板橋の本陣から脱出した四人は、一時的に千鶴の実家に身を隠すことになった。診療所の戸を開けて、千鶴は三人を招き入れた。

「ここが雪村先輩のご実家……」
「埃っぽくてごめんね」
「いえ、そんな!」

 相馬が首を振った。

「先輩、いつから帰ってないんだっけ?」
「四年、かな」

 診療所の中を千鶴の案内で歩きながらそんな話をする。が一番後ろを歩きながら診療所内をぐるりと見渡した。

「なんか懐かしいなあ、雪村診療所」

 昔はここを遊び場にしたものだった。伊庭と初めて出会ったのもここだ。その後も毎日のように通っていたが、もう来なくなって四年になる。

「あっ!」
「なに?」

 千鶴が突然立ち止まっての方を見た。

ちゃん! 家に帰らないと! おじさんとおばさん、絶対心配してる!」
「そうか、幼馴染ってことは、近所にさんの実家もあるのか」

 野村が納得した声をあげる。

「それは……お顔を見せに行った方が良いのではないでしょうか……ご家族の皆さん、心配されているのでは……」

 相馬にも言われ、は微妙な顔をした。

「うーん、考えとく」
ちゃん」
「これからまだ戦いがあるのに、呑気に家族に会ってる場合かよ。引き止められたらめんどくさいし」

 はそう言って頭を掻く。こうして少しの間、四人は雪村診療所で過ごすことになった。
 居間で走り回った足を休めながら、今までのことを考える。思えば、流山を出てからずっと走り回ってきた。市川に向かい、江戸に来ても走り回り、そしてその結果がこれだ。近藤を助け出して追いかけてこいと土方は言った。この状況を予想していないはずはないとは思う。三通しか集まらなかった助命嘆願の手紙を自分たちに託しながら、土方は何を思っていたのだろう。
 ぐう、と誰かの腹が鳴った。三人の視線が野村に向いた。

「腹減ったなあ……」

 野村が溜め息をつく。くすりと笑って、千鶴が立ちあがった。

「買い物に行かなきゃ。みんなは休んでて」
「おれも行くよ」

 が立ち上がった。

「でも、ちゃん、疲れてるんじゃ……」
「大丈夫だって。着物貸して」

 筒袖で外を出歩くわけにはいかないからと、は言った。千鶴はと共に自室に向かう。
 しばらく経って、が薄黄色に小さな花模様の着物を着て居間に戻って来ると、男二人はぽかんと口を開けた。

「なんだその顔は」
「いえ、その……」
「なんつーか、女装みたいだなって、むぐっ」
「おい野村! すみません!」

 相馬が野村の口を塞いで青ざめた。

「まあ、だろうな。おれもそう思うし」

 が同意の言葉を返す。女物の着物をきちんと着たのは遠い昔だ。昔から袴を穿くことを好んでいた。親もよく何も言わずに着せてくれたものだと思う。
 こうして二人は久しぶりに揃って江戸の町に出た。昔は二人で並んで買い物に出たり遊びに出かけたりしたものだった。ここ数年、京にいる間は必ず誰かが一緒でないと外に出ることはできなかった。二人だけの外出というのは実に四年ぶりだ。
 近所の八百屋と魚屋に顔を出すと、「久しぶりだねえ」と声をかけられた。長話になりそうなのを切り上げて、早めに診療所に帰ることにする。新政府軍らしき人影は見当たらなかった。は刀も置いて来たので、気付かれた時のことだけが心配だった。この服では早く走ることもできない。
 診療所に何事もなく帰宅し、ほっと息をついた時だった。

!?」

 名前を呼ばれて振り返る。女性が驚いた表情でこちらを見ている。

「……母さん」

 が呟く。

? 本当になのね!?」
「おれ以外にこんな頭してる奴いるかよ」

 が苦笑する。

「帰って来たの? 千鶴ちゃんも一緒で……新選組の方が何年か前に挨拶に来たけれど、まさか無事に帰って来るなんて……」

 母は今にも泣きそうだった。が頭を掻く。

「いや、帰って来たわけじゃないんだけど……」
「え?」

 母は目を丸くする。そして、すぐに眉を寄せた。

「とにかく、家に帰ってらっしゃい。お父さんも心配しているんだから」
「……」
ちゃん。一度話してきた方がいいと思う」

 千鶴が隣で言った。は息を吐く。

「……わかったよ」

 もう一度母に向き直る。

「着替えてから帰る。夜になるまで待ってて」

 そう言って一度別れた。診療所で着物からまた筒袖に着替える。改めて、この服は随分と動きやすくできているのだなあとぼんやり思う。
 そして夜。暗くなってから、周囲の気配を確認しながらは診療所を出て実家への歩き慣れた道を歩いた。玄関の戸を開ける。

「ただいま」

 四年ぶりだった。母が出迎えてくれる。

? その姿は……」

 母が困惑した表情での姿を上から下まで見た。

「とりあえず、中に入りなさい。お父さんが待っています」

 靴を脱いで、中に入る。四年前から何も変わっていない我が家だった。父も仕事は終わっていたようで、居間でを待っていた。

「長旅だったな」

 うん、と頷きながらは胡坐をかいて座る。母が父の傍に座った。

「まったく、手紙の一つも寄越さないで」
「おれがそんなにまめじゃないのは知ってるだろ」
「だからって……」

 母が呆れて溜め息をついた。

「それで、江戸に帰って来たってことは、新選組はもう辞めて来たのよね?」

 は首を振る。

「いや、これから北を目指す。副長を追わないといけないんだ」
「その筒袖、新政府軍ではなく幕府軍として動いているということか?」
「うん、戦ってるよ」

 父との会話を聞いて、母が息を飲む。

「戦って……!? 前に局長さんが来た時には、あなたは戦いには参加していないと……安全は保証されているからと仰っていたのに……!」
「ああ、心配させないために言ってくれたんだろうな。おれは前線で戦ってるよ。おれがそうしたいって言った」

 母が意見を求めるように父を見たが、父はを見たまま無言でいた。

「……あのねえ、。あなたは剣の腕も立つかもしれない。でも、女の子なんですよ?」
「そんな話はどうでもいいんだけど」

 は話を切り上げた。そして、真っ直ぐに二人を見る。

「今日は、さよならを言いに来た」
「え……?」
「おれはこれから戦いに行く。きっと、もう帰って来ない」

 母が再び息を飲んだ。

「あなた……まさか、死ぬつもりなの!?」

 が笑みを浮かべる。

「死ぬつもりで戦う気はないけどさ。おれはこれから新政府軍相手に戦いに行く。いつ死んでもおかしくはない」
「やめなさい、そんなの! お父さんも何か仰ってくださいな」

 父の袖を引いて、母が言う。

「千鶴ちゃんを守るために戦うのか」

 ようやく口を開いた父が問いかけて来た。痛いところを突くと思った。自分の父がそういう人であることは知っていたけれど。

「……それは、何か違うなって、思い始めてる」

 は正直に答えた。

「江戸を発ったのは千鶴を守るためだったし、おれはずっと千鶴を守るために強くなろうとしてた。でも、新選組で隊士のみんなと関わって、敵と戦って、世話になった人が剣を持てなくなったり死んで行ったりして……」

 脳裏にたくさんの人が思い浮かんだ。

「おれが千鶴を守ろうとしてるのは、ただ『千鶴を守る自分』を守りたいだけだったんだって気付いた」

 沖田に言われた言葉だ。恐らく、あれは真実だった。千鶴を守るという大義名分のもと、自分を守っていただけだった。千鶴を守るなら何をしても構わない、自分が傷ついても他人が傷ついても構わないと、そうやって自分を納得させていた。

「では、おまえは何のために剣を持つんだ」

 父が問う。

「……それを、まだ考えてる」

 が俯く。

「千鶴のためじゃなかったら新選組のためかと思ったけど……それも何かしっくりこない」

 新選組の行く末を見たいと思った。だから、戦いについて行こうと思っている。けれど、新選組のために戦う、というのは何か違う気がしていた。近藤の新選組のために戦うと言い切った沖田のようにも、新選組のために敵を斬ると言った斎藤のようにも、自分はなれない。新選組の隊士になったら、新選組のために戦うのか。それも、何か違う気がしている。新選組はそういう組織ではないと思っている。だからしっくりこない。

「……父さんはな、昔本気で武士を目指そうとしたことがある」
「え?」
「子供の頃の話だ。自分も剣術を磨けば武士になれるのだと、そう信じていた」

 父は勘定所に務めている。いつも金勘定をしているという認識でしかなかったし、とても武士を目指していたとは思えなかった。

「近藤さんと言ったか。あの方がうちに訪ねて来た時、なんと折り目正しい方なのかと思った。武士とはこうあるべきという見本のような方だった」

 そう言って父は少しだけ笑うと、を見た。

「おまえは、新選組に身を置いてどう思った」

 は頷く。

「うん。近藤さんもそうだし、土方さん、幹部のみんな……本当の武士っていうのは、あの人たちのことを言うんだろうなって思った」

 思い出すように目を瞑る。今ではずいぶん新選組の内部も変わってしまった。それでも、変わらないものも確かにあるとは思う。武士とは縁がなかったは、武士のことはよくわからなかった。知ろうと思ったこともない。それでも、新選組の皆と関わって、彼らが目指す『誠の武士』というものを理解し始めた。

「どんなに辛くても厳しくても戦うことを諦めない。おれは、そんなところに――」
「なんだ、答えは出ているじゃないか」
「え……?」

 目を開けて父を見る。

「武士を目指すことに躊躇いがあるならそれでいい。おまえは武士ではないからな」

 それはそうだ、と思う。自分は武士ではない。憧れはすれど、武士になりたいと思ったことはない。それでも、父は続ける。

「新選組の皆がおまえを隊士同様に扱って、前線に置くほど信頼をしてもらえていたのなら、その信頼を裏切るようなことだけはするな」

 信頼、とは呟く。

「その信頼に応えたいから、おまえは腕を磨いてきたのだろう」
「うん」
「誰かにその腕を見込まれて、あるいは信頼されて、重要な任を託されてきたのだろう」
「……うん」

 そうだと思う。信頼されてきた。いろいろと任されることも増えた。だから、このまま新選組と共に戦おうと思った。

「戦うと決めたのなら、最後まで諦めずに戦うために戦いなさい」
「戦うために戦う……?」

 は父の言葉を繰り返した。

「それでいいのかな……戦う理由……」

 新選組のために戦うのは何か違う。新選組という組織ではない、自分が惹かれているのは彼らの志だから。だから、共に戦いたいと思っている。その志が、この先どうなるのか見たいと思っている。折れないのか、それともどこかで折れるのか。自分も、同じ志を持って戦いたいと思っている。
 最後まで諦めずに戦うために戦う。それでもいいのだと、父は言う。

「うん、でもちょっとすっきりした。ありがとう父さん」

 はにこりと笑った。

「おれ、諦めずに戦うよ。最後まで」

 いつか死ぬその時まで。諦めないと、ここに誓う。

「父さん、母さん」

 はそう言うと、頭を下げた。

「親不孝な娘を許してください」

 こんなことを親に言うのは初めてだった。

「おれはきっと、戦って、最後には死ぬと思う」

 顔を上げると、母が泣きそうな顔をしていた。それを見て、は微笑む。

「でも、後悔はしないって誓える」

 そんな戦いはしないから。

「後悔しない戦いをするって誓う」

 それが、立派に生きるということだと思うから。
 そう誓って、自分は両親と訣別する。

「それじゃ、行くわ。江戸から出られそうになるまでは診療所にいるけど、誰にも言うなよ」

 がそう言いながら立ち上がった。

「言ったら、あなた殺されてしまうのでしょう?」

 母が青ざめた表情で言った。

「言わないわ……言わないわよ……でも、あなた本当に――」
「母さん。子供がやると決めたことを応援するのが親だ」
「そんなこと言ったって……!」

 そんなやりとりには笑みを浮かべる。

「じゃあな。元気で暮らせよ」
「ああ。おまえも、達者でな」

 それが、最後に交わした言葉だった。
 玄関までの見送りは断り、靴を履いて外の様子を窺った。新政府軍がいないのを見て、診療所までの道を駆け足で移動する。

「ただいまー」

 診療所に戻り、居間の襖を開けてが言う。

「おかえりちゃん。あの……おじさんとおばさん、なんて?」

 千鶴が不安そうな顔でを見た。千鶴の隣に腰を下ろす。

「別れの挨拶は済ませて来たよ」
「……それで、わざわざ筒袖に着替えてから行ったの」
「そう。おれは親不孝者だな」

 思わず笑う。まだ二十になったばかりで、親に別れの挨拶をしてきた。死にに行くと宣言をしてきた。

「いえ……ご挨拶していただけただけでも、親御さんは嬉しかったと思います」

 相馬がそう言って微笑んだ。

「おまえら、親は?」

 そう問いかけると、相馬も野村も苦笑した。

さん、俺たち脱藩者だぜ? 今更見せる顔があるわけねえだろ」
「そんなもんか」
「そうです」

 藩仕えの武士というのはそういうものなのだろう。主君である藩主を見捨てて来たのだから、親に見せる顔がないというのもわからないではない。
 夕食を取って、相馬と野村は居間で、は千鶴の部屋に布団を敷いて眠る。

「ねえ、ちゃん」

 暗闇で千鶴が声をかけた。

「どうした?」
「父様と薫さんのことだけど……」

 が千鶴の方に目を向けた。

「……どうするべきだと思う?」

 鳥羽伏見での戦いの頃から、ずっと悩んでいたのだろうことはわかった。綱道が羅刹を生み出したのは幕府のためでも新選組のためでもなんでもない。雪村の里を復興させたい一心で、彼は研究に手を出した。羅刹は今この瞬間も数を増やしていることだろう。

「千鶴はどうしたいんだ?」
「……」

 千鶴はしばらく無言だった。

「私は……二人を止めたい」

 力強くそう言う。その先のことは言わない。千鶴はただ、今の二人を『止めたい』と言う。

「わかった」

 が頷いた。

「おまえの言葉なら届く可能性はあるし。まだ諦めるには早いよ」
「うん……そうだよね」

 ありがとう、と千鶴は言う。二人はそれきり無言になる。
 だが、きっと対話はできないだろうと、自分たちは理解していた。