長い溜め息をついた。土方が眉を寄せる。
「何だ。別に自棄になって言ってるわけじゃねえぞ」
「いや。土方さんって馬鹿ですよね」
「あ?」
は机の上の地図を手早く片付けると、脇に抱えた。
「おれたちはとっくに浅葱の死に装束着てるんです」
ドアを開けてもう一度振り返る。
「おれたちの覚悟、なめてると痛い目見るのはそっちですよ」
土方に向かってそう言い切ると、はバタンとドアを閉めた。そして足を止める。
「立ち聞きか?」
「通りかかったらあなたの声が聞こえたので」
伊庭が立っていた。溜め息をついて、歩き出す。伊庭が後を追いかけて来た。
「あなたはここで死ぬつもりなんですか?」
「八兄はここで死ぬつもりなんだろ」
「今はあなたの話をしています」
「千鶴はどうするんだよ」
言葉は返ってこなかった。伊庭が死ぬ気で蝦夷地に来ていることはわかっていた。片腕を失って尚、ここで最後まで足掻いて死ぬつもりなのだ。そうでもなければ、後から追いかけて来るなんてことするはずがない。
「……千鶴ちゃんへの気持ちは、心にしまったままにしようと思っています」
伊庭が目を伏せた。そしてに目を戻す。
「あなたは彼女を一人きりにするつもりなんですか?」
綱道が死んだことは既に伝えていた。千鶴は生き残るだろう。も伊庭もここで死ぬつもりで戦う。死んだら、千鶴は一人きりになる。親友も父も幼馴染もいない、江戸で一人で暮らすことになる。
「おれは、千鶴のために生きてるわけじゃない」
はっきりと言いきったに、伊庭は目を見開いた。
「……って、ようやく言えるようになったんだよ」
が苦笑する。すべて千鶴のためだった。この命も、この剣も、すべて千鶴のために存在していた。自分の存在意義が彼女だった。だが、それは間違いだったのだと気が付いた。自分のすべてを千鶴に押し付けて満足していた。自分の足で立っていなかった。
「おれは、ようやくおれ自身のために生きるようになったんだ」
自分で新選組の行く末を見たいと言った。皆の志を、思いを託され、それを背負って戦うと誓った。最後の新選組新入り隊士であり一番組の隊士として、沖田総司の弟子として、この地でこの命ある限り戦うのだと決めた。それは、初めてが自分自身のためにやろうとしていることだ。千鶴は関係ない。が、のためにやり遂げると決めた。それを自覚してから、なんだか心が軽い。
「まあ、死ぬ気で戦うつもりだけど、まだ死ぬ気はないよ」
視線を正面に戻しては言う。
「その時が来たら、ちゃんと千鶴に伝えるから」
いつか、その時が来たら。戦いに行くのだと彼女に告げる。泣かせない自信はないけれど、彼女が送り出してくれると、自分は信じている。
「……そうですか」
伊庭はそう言って頷いた。
「大坂であなたが言ったことを覚えていますか? 武士とは何か、まだわからないのだと」
「言ったな」
「答えは出ましたか?」
「自分なりには」
「僕が聞いてもいいですか?」
が足を止める。伊庭も倣った。
「武士とは志のことだと思った」
「志?」
「そう。それは諦めない心。何かを成そうとする心。刀を持って最後まで走り続ける覚悟のこと。託して、託されて、そうして多くの人に繋がっていくもの」
窓の外に目を向ける。雪が降っていて、真っ白だった。
「武士ってのは身分のことだし肩書のことかもしれないけど、おれはそうじゃないと思った。だって、新選組はそんな集まりじゃなかったから。新選組こそ、おれは本当の武士だと思う。誠の武士を掲げたみんなの志が……おれには、眩しかった」
目を閉じる。別れ際に最後まで笑っていた彼らは、きっと満足した生き方ができたのだろう。その生き様が、自分にはとても羨ましくて。一際大きく輝いて、散っていく様が美しくて。彼らを武士と呼ぶなら、自分も武士になりたいとさえ思った。彼らと同じように生きたい。そう思って、自分はこの蝦夷地にまでやってきた。
「わかる気がします」
伊庭から肯定の言葉が返って来て、は目を向ける。
「トシさんもまだ戦うつもりでいる。そんな新選組がいるこの軍なら、もしかしてと思うんです。もしかしたら、勝てるのではないかと。……たとえ負けたとしても、僕たちは武士として死ねるのではないかと」
伊庭が眉を下げて笑う。
「わかりました。あなたの意思を尊重します。たくさんのものを背負って、すべて理解してここで尚戦おうという新選組の隊士に対して、戦から退けというのは無理な話ですね」
右手を差し出された。がその手を見つめる。
「共に戦いましょう」
いつだって、共に戦うに値すると評価されることは嬉しくて。隣に並んでもいいのだと言ってもらえたようで。
「おう」
は握手ではなく、差し出されたその手のひらを叩くようにして合わせた。