慶応四年四月。会津に向かうため、下総の流山にある長岡邸へと移ることになった。斎藤と山南や藤堂たち羅刹隊は別行動を取っていた。斎藤は市川で連隊に新式装備の訓練。羅刹隊は会津まで先行をして状況の確認だ。
ここに着いてからというもの、近藤は別人のように覇気をなくしてしまった。部屋に籠って本を読んでいるか、縁側で草花を眺めるだけの日々。甲府での敗戦をまだ引きずっているのだろうか、とは思い声をかけることにした。
「近藤さん、今いいですか?」
は盆を持って近藤の部屋を訪れていた。
「うむ。どうしたんだね、君」
近藤は読んでいた本を閉じた。
「一緒にお茶とかどうかなって、思って……淹れてみたのですが……」
盆を持ち上げてみせる。湯呑が二つ載っていた。本当は千鶴に淹れ方を教えてもらった。
「はは、珍しいお誘いだ。ありがとう。いただくよ」
近藤が微笑んでくれたので、はそのまま部屋に上がることにした。
「何の本を読んでたんですか?」
近藤の脇に座りながら問いかける。
「三国志演義に、清正記に……軍記物の読み物ばかりだな。もう、暗誦できるくらい読み込んだんだが、何度読み返しても新たな感動があってなあ」
へえ、とは相槌を打つ。読み書きはできるものの、本を読むのは苦手だった。だから自分には学がない。剣術ばかり鍛えて来たのだ。
「子供の頃は思ってたもんだよ。いつか関聖帝君みたいに立派な武将になって、自分ではない誰かのために戦おうって」
そう言って近藤は湯呑を持ち上げる。
「……だが、願うだけでは名将にはなれんのだな。それに気付くのが、ちと遅かったようだ」
は眉を寄せる。
「自分ではない誰かのために戦ってたじゃないですか」
近藤が口元で湯呑を止めた。と目が合う。
「京の治安を守るために、幕府のために、新選組は戦ってきたんでしょう? 願っただけじゃない。近藤さんたちは実行してきたじゃないですか」
「……そうだな」
近藤は目を逸らした。
「おれはずっと千鶴のためって思って強くなろうとしてたから……逆に、おれはおれのためにも何かしようかなって……少しだけ考えてます」
茶を啜った近藤は、再びを見てにこりと笑った。
「そうか。良い心掛けだ。何か思いつくものはあるのかね」
近藤もきっと、が千鶴にすべてを押し付けているような形になっていたことを危惧していたのだろうと今なら思う。は真っ直ぐに近藤を見つめる。
「今は、新選組の行く末を見たい」
近藤の表情から笑みが消えた。
「だから、おれはここで戦います」
「……それが、君が君のためにしたいことか」
「はい。おれが見たいと思ってるので、おれのためです」
土方がそれでいいと言った。自分がしたいと思うことをしろと。だから考えた。今、自分がやりたいことは、新選組が今後どうなっていくのかを見たい。それだった。
「……そうか」
近藤が小さく呟く。それっきり無言になってしまった。も茶を啜る。
無言だったので、近付いてくる慌てた足音がとても大きく聞こえた。
「近藤さん! それに、ここにいたのか」
土方だった。焦った表情を見るからに、あまり良くない出来事が起こっているのだろうと理解できた。
「土方さん、どうしたんですか?」
「敵に囲まれてる」
「えっ!?」
は茶を一気に飲み干して、立ち上がる。
「戦いますか?」
「敵兵は二、三百はいる。せめて桁が一つ少なきゃどうにかできたんだがな」
「じゃあ、どうする――」
「待ってくれ」
近藤がゆっくりと茶を飲み、湯呑を盆に置くと立ち上がった。
「俺が向こうの本陣へ行くよ」
土方とが目を瞠る。
「何を言ってやがる! 死にに行くようなものじゃねえか!」
「もちろん新選組の近藤だとは名乗らんよ。偽名を使って、別人に成りすますつもりだ。俺たちは旗本で、この辺りを警護している鎮圧部隊だと言えば誤魔化せるだろう。おまえたちが逃げる時間くらいは稼げるはずだ」
「馬鹿かあんたは! あいつらがそんな甘い連中だと思ってんのか!? 京で散々見てきたじゃねえか!」
土方が怒鳴る。
「奴らが俺たちを恨んでねえはずがねえ! すぐに気づかれて捕まえられるに決まってるだろう!」
「仮に捕まってしまったとしても、俺はもう大名の位をもらってるんだぞ? そう簡単に殺されはしないさ」
「あんたは甘いんだよ! 幕府からもらった身分なんて、奴らにゃ毛ほどの価値もねえ! 殺されちまうのがわかってるのに、みすみす行かせられるはずがねえじゃねえか!」
「おまえが何を言っても無駄だ。もう、決めてしまったことだからな」
いつから。はそう言いたかったが、口を挟める状況ではなかった。もしかすると、この長岡邸に来た時からそんなことを考えていたのか。自分が死にに行くことを考えていたのか。だから、本を読んだり、草花を眺めたりするような生活をしていたとでもいうのか。
「ふざけんじゃねえ! 大将のあんたがいなくて、何が新選組だ! 俺はあんたを引きずってでも連れて行くからな!」
土方が近藤の胸倉を掴む。
「今更逃げ出すなんて許すもんかよ! あんたの命はもう、あんた一人のものじゃねえんだ!」
「ならば、これは命令だ! 皆を連れて、市川の隊と合流せよ!」
胸倉を掴むその手を、さらに掴んで近藤が言う。土方の動きが止まった。久しく聞いていなかった、張りのある近藤の声。――それは、別れの言葉だった。
「……俺に命令するのか、あんたが。なに似合わねえ真似してんだよ」
土方の声は、涙を含んで震えていた。胸倉を掴む腕が、力なく落ちていく。
「局長の命令は絶対なんだろう。隊士たちに切腹や羅刹化を命じておいて、自分たちだけは特別扱いか? それが俺たちの望んだ武士の姿か」
俯く土方の肩に、近藤が手を乗せた。
「なあ、トシ。そろそろ、楽にさせてくれないか」
今まで二人で築き上げてきた新選組とは、なんだったんですか。そんな言葉をかけたくなった。二人で武士を目指していたんじゃなかったんですか。大名を目指していたんじゃなかったんですか。こんな最後で、本当にいいんですか近藤さん。
は、ただ唇を噛んで二人の言葉を聞いているしかできなかった。
「、雪村たちを呼んでこい」
「……」
「聞こえなかったか?」
「……はい、呼んできます」
はそう言うと、部屋を出た。
そうして長岡邸に滞在していた近藤、土方、島田、相馬、野村、千鶴、が一室に集められた。
「敵にこの場所を突き止められてしまったというのは、本当ですか?」
相馬が問う。
「ああ。まだ、俺たちの正体にゃ勘付かれちゃいねえみてえだがな」
土方がいつも通りの様子で言う。先程までの二人のやり取りを聞いていたは、土方の心中を思って複雑な気持ちだった。
「どうすりゃいいんです? 俺たちだけで、囲みを突破できるんですか?」
「敵兵は数百人はいる。全滅させるのは、まず無理だろう」
「じゃあ、どうすれば――!」
近藤が一歩前に出る。
「俺が新政府軍に投降して、時間を稼ぐつもりだ」
あのまま事は決定したらしい。土方はもう、あれ以上何も言うことはできなかったのだろう。
「局長が……!? そんな、危険です!」
「新選組の近藤とは名乗らんさ。この辺りを警護している旗本だと言えば、向こうも納得するだろう」
「そんな……!」
「話はわかったな? それじゃ、今のうちにさっさとここを脱出するぞ」
土方が淡々と指示を出す。
「俺は行きませんよ。ここに残ります」
意外な声をあげたのは野村だった。
「何だと?」
土方が眉を寄せる。野村が近藤を見て、にこりと笑った。
「旗本って名乗るのに家来が一人もいなかったら、絶対怪しまれるじゃないですか。大丈夫ですって。こう見えても俺、運はいいんで、絶対生き残ってみせますって」
「……本気なのかね? 野村君」
「当たり前じゃないっすか! 俺だって、新選組隊士ですよ!」
心配する近藤に向かって、野村は胸を叩いて見せた。
「じゃあ、俺も残ります! 二人を残して、自分だけ逃げるわけにはいきません!」
相馬が声をあげる。土方が拳を強く握ったのが見えた。
「いい加減にしろてめえら! 近藤さんが何のために投降するのか、少しは頭を使って考えやがれ!」
まるで悲鳴のようだと思った。置いて行きたくないと一番思っているのは土方なのだ。それでも、野村と相馬は動かない。
「野村、おまえ本気なんだな?」
野村が頷く。
「近藤さんの付き添いでここに残していけるのは一人だけだ。相馬、おまえは俺たちと一緒に来い」
「そんな、俺は――」
相馬が渋った。近藤が相馬の肩に手を置いた。
「相馬君、君には雪村君の護衛を頼みたい。彼女は、心ならずも我々に関わることになってしまった人だからな。絶対に死なせてはならん。……それとも、俺のような無能な局長の命令など、聞きたくないかね?」
相馬は首を振った。
「そんなことありません! この相馬主計、命に代えても雪村先輩をお守りいたします!」
「いい返事だ」
近藤が微笑む。
「野村、近藤さんのことを頼んだぞ」
「承知しました! 副長たちも、気をつけてください!」
近藤と野村を置いて、残りの面子が裏口から外に出た。囲まれているといっても、四方全てが囲まれているわけではなかった。木々に身を隠しながら移動する。
「そこかしこに敵がいやがるな。まとまって動くとすぐに見つけられちまう。手分けして進むぞ。島田、、おまえたちは俺と一緒に来い」
「承知しました」
「でも、千鶴が……」
が渋った。戦えない千鶴を相馬だけに預けるのは不安だった。敵に囲まれた時、果たして突破できるのか。
「俺たちが敵を引き付ける。おまえの腕は買ってるんだ。わかるな」
つまり、相馬と千鶴の方に敵の注意が向かないように、囮になるということだ。
「……わかりました」
それならば、とは頷く。
「相馬、おまえは雪村を守りながら先に行け」
「……わかりました。それでは後程、またお会いしましょう」
「相馬、千鶴のこと頼んだからな」
「はい、お任せください」
の言葉に、相馬は頷いた。
こうして二組に分かれ、市川を目指すことになった。敵に姿を見せて引き付けつつ、走り続ける。戦闘自体は然程苦労はしなかった。新式の銃を持っていようと、森の中ならば障害がたくさんあって自由には撃てない。少しずつ間合いを詰めて、仕留める。
「おい、そこの者たち、止まれ! どこへ向かうつもりだ?」
「止まれと言っているだろう! 貴様ら、まさか幕兵か!?」
敵兵たちが銃を撃ってくる。だが、木々に身を隠しながら進むたちに、銃は効かなかった。間合いを詰めて、喉元を斬る。二人の兵士はと土方の手によって葬られた。
暗くなり始めた頃、土方が急に足を止めた。
「島田、周囲に他に敵がいないか見て来てくれ」
「はい」
休憩だろうか。このまま先に進んだって問題ない距離のはずなのに。
「、おまえは――」
何を考えているか理解し、は指示の前に言葉を発した。
「おれは、今から石になりますね」
土方が怪訝な顔をする。
「は? おまえ何言って……」
は道の隅に移動すると、膝を抱えて座り込んだ。
「おい」
「石は喋りません。耳も目もありません」
は言う。
「何も聞こえませんし、見えません」
「……」
土方はが何を言いたいか理解したようだった。背を向ける。しばし無言だった。風が吹き、木々が囁く。
「……俺は……何のために、ここまでやってきたんだろうな」
ぽつりと、土方は呟く。
「あんな所で近藤さんを敵に譲り渡すためか? そのために今まで必死に走って来たのか?」
言葉は堰を切ったように零れ落ちる。
「あの人を押し上げて……もっともっと高い所まで担ぎ上げてやりたかった。関聖帝君や清正公どころじゃねえ。もっともっとすげえ戦をさせて……本物の武将にしてやりたかった。片田舎の貧乏道場の主と百姓の息子で、どこまで行けるのか試してみたかった」
それはすべて土方の独り言だった。だって、ここには誰もいない。
「俺たちは同じ夢を見てたはずだ。あの人のためなら、どんなことだってできるって思ってた」
知っている。それが、新選組だった。二人で築き上げてきたものだった。
「なのに、どうして俺はここにいるんだ? 近藤さんを置き去りにして、どうしててめえだけ助かってるんだよ?」
自嘲に似た声音。
「結局……結局俺は、あの人を見捨ててきたんじゃねえか! 徳川の殿様と同じで、絶対に見捨てちゃいけねえ相手を捨てて……てめえだけ生き残ってるんじゃねえかよ!」
そして叫ぶ。島田が遠くまで行っていることを願った。
土方が、こんな風に心情を吐露するのは初めてだと思った。いつも冷静で、周囲を見ていて、頭の回る副長であり続けた。局長を支える副長として、あり続けた。
まるですべてが終わったと。自分たちの挑戦は終わったのだと。新選組は終わったのだと。そう言っているようで。
「……これは珍しい喋る石の独り言ですが」
黙っていた『石』が喋り出す。
「新選組はまだあるのに、もう終わりなんですか?」
「言っただろ。新選組は近藤さんが大将じゃねえと――」
「新選組はまだあるのに?」
土方が振り返る。
「どこにあるって……」
「ここにある」
『石』が真っ直ぐに、射貫くような視線で土方を見ていた。
「あんたはもう『新選組』じゃないのか、土方歳三」
土方が言葉を失って立ち尽くしていた。
「敗北を味わおうが、傷つこうが、仲間を失おうが。刀が折れても、泥を啜ってでも戦い抜く。それが新選組じゃなかったのか」
『石』は続ける。
「最後まで戦いたいと言った、あんたの言葉は嘘だったのか」
まだ戦いは残されているのだと。会津や仙台の東北諸藩と戦うのだと。だから、まだ戦いは終わらないのだとそう思っていた。新選組の挑戦は、まだ終わらないのだと。
『石』は少しだけ目を伏せる。
「……この喋る石は、雪村千鶴のような優しい言葉は知りません。だからこんなことしか言えませんが」
もう一度土方を見る。揺れる瞳を真っ直ぐに見据え、『石』は言う。
「信じて託されたんでしょう? 戦わないんですか? 二人で築き上げてきた新選組を、ここで途絶えさせていいんですか?」
仲間を失おうとも、刀が折れようとも、戦い続けると言った。それが新選組なのだと確かに言った。新選組がなくなったら近藤と土方はどうなるのだろうと考えたこともある。きっとそんな生き方は知らないのだろうと思った。だから、思う。『新選組』はまだ無くなってはいないのだと。近藤がいなくなっても、土方がいる。まだ二人で築き上げてきた『新選組』は残っている。二人の目指したものは、まだここにある。
再び無言が続いた。そうして土方は、長い、長い息を吐いた。数歩『石』に近付き、見下ろす。
「おい、そこの石。蹴られたくなかったら人間に戻れ」
「はい。人間になりました」
が急に立ち上がった。土方は溜め息をつく。
「ったく……おまえみたいなガキに諭されるとはな……」
は首を傾げた。
「何のことですか? おれ石だったから何も聞いてませんし、喋る石でもありましたか?」
「……そうか。そういうことにしといてやる」
土方は目を逸らし、もう一度に視線を戻した。
「一つだけ聞いてもいいか」
「なんです?」
「……残された奴は、先に逝った奴らの意志も継ぐべきだと思うか?」
土方の問いに、は頷いた。
「斎藤さんが言ってました。死んでいった人間、戦えなくなった人間の志を継いで戦えるのは、今生きてる人間だけだって。おれたちが戦い続けることで、誰かが救われることもあるかもしれないって」
「……」
だからきっと、戦うことをやめた近藤が、自分たちが戦い続けることで救われることがあるかもしれないのだ。わからないけれど、可能性は確かにあった。
ふう、と土方が息を吐く。
「ありがとよ。目が覚めた」
その横顔は、吹っ切れたような表情をしていた。
島田が戻って来る。
「副長。この辺りにはもう敵はいないようです」
「ああ、わかった」
土方は頷くと二人に声をかける。
「市川に急ぐぞ」
「はい!」
三人は走り出す。