土方たちは会津に向かっている。一刻も早く合流したいと思えど、江戸城が新政府軍に明け渡されることになってから、どこの関所も厳しく見張られていた。さりげなく散歩を装ってが千鶴の着物を着て各所を歩き回っているが、抜け出せそうな場所が未だ見つからない。町の中でも新政府軍の姿をよく見かけるようになった。そんな四月末のこと。
 買い物に出ていたと千鶴は、上野で戦いがあったことを知る。彰義隊という慶喜公の警護などを目的とした、江戸市中取締の任を旧幕府より受けて江戸の治安維持を行っていた隊が、新政府軍から攻撃を受け敗北したのだという。彰義隊は抗戦派の幕臣や一橋家家臣などの武士で構成されていたらしい。そこに新政府軍に対抗しようとする武士たちが集まっていたようだ。

「永倉さんと原田さんが彰義隊にいないといいけどな」
「うん……」

 二人はそんな話を小声でしながら、帰り道を歩いていた。そこで、人が大勢集まって言うのを見つけて足を止めた。

「人だかりができてるな」
「何だろう……」

 二人が首を傾げる。何かが起こっているなら見に行くべきか。だが、は刀を持って来ていない。あの人だかりで何かがあった時に、千鶴も自分の身も守ることができない。

!」
「げっ」

 聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、は顔を顰めた。人だかりから出て来たのは母だ。

「おい、大声で呼ぶなよ。つーか、別れの挨拶はしただろうが」

 が渋い顔で言う。丁寧な言葉遣いなどしたことのない自分が、親に対してそんな言葉で別れを切り出したのだ。こんな早くの再会は願っていなかった。

「そんなことより、瓦版見た!?」
「瓦版?」

 首を傾げる。どうやら、あの人だかりは瓦版を配っているらしい。

「これ、一枚あげるわ……あなたたちも持っていた方がいいと思ったから、まだいるなら診療所に届けに行こうと思っていたの」

 そう言って母はに一枚の紙を渡した。が受け取って目を通す。

「何だって言うん――」

 言葉は途中で止まった。

ちゃん?」
「……嘘だろ」
「何が書いてあるの?」

 が無言で千鶴にも見えるように瓦版を傾ける。

「……うそ」

 ――新選組局長近藤勇、板橋ノ刑場ニテ斬首セリ

「大声を出すんじゃありませんよ、二人とも。新政府軍に見つかってしまうわ」

 母が周囲を気にしながらと千鶴に声をかける。

「……千鶴、帰ろう」

 震える声でが言う。

「相馬と野村にも、伝えないと……」
「うん……」

 そうして二人は足早にその場を立ち去ろうとする。


「なんだよ」

 まだ何かあるのか、と振り返る。

「辛いと思うけれど……諦めないと決めたのでしょう?」

 母はそう言って笑みを浮かべた。

「頑張りなさい」

 は目を丸くし、同じように笑みを浮かべた。

「……ああ」

 頷き、今度こそ背を向けた。

「そうだな。頑張らねえと」

 そう呟き、二人は診療所への道を急ぐ。

「あ、雪村先輩、さん、おかえりなさい。敵兵に怪しまれずに済みましたか?」

 二人は無言のまま居間に入り、その場に座った。

「……何か、あったんですか?」
「近藤さんが……」

 千鶴が言葉を詰まらせる。

「読んだ方が早いよ」

 が瓦版を二人に渡した。二人はそれに目を通し、言葉を失った。

「なんだよ、斬首って……嘘だろ? だって局長は……」
「……」
「どういうことだよ、おかしいじゃねえか! 局長は大名になったはずなのに、どうして腹すら詰めさせてもらえねえんだよ!」

 瓦版には、近藤の首はこれから京に送られ、罪人として三条河原に晒されることになると書いてあった。

「敵は、我々が京でしてきたことをそこまで貶めたいんですか……!」

 相馬が床を殴る。

「それだけじゃない。上野で戦があったらしくてな、彰義隊って名乗る抗戦派の武士たちの集まりが、新政府軍に全滅させられたらしい。そのせいで詮議が厳しくなってるみたいだ」

 が告げる。

「急いで江戸を脱出しなければ、取り返しがつかないことになりますね」
「でも、江戸の関所は新政府軍に封鎖されてるから……」

 相馬と千鶴が俯く。野村が急に立ち上がった。

「二人とも、落ち込んでたってしょうがねえだろ! 探せば、警備が薄い所の一つや二つ絶対あるに決まってるじゃねえか! やる前から諦めちまってどうするんだよ!」
「野村の言う通りだ」

 が同意する。

「諦めねえぞ」

 低く唸るように呟いた言葉は、の誓いだ。諦めずに最後まで戦う。それが、今の自分の行動理由だ。

「……そうですね。何より俺たちには、しなきゃならないことがある」

 相馬はそう言って、井上真改を手に取った。近藤が土方へ託したもの。これを届けることが、近藤からの最後の指示だった。約束だった。
 今日のうちに江戸を出よう。四人はそう決めた。日が沈む頃に診療所を出る。は最後にもう一度だけ実家の方を見た。

ちゃん」
「ああ、もういいんだ」

 は顔を逸らす。そして、正面を向く。

「行こう」

 が既に調査はしていたが、改めて警備が薄そうな関所を探す。だが、どこも思っていた通り警備が手厚く、千鶴を守りながら三人で突破できるような様子ではなかった。

「む! そこの者、止まれ!」
「やべ、見つかった!」

 新政府軍だった。全速力で裏路地に逃げ込む。

「確か、こちらの方角へ逃げたはずだが……見失ったか?」

 路地裏で息をひそめていると、敵兵はぶつぶつと呟きながら立ち去って行った。

「はあ……びっくりした。今回はさすがに焦ったぜ」
「この格好じゃ、目立って仕方ないな。せめてどこかで和服を調達できればよかったんだが」
「そうだね……」
「うちの父さんの服貰ってくればよかったな……」

 自分の服だったら実家にあった。男たちの服も父の服を貰ってくればよかったのだが、あいにくとそこまで頭は回らなかった。

「このクソ猫! またゴミ箱を荒らしやがって!」

 猫が足元を駆けていく。誰かがそれを追いかけて来た。

「まずい、隠れねえと!」

 だが、遅かった。

「そこに誰かいるのか?」

 男だった。あ、と相馬が声をあげた。

「あんた、確かあの時の……!」

 そう言って相馬が姿を見せた。

「何だ、どこかで会ったか?」
「覚えてないか? 前に、あんたから新選組の絵を貰った――」

 相馬が言うと、男は手を打った。

「あっ、思い出した! 確か……相馬とかいったか。新政府軍の奴らが近くをうろうろしてたが、もしかしてあいつらが捜してたのって……」
「ああ、追われてるんだ」

 相馬が頷く。男は理解したようだった。

「とりあえず、ついて来いよ。ここで話してたら、新政府軍の奴らに見つかっちまうからな」

 男が先導して歩きだす。

「もしかして、井吹とかいう……?」

 が記憶の中から名前を引っ張り出す。相馬が新選組と関わるきっかけになった、羅刹を描いた錦絵。その作者の男なのだろう。相馬が頷く。

「行きましょう。少なくとも敵ではありませんから、安心してください」

 井吹の家に行くと、久しぶりの顔に出会った。

「千鶴、、相馬に野村……おまえら、無事だったのかよ」
「原田さん! なぜここに……!」

 そこには驚いた顔の原田がいた。相馬が問うと、原田は苦笑する。

「なぜも何も、龍之介はもともと知り合いだったからな」

 なるほどと思う。井吹の名前が出た時、幹部たちは安堵したような顔をしていた。やはり知り合いだったのだ。

「しかし、おまえらがまだ江戸にいるとは思わなかったぜ。てっきり、土方さんと一緒に会津に向かったと思ってたんだが」
「実は……」

 代わる代わるに、流山で近藤が投降することになったこと。板橋の陣屋敷から逃げ、千鶴の実家に隠れていたこと。近藤が斬首の刑に処されたことなどを話した。

「近藤さんが死んじまったってのは聞いてたが……俺も新八も、こんな結末を望んでたわけじゃねえんだがな」

 原田がそう言って目を瞑る。

「……我々も、力は尽くしたのですが」

 相馬が拳を握る。

「あまり、自分を責めるんじゃねえぞ。生きようと思ってねえ人間を助けることなんざできねえ」

 生きようと思っていない人間、とは呟く。近藤は、そうだったのだろうか。

「原田さんこそ、永倉さんと一緒じゃなかったんですか?」

 野村が問う。

「ん? まあ……色々事情があってな。彰義隊の奴らと一緒に、ついこの間まで上野にいたんだが……おまえらも知っての通りの結末になっちまってよ」
「彰義隊に……ご無事でよかったです、原田さん」
「まあ、何だかんだで俺はここぞって時の運はいいからな」

 ほっとしたように言う千鶴に、原田は笑みを見せた。井吹が眉を寄せる。

「何言ってるんだよ、あんた運はよくないだろうが。だって――」
「龍之介。もういいんだ、何も言うな」

 井吹の言葉を遮り、原田は首を振った。

「ここでおまえらに会ったのも、何かの巡り合わせってやつだな。おまえらが無事に江戸を出られるように、手助けしてやるよ」

 そう言って原田は膝を叩いて立ち上がった。

「えっ、いいんすか!?」
「大事な元後輩たちを見捨てるわけにゃいかねえからな」

 驚く四人の顔を満足気に見て、原田は笑った。

「おい、やめとけって! あんた――」
「いいんだよ、もう決めたんだから」

 井吹の言葉をまた遮る。が眉を寄せた。井吹は何を言おうとしている? 原田は何を隠している?

「本当にいいんですか?」
「ああ。ここでおまえらを見捨てたんじゃ、元新選組十番組組長の名が廃るぜ」

 すぐに出発することになった。原田も身支度を整え、愛用の槍を持つ。

「それじゃあな、龍之介。世話になったな」
「……前からわかってたことだが、あんた、本当に馬鹿だよな」
「自分でも頭が回る方だとは思っちゃいねえが……おまえに言われんのは、さすがに心外だな」

 原田が苦笑する。

「おまえが心配してくれてんのはわかってるんだがよ。ここでこいつらを見捨てちまうと、俺の生き方に筋を通せねえ気がしてな」

 そう言って原田は歩き出す。

「そんじゃあな」

 ひらりと手を振る。

「すまない、井吹」
「……お世話になりました」

 相馬と千鶴が頭を下げ、四人は原田の後を追いかけた。
 やることは同じだった。まだ回っていない関所を、今度は原田を含めて確認して回る。そして、千住にある関所にやってきた。相馬と野村に千鶴を預け、と原田が関所の周囲を見て回っていた。

「なんでここ、こんなに警備が手薄なんだ?」
「たぶん、彰義隊との戦いで出払っちまってるんだろう」

 なるほど、とが納得する。

。おまえ、顔つきが変わったな」
「は? 何も変わってないけど」

 が首を傾げる。

「なんつーか、すっきりした顔してる」

 そう言われ、思い当るものを見つける。

「あーうん。まあ。戦う目的というか、理由というか、そういうものを見つけたっていうか……」
「そうか」

 そう言うと、原田はの頭を撫でた。

「よかったな」
「うん」

 誰かに頭を撫でられるのは久しぶりだった。京にいた頃は幹部たちが皆子供扱いをしてきたものだが、今は先輩面をしなければならない。

「あ。あの道どうだ?」

 が指をさす。裏道を見つけた。

「お、行けそうだな」

 原田が同意する。

「でも、見つからないって保証はない……うーん」
「何考え込んでんだ。あの道以外にねえだろ」
「だって」

 戦いはなるべく避けたい。千鶴を守りながら戦うのも、原田がいるとしても心許ない。自分が羅刹化すればなんとかなるかもしれないが。そう思っていると、原田がの肩に手を置いた。

「何のために俺がついてきたと思ってんだ?」
「……」

 原田の言わんとしていることがわかり、はもう何も言えなかった。

「あっ……ちゃんに原田さん。どうでした?」

 三人のいる場所に戻ると、千鶴が尋ねてきた。

「向こうに、隠れて通れそうな裏道を見つけたぜ」

 原田が答えた。

「本当ですか!? それじゃ――」
「だが、絶対見つからねえって保証はねえ。奴らも、幕府軍の残党に備えてやがるだろうしな。……ま、囮でもいりゃ、話は別だが」

 三人が顔を見合わせる。その様子を見て、原田はふっと笑った。

「俺が囮になってやるから、おまえらはその隙に会津を目指せ」

 やっぱりそうだ。原田は、最初からこのつもりでついて来ていたのだ。

「原田さん、何言ってんですか!」
「そうです! 原田さんを犠牲にして、俺たちだけ逃げるなんて――」
「新選組を抜けた俺が、何のためにここまでついてきたと思ってるんだ? 格好ぐらいはつけさせろよ」

 原田は笑みを崩さない。

「ですけど……!」
「原田さん……もしかして、お怪我してらっしゃいますか?」

 千鶴が問いかける。えっ、と声が漏れる。そんな様子は見せてはいなかったのに。

「……気付かれちまったか。そういやおまえ、医者の娘だったな」

 原田が苦笑する。

「上野での戦いで怪我しちまってな。これじゃ会津まで行けそうもねえと思ってたが……最後の最後に、見せ場が残ってたってことか」
「そんな……!」

 怪我人を囮にしていくなんて。だが、原田は最初からそのつもりだった。だから、決意は固い。会津まで行けない程の傷だというなら、かなり深いはずだ。それなのに、その残り少ない命で、自分たちに血路を開いてくれるという。

「頼んだぜ、相馬、野村。二人を守ってやってくれ」

 後輩たちに向けての、最後の頼み。

「……わかりました。原田さんも、どうかご無事で」

 相馬が頭を下げた。

「雪村先輩、さん、野村。行きましょう」
「……ありがとうございます、原田さん」

 千鶴も頭を下げる。

「大丈夫っすよね? 死んだりしないっすよね? 原田さん、不死身ですもんね!?」
「おまえらがあんまり頼りねえと、あの世からゲンコツ食らわせにくるかもしれねえがな」

 原田が笑う。



 呼び止められて、振り返る。

「おまえが何を目的にしたのかは聞かねえが――戦い抜けよ。おまえの戦いを」

 拳を差し出される。

「あとは頼んだ」

 またか、と思った。皆、新選組隊士でもない自分に後のことを頼むと言う。託すと、そう言う。

「ああ、任せとけ。何があっても、おれは戦い続けるから」

 それこそが自分の戦う目的だから。笑みを浮かべて拳を差し出す。拳を合わせ、それを別れの挨拶とした。

「そんじゃ、最後にひと暴れしてくるか!」

 原田がそう言って、槍を構えて飛び出して行った。

「元新選組十番組組長、原田左之助、推参! 腕に覚えがある奴は、相手になるぜ!」

 の先導で、見つけた裏道へと四人は走る。走って、走って、森の中を走り続けた。

「……ここまで来れば、さすがに新政府軍の奴らも追ってはこねえかな」

 だいぶ関所からの距離は開いた。原田が暴れているなら、増援でも来ない限りはここまで追手が来ることはないだろう。

「そうだな、今日はここで野宿するか」
「おう! この辺りは結構寝心地がよさそうだしな」

 そう言って野村は腰を下ろす。

「俺、近くに敵がいないか見て来ます。雪村先輩のこと、お願いします」

 相馬が暗闇の中に消えていく。三人で待っていたが、しばらく経っても相馬は帰って来ない。

「あいつ、どうしたんだろうな? もしかして、途中で道に迷っちまったか?」

 千鶴が立ち上がった。

「ちょっと様子を見てくる。ちゃんと野村君はここで待ってて」
「なら、俺が行ってくるって」
「大丈夫だよ、すぐ戻って来るから」
「気をつけろよ千鶴」

 周囲に新政府軍はいない。相馬もきっとそれをわかって、見回りを申し出た。いろいろとあったから、彼も心を整理する時間が欲しいのだろうとは思った。そうなれば、自分が行くよりも千鶴の方がきっと優しい言葉をかけられるはずだ。
 そして、残った二人は――

「……」
「……」
「いや、なんか喋れよさん」
「はあ? こういう時なんか喋るのはおまえの役目だろ」

 お互いに擦り付け合う。不満そうな顔で睨み合うことしばらく。野村が、深い深い息を吐き出した。

「……俺、局長の供をするって言った時……本気であの人を守るつもりだったんだよ」

 ぽつりと、野村が語りだす。

「本気で、二人で生き残って、またみんなと合流するつもりだったんだ」

 俯いて、野村は呟く。

「なんで、こうなっちまったんだろうなあ……」

 投降する時に近藤の傍にいたのは野村だった。最初から投降する近藤を止めればよかったのか。それとも、陣屋敷から無理やりにでも連れ出せばよかったのか。今となっては答えはわからない。

「泣き言はいくらでも聞くけどさ。生きる気力無くすのだけはやめろよ」
「それは、絶対にない!」

 が言うと、野村ははっきりと言いきった。

「先に逝った局長に、俺は胸を張って会いに行く! 副長に追いついて、また新選組として戦って……最後まで戦い抜いた恥ずかしくない姿を局長に見せてやるんだ」

 そして、にっこりと笑みを浮かべた。

「『どうです? 俺、意外とやるでしょ?』って!」

 は息を吐く。立ち上がると、野村の隣に腰を下ろし、その頭を乱暴に撫でた。

「……しょうがねえな、ったく」

 野村が鼻を啜った。

「二人が返って来るまでに泣き止めよ」
「はい」

 無念。きっと、この言葉が一番合う。悔しい。悔しくて、仕方がない。
 野村の肩に腕を回しながら、は星のたくさん出ている夜空を見上げた。もう自分のために若い隊士が死ぬのを見たくはないと言った近藤は、自分のために泣く隊士がいることは想像していたのだろうかと、は思った。