翌日、土方の案内で港へと向かう。大きな黒船が停泊しており、旧幕府軍の船だと土方は言った。
「蝦夷地に着いたら、存分にこき使ってやるからな。覚悟しとけよ」
土方が笑いながら言う。
「もちろんです。なんでも申し付けてください」
「待ってました! ここまで来たら、地獄の底までお供しますよ!」
野村の言葉を聞いて、相馬が眉を寄せた。
「地獄の底って……もう少しいいたとえはないのか? 縁起が悪いだろ」
「んなことはねえさ。俺たちの隊服――浅葱の羽織の色は、死に装束の色だしな」
「死に装束の色……」
が呟く。
――へえ、案外似合うじゃない。
初めて隊服を通したのは、池田屋の時だった。そうか、と思う。もうあの時に決まっていたのだ。――自分が、ここに来ることは。
旧幕府軍の船に乗り込む。甲板で、は千鶴と一緒に陸が遠ざかるのを見ていた。
「江戸から京に行ったのが始まりだったのに、まさか蝦夷地にまで行くことになるとはなあ」
「そうだね」
千鶴が長い髪をなびかせながら頷いた。
「長い旅だったな」
「うん……」
千鶴の父を捜すのだと言って京に行って。その晩、羅刹と新選組に出会って。それからずっと、こうして彼らと共にいる。は新選組に入隊したことを、千鶴に既に話をしていた。
「まったく、おまえらはこんなところにまでついて来ちまいやがって。江戸に帰って、いい男でも見つけて静かに暮らしゃいいのによ」
「土方さん」
二人は歩いて来る土方を見る。仕方ないと言いたげに苦笑していた。
「何言ってるんですか、おれたちがいないと調子狂うでしょ?」
「ハッ、言ってやがれ」
土方がの隣に立って、船の縁に腕を乗せた。
「でもまあ、そうだな……雪村の煎れる茶がねえと机仕事も締まらねえし、の稽古の声が聞こえねえと物足りなくなっちまったな」
と千鶴は顔を見合わせ、笑みを浮かべた。自分たちも、新選組に必要な存在となったらしい。
「おれは多摩の百姓の家の末っ子でな。親父もお袋もわりと早くに亡くなっちまったから、四つ上の姉貴に面倒見てもらってたんだが」
「確か、沖田さんも早い頃にご両親を亡くされて、お姉さんが親代わりだったと……」
「ああ、ミツさんか」
千鶴の言葉に土方は頷く。
「あの人たちも、おまえらも、江戸の女はこえーなと思ってならねえよ。身内に叱られてるみたいで、言うこときかなきゃならねえような気にさせられちまう」
「私、土方さんにそんなこと言ったことありますか……!?」
「おまえも言うときゃ言うだろうが」
「おれも覚えがないなあ」
「おまえはどの口が言いやがる」
土方がの頭を押さえつけた。ぎゃーと言いながらは笑う。心当たりはありすぎた。
「土方君」
三人のもとに、見知らぬ洋装の男がやってきた。
「大鳥さん」
と千鶴は顔を見合わせて首を傾げる。聞いたことのない名だ。
「やあ、挨拶が遅くなってすまないね。君たちが土方君の言っていた女の子たちかな?」
二人がぎょっとする。
「は? おい、土方さん」
「いいんだよ。この人には知られてた方がいい」
が隣の土方の袖を引くと、土方は首を振った。知られても良い人間。信用に値する、幹部並の偉い人だろうかと思う。
「大鳥圭介。旧幕府軍伝習隊の隊長をやらせてもらっているよ」
そう言って大鳥は右手を差し出した。
「なんですかその手?」
「握手って言うんだ。西洋の挨拶でね。手の平を合わせて握り合うんだよ」
「はあ。こうですか?」
も右手を差し出す。ぎゅっと握って上下に軽く振られた。
「うん、よろしく。君が君かな?」
「はい、そうです」
「じゃあ、君が雪村君だね。よろしく」
「はい、よろしくお願いします」
千鶴も大鳥と握手をする。
「宇都宮の手前で新選組と伝習隊が合流して、隊長が大鳥さん、俺が参謀って位置づけでやってきたんだ」
「ふうん」
「そうだったんですか」
土方の説明に頷く。それだけ長い間一緒にいるのなら、互いのことはもう十分にわかっているのだろう。
「君たちが性を偽って隊にいるのは聞いているよ。まあ、性別なんて関係ないからね。出来る人間が上に立つように世の中は出来ているんだから」
大鳥が軽い調子で言った。
「それも西洋の考え方ですか?」
「そう。だから、僕は君たちを歓迎するよ」
千鶴の問いに大鳥は頷いた。
「君は大層腕が立つと聞いているから、うちの部隊の稽古も頼みたいな」
「え? おれが教えるんですか? 伝習隊って幕府の精鋭部隊だったと思うんですけど。おれなんかの稽古が必要とは思えないんだけどなあ……」
が頭を掻く。精鋭部隊ともなれば、銃器も刀も自在に扱えるはずだ。自分のような力量の人間の稽古が必要とは思えない。
「新選組の『誠』の志はこの先も途絶えさせるべきじゃないと僕は思う。だから、ぜひ新選組の一員である君に指導を頼みたい」
新選組の志。それを途絶えさせるわけにはいかなというのは同意見だった。
「うーん、そういうことなら……何を教えられるかわからないですけど」
が仕方なしに頷いた。
「榎本さんも会いたがっていたから、あとで紹介するよ」
「榎本さん?」
「誰ですか?」
「この艦隊を幕府からぶんどって来た、とんでもねえ人だよ」
土方の説明に二人は固まる。この艦隊は全部で七艦ある。それを旧幕府軍から奪って来た人物が会いたがっているというのは、あまり心穏やかな話ではない。
「とっても偉い方なのでは……?」
「気さくな人だから大丈夫だよ」
千鶴が不安げに言うと、大鳥が笑った。
「そういや、どこかの船に遊撃隊が乗ってるはずだ」
土方が言う。
「遊撃隊って、八兄がいるってことですか?」
「えっ、伊庭さんが?」
二人は顔を見合わせる。
「無事だといいけどな……」
「うん……」
伊庭と再会した時、なんでもない顔で「久しぶり」と言って欲しかった。ただ、それだけを願った。
船が陸から離れてしばらく経った。日も落ちて、甲板には数人の兵士たちが座り込んでいる。も同じように、甲板で一人夜風に当たっていた。
「眠れねえのか」
振り返ると、土方が歩いて来た。
「土方さんもですか……って、このやりとり前にもしませんでした?」
「した気がするな」
鳥羽伏見の戦いで敗北し、大坂から江戸へと帰る時。あの時とさほど変わらない海風は冷たく、は腕を擦った。まるで暖めるように、土方がの隣に立った。
「勝てるかどうかって不安になってる兵もいますね」
がぽつりと言う。船のあちこちで兵たちが囁いている。本当に勝てるのか。蝦夷地で戦ったことなんて誰もない。向こうも敵地だ。行って本当になんとかなるのか、と。
「戦意のある奴らに悪い影響にならないといいけど」
「不安に思うのも無理はねえ。ここまで敗戦続きだったからな」
が隣を見る。暗闇で見えない水平線を睨むようにしている土方の目から、戦意は消えていない。ふっとは笑った。
「大坂で土方さんが言ったこと覚えてます?」
はそう問いかける。
「敗北を味わおうが、傷つこうが、仲間を失おうが。刀が折れても、一敗地に塗れても。泥を啜ってでも戦い抜くって」
「ああ、言ったな」
「その言葉は、今も変わりありませんか?」
土方がを見る。は土方を真っ直ぐに見上げていた。
「変わらねえよ」
土方が答える。
「敗北なら味わった。傷だって負った。仲間も失った。――それでも、俺は戦うのをやめるつもりはねえ」
がにこりと笑う。
「ですよね。そうこなくっちゃ」
が土方の腕を拳で殴る。いてえよ、と文句を言いながら土方は笑った。
「そういや聞いてなかったが……おまえ、家族はどうしたんだ。江戸にいるんだろ」
今更な問いかけだなと思いながら、は船縁に両手を置いた。
「ちゃんとお別れしてきましたよ。おれはもう帰らないって」
この筒袖を着て。父と母に、ちゃんと別れを告げて来た。
「骨は蝦夷地に埋めます」
ここが最後の地になるから。
「勝手に死ぬ気になってんじゃねえよ」
「死ぬ気で働くって意味ですよ」
数日後、蝦夷地鷲ノ木に上陸する。大鳥軍と土方軍に分かれて進軍。五稜郭へ向かった。先陣の榎本が蝦夷地開拓と北方警衛を許すように嘆願書を届けに向かったが、新政府軍に攻撃されて開戦した。
新選組は大鳥を隊長にして配置されたが、と千鶴が土方に付き添った。各地を転戦し、箱館の五稜郭に無血入城を果たす。
それから、土方を総督とした松前攻略軍が出陣する。出陣する兵の数は七百。松前城は松前藩の中核であり、藩はつい先日新政府軍側についたばかりだという。土方は松前城の弱点を見抜き、一日で松前城を攻略した。
その後江差に向かうが、援軍に箱館港からやってきた榎本艦隊の旗艦である開陽丸が、江差制圧後に座礁するという事故があった。開陽丸に乗ってきた榎本は、唖然としながら沈みゆく開陽丸を眺めたという。
こうして旧幕府軍は箱館周辺の主要な拠点を制圧し、蝦夷共和国を立ち上げることなった。
明治元年十二月十五日のことだった。