「」
の怪我が治り、明日には屯所を発つという頃。土方に声をかけられた。
「はい、なんですか?」
「おまえ俺の雑用でもいいって言ったよな。一つ頼まれごとしてくれねえか」
「頼まれごと?」
が首を傾げる。土方に連れられてやってきた部屋には、行李が一つ置いてあった。風呂敷も畳んで置いてある。中身を包むということなのだろう。
「これを総司に届けてくれ」
「総司さんに?」
沖田は病状が悪化し、病院から千駄ケ谷に移っていた。今は世話人がついているらしい。
開けていいですか、と聞いて中身を確認する。
「これ、筒袖じゃないですか。土方さん、総司さんはもう……」
戦えないのに。その言葉が引っかかって出てこなかった。ああ、と土方はわかったように言った。
「あいつの分も仕立てないとって近藤さんがな」
近藤の思いもわからなくはなかった。沖田の分だけ用意しない、ということは彼にはできなかったのだろう。
「そっか……わかりました。届けて来ます」
行李の中の筒袖を畳みなおして、風呂敷に包む。
「土方さんも会津に行く前に一回くらい顔見せてあげればいいのに」
「俺の顔なんざ見たら余計具合が悪くなるだろうが」
土方の言葉には笑った。帰ってきたら様子を報告しようと思った。
「ちゃんと着替えてから行けよ」
「はいはい」
筒袖から以前の和服に着替えて、屯所を出た。
江戸の町を歩く。まだ新政府軍は江戸まで来てはいないが、いつ来るかわからない状況なのは確かだった。新政府軍が来たら幕府はどうするのだろう。江戸城を明け渡すのだろうか。それほどまでに、今の幕府は戦う意思がない。戦う意思のある新選組が江戸にいるのは、確かに今後のためにもよくないだろうなと思った。
千駄ケ谷に着き、書かれた地図を見ながら沖田が匿われている家を訪ねる。世話人の女性に新選組の者であることを告げると、中に入れてもらえた。
「沖田さん、新選組のお客様ですよ」
女性はそれだけ言って、席を外した。は襖を開ける。沖田は窓を開けて、縁側に腰かけていた。
「やっぱり君かあ。新選組のお客様なんて君くらいしか思い当らなかったよ」
は沖田の近くに座った。
「起きてて大丈夫なのか?」
「今日は気分がいいんだ」
やつれたな、と思った。会わない期間が開くほど、沖田の病気の進行を実感させられる。
「今日はどうしたの?」
沖田に問われ、持っていた風呂敷包みを差し出した。
「土方さん……ていうか、近藤さんからの届け物かな」
「近藤さんから?」
沖田の前で風呂敷包みを開けて見せる。黒を基調とした洋服だった。
「筒袖?」
「総司さんの分も仕立てたんだって」
が言うと、沖田は目を細めた。
「……そっか。近藤さん、まだ僕が戻って来ると思ってるんだ」
そうして咳をする。背中にいつものように手をあてて、驚いた。見た目以上に肉がなく骨がくっきり浮き出ていて、「ああ、本当に死んでしまうのか」とは改めて思う。
「松本先生から聞いたよ。甲府で負けたって」
「うん」
「僕がいたら、負けることなんてなかったはずなのになあ」
「……」
本当だよ。その言葉が、喉から出てくることはなかった。例え全盛期の沖田がいたとしても、甲府での敗戦は覆らなかっただろう。強い隊士が一人いればなんとかなるという話ではなかった。
沖田は咳を繰り返す。はその背を黙ってさすっていた。
「あ、猫だ」
沖田が庭を見て突然言った。同じ方向に目を向ける。黒猫が一匹迷い込んできていた。こちらを見ている。
「ねえ、ちゃん知ってる? 黒猫を斬れば、労咳は治るって」
「え?」
「刀貸してくれる?」
は迷ったが、鞘ごと刀を抜いて沖田に渡した。沖田は草履を履いて、立ち上がる。ふらつきながらも刀を抜き、黒猫に斬りかかる。だが、それはあまりにも遅く。振り下ろされるのを待つこともなく、黒猫は立ち去ってしまった。
「……はは」
声が漏れる。
「あはははは」
沖田が地面に膝をつく。
「ねえ、見た? 猫すら斬れないんだよ」
可笑しそうに笑いながら、沖田はの方を振り返る。は眉を寄せてその様子を見ていた。
「笑わないの?」
「……」
「笑ってよ、ねえ。馬鹿だなあって、笑ってよ」
そして、沖田は地面を拳で殴る。
「こんな腕で、近藤さんの役になんて立てるわけないじゃない!」
自覚してしまった。自分の衰えを。猫にすら遅れを取るほどの剣技しか扱えないのだと。
「笑わないよ」
が言うと、沖田は顔を上げた。
「へえ。それは同情? 憐み? 君にそんな風に思われるなんて僕も落ちたものだよね」
「総司さん」
は口調を変えない。
「おれがそんなこと思わないって、わかってるだろ」
決して短くはない付き合いだから。沖田は、のことをよくわかっているはずだった。
「じゃあ、今何考えてるの」
沖田が問う。
「……悲しい」
がぽつりと言う。
「悲しいよ」
暗い表情で、はただそう言った。見る影もなくなってしまった剣客沖田総司が、あまりにも悲しい。
「……ごめんね」
「謝るなよ」
「ううん、当たり散らしてごめん」
沖田は立ち上がると、刀を納めた。そして戻って来ると、刀をに返した。
「ちゃん、覚えてる? 前に僕は新選組の剣だって言った話。君は言ったよね。近藤さんがいなくなったらどうするんだって」
また縁側に腰かけて、沖田は空を見上げた。
「近藤さんはいるのに、剣が錆びついちゃったみたい」
「……」
「こんな剣、近藤さんももういらないよね」
沖田が自嘲するように言う。そんなこと、以前なら絶対に言わなかったのに。実力に裏付けられた自信を持っていた沖田なら、絶対に言わなかったはずなのに。は筒袖の上着を掴み上げた。
「近藤さんが、何のために総司さんの筒袖用意したのかわかんないのか?」
「え?」
沖田がに目を向ける。ずいと筒袖を沖田に押し付ける。
「戦えって言ってるんだよ。己の敵と。最後まで戦えって」
強い口調では言う。
「おれの知ってる沖田総司は、最後まで戦うことを諦めたりしない。剣が錆びついたら、錆びついた剣で最後まで戦う。血を吐こうとも、刀を持ち続ける」
沖田が筒袖を受け取る。そして、渡されたそれをじっと見つめていた。
は立ち上がると、腰に刀を差した。
「おれたちは会津に行くけど、総司さんも戦えよ。……最後まで」
それこそが、自分の知っている沖田総司だから。
「じゃあ、おれ行くから」
立ち去ろうとして歩き出す。きっとこれが最後だった。もう、会うことはないだろう。自分たちは会津に行くし、沖田はこのまま死を迎える。でも、別れの言葉なんて言いたくはなくて。
「ちゃん」
部屋を出ようとしたときに声をかけられ振り返る。沖田はいつものように笑っていた。
「ありがとう。またね」
いつものような、再会を約束する言葉。
「ああ、またな」
はそう返して、部屋を出た。千駄ケ谷からの帰り道。外は夕暮れで橙色に染まりつつあった。
せめて、戦場で死ねたらよかったのに。その方が、きっと彼は幸せだっただろうに。もちろん死んで欲しくなんてなかったけれど。どうせ死ぬなら、その方がいい。きっと精一杯生きた「美しい生き様」だっただろうから。
肩を落としながら、は屯所へと帰る。