三月に入り、甲府への出発の日。が、部屋で配られた筒袖に腕を通していた。今回の戦から洋装にすべしというのは土方の指示だった。敵は全員鳥羽伏見の戦いの頃から洋装を着ていた。こちらの方が都合がよいだろうとのことだった。
「どうかな、千鶴」
がくるりと回って見せる。千鶴はそれをぼうっと見ていた。
「本当に男の人みたい……」
声に出してはっとする。
「あっ、えっと、違うんだけど! そうじゃなくて! 似合ってるって言いたくて……!」
「あはは、ありがとな」
黒を基調とした筒袖は、洋式の新政府軍に対抗するために用意されたものだ。も腕を回してみたりしたが、和服の時よりも断然動きやすいと感じた。
広間では男たちが着替えているはずだった。準備を終えたと千鶴も広間へと向かう。
「雪村先輩、さん、いらしたんですね」
相馬が二人を見つけて駆け寄って来る。
「あっ、相馬君! 筒袖、着たんだね」
「はい。最初はちょっと窮屈かなと思ったんですけど……肩や腕は、和服より楽ですね。銃を扱うなら、こっちの方が便利そうです」
確かに袖や裾が邪魔にならないとも思った。
「いたいた! 雪村先輩! さん! どうだ、俺のこの格好!」
野村が近付いて来て筒袖姿を見せつけてくる。
「野村君も着たんだ? よく似合ってるね」
「へへっ、当たり前だろ?」
皆、筒袖を着るのに合わせて、伸ばしていた髷も落としてしまっていた。は髪を伸ばさなくなって随分経つが、短い方が楽であることを知っている。だが、長年長い髪でいた皆は落ち着かなさそうだった。千鶴も、江戸に残していくよりはということで甲府について行くことになっていた。置いて行かれたことで気分を害している山南と会わせないためだった。最近、土方が山南の行動に対して少し警戒をしているようだとは感じていた。
こうして甲府を目指して江戸を発つ。新選組は『甲陽鎮部隊』と名を改め、八王子経由で甲府へと向かうことになった。近藤は途中、故郷に錦を飾りたいということで別行動だった。八王子に入隊希望者が何人かいるらしく、その検分も行っているという。
「今日はここで野宿か。歩きどおしだったから、くたくただぜ」
野村が地面に腰を下ろし、足を投げ出した。相馬が溜め息をついて見下ろす。
「戦う前からそんなこと言っててどうするんだ」
「だって、こんなに時間がかかるとは思わなかったからさ……局長はまだ追いついてきてねえの?」
後方を見ながら野村が言う。
「言っただろ? 今は日野のあたりで、新入り隊士の検分をしてるって」
「にしても、遅すぎじゃねえ? このままだと、局長が追いつく前に甲府に着いちまうぜ。永倉さんたちもかなり不満を溜め込んでるみてえだし」
行軍中、永倉たちは人目もはばからず近藤に対する批判を言っている。永倉が近藤に対して不満を持っているのは京にいた頃からだが、だんだんと何かがずれはじめているのかもしれない。そんなことを思いながら、が視線を森の方に向けた時だった。
「誰だ!」
人影を見て、が刀の柄を握る。相馬と野村が立ち上がって構え、千鶴を背に隠した。森の中から姿を現したのは、黒の洋服を身にまとった少年だった。
「薫、さん……」
千鶴が声を漏らす。南雲が笑った。
「つれないな。そんなよそよそしい呼び方じゃなく、昔みたいに『兄様』って呼んでくれよ」
「雪村先輩の兄……!?」
相馬と野村が千鶴に目を向ける。千鶴は着物をぎゅっと握った。が鯉口を切る。
「わざわざ姿見せに来たのは、殺される覚悟はあるってこと?」
「お、おい、そいつ雪村先輩の兄貴なんじゃ……」
「関係ねえよ。敵は敵だ」
慌てる野村に、は落ち着いて返す。
「ったく、これだから単純馬鹿は嫌だよね。大体、どうして千鶴を戦いに連れて来てるんだ? 巻き込んで怪我でもさせたらとか考えないわけ? ……いつぞやの局長みたいにさ」
千鶴が息を飲んだ。
「まさか、近藤さんの狙撃は、あなたの差し金だったの……!?」
南雲は笑みを深める。
「俺はただ御陵衛士の残党に声をかけただけさ。あの場所を近藤が通るよ、ってね。あはははは!」
相馬と野村も南雲を敵と認識したようで、刀に手をかけた。
「おまえの目的はなんだ!」
「新政府軍の手先か!?」
二人が問いかける。南雲が笑みを消した。
「手は貸してるけど、あんな奴らに興味はない。俺は迎えに来ただけさ」
そう言って南雲が手を差し伸べる。
「さあ、千鶴。そんな負け犬たちと一緒にいないで、俺たちと一緒に行こう」
千鶴は首を振る。
「いいえ、私は一緒には行かない。行けません!」
「だってさ。振られちまったな、お兄様!」
が踏み込んだ。刃が噛み合い甲高い音が鳴る。今日は千鶴を守る手は足りている。一対一なら負ける相手ではない。だが、それは長くは続かなかった。南雲は何かに気が付き、の刀を大きく弾いて後ろに下がる。
「相馬君! 相馬君はいるか!」
島田の声だ。南雲は舌打ちして、森の中に姿を消した。追おうとしたは、島田の様子を見て追うのをやめた。何かが起こっているようだ。
「島田さん、俺に何か?」
「すぐに局長をお呼びしてきてくれ。……甲府城が、敵の手に落ちた」
「何だって!?」
野村が声をあげた。はもう一度森の方を見て、舌打ちをする。今は南雲を追っている場合ではない。
「相馬、すぐに行ってこい!」
「はい!」
相馬が頷き、走って元の道を戻っていく。日野まで然程距離はない。すぐに近藤と合流して戻って来るだろう。だが、既に甲府城が敵の手に渡ってしまっているという情報は、新入り隊士を激しく動揺させた。当初は二百人ほどいた隊士たちの、半分以上が夜のうちに脱走してしまった。
翌朝。甲府城を前にして、新選組は陣を敷いていた。
「御上から支度金を頂いて出陣したのだ。ここで兵を退くわけにはいかん」
「勝てると思ってんのか!? 今回の知らせを聞いて、相当の数の兵が逃げ出しちまったんだぜ!」
陣幕の中で近藤と永倉が怒鳴り合っているのが外まで聞こえた。幹部たちの会議は紛糾しているようだ。しばらくして土方が外に出て来た。
「、雪村、こっちへ来い」
待機していた二人が駆けよった。
「俺はこれから援軍を呼んで来ることになった。おまえたちには近藤さんの護衛を頼む。何があっても、あの人を死なせるじゃねえぞ」
背筋が伸びた。と千鶴は一瞬顔を見合わせてから、同時に頷いた。
「はい! 私たち、命に代えても――」
千鶴の言葉の途中で、土方が首を振った。
「死のうなんて考えるんじゃねえ。おまえたちのできる範囲のことをやればいい」
これから勝てない戦をしようとしている。それはわかった。できる範囲のことをして、近藤の護衛をする。
「……機が来たら、逃がせってことですか?」
が問う。土方が笑みを浮かべた。そうして、二人の肩を叩いた。
「頼んだぞ」
そう言って、土方は馬に乗って江戸へと戻っていく。
それを見送ってほどなくして、新入り隊士が勝手に「新選組だ」と名乗りを上げ、撃った一発の銃弾をきっかけに戦が始まった。相手の主力は洋式化された土佐藩の部隊だとわかった。幕府からの銃や大砲では敵に弾が届かない。
「くそっ! あいつらが持ってるのは、薩長の奴らが使ってた新式の銃じゃねえかよ!」
永倉が叫ぶ。土方は事前にに「今回も激しい戦いになる」と、「薩長と同じ銃じゃなければ勝てるはず」と言った。まさに、その事態になってしまった。旧式の銃で、しかも新人に使わせている状態の新選組が勝てるはずがなかった。
「このままじゃ、全滅させられるのも時間の問題だ! 近藤さん、撤退命令を出してくれ!」
原田が叫ぶ。近藤は頑なに撤退を拒んでいたが、やがて諦めた顔で言った。
「……わかった。総員、撤退だ」
撤退の準備が始まる。
「!」
斎藤が叫んだ。が頷く。
「こっちは任せろ!」
「近藤さん、行きましょう!」
千鶴が声をかけた。この場から早く近藤を逃がさなければならない。
「だが……」
「みんななら大丈夫です! 近藤さんが死んだら、誰が新選組を引っ張っていくんですか!」
が言う。近藤は唇を噛んでから、わかった、と小さく言った。
近藤を連れて真っ先に江戸へと撤退する。三人は森の中を走った。ガサリ、と音がして三人は足を止めた。新政府軍の筒袖を着た兵士が現れる。ざっと見ても十人以上いる。全員、髪が白かった。
「新政府軍の羅刹……!?」
「そんなことが……!」
千鶴と近藤が驚愕の声をあげる。舌打ちしてが刀を抜いた。
「二人とも下がって! おれが相手をします!」
「無茶だ、君! あの数の羅刹を君一人でなんて――」
近藤の制止を聞かず、は地面を強く蹴った。なんとなく、どうすればよいのかわかっていた。鳥羽伏見の戦いの淀でのこと。あの時のように立ち回ればいい。目の前にいる敵を、ただ斬った。一人斬って、二人に斬られる。二人斬って、三人に斬られる。致命傷を与えきれずに立ち上がる羅刹兵の血を被りながら、隙を見て首を落とした。心臓を刺して刀を抜いてじゃ間に合わない。だから首を狙った。首ならば、刀を振り抜けばそれでいい。一人、一人と羅刹兵は数を減らしていく。背後から斬りかかろうとしてきた羅刹兵の首を振り返りざまに落とす。そうして、やがて立っているのはだけになった。呼吸が戻る。肩で息をする。この場を凌いだことの安堵感より倦怠感の方が酷かった。肺が痛い。体中が痛い。
「君……君は一体……」
振り返ると、驚愕の表情をしている千鶴と近藤がいた。この光景も以前見たなと思う。見たところ怪我はないようだ。ほっと息をつくと同時、膝が折れた。
「げほっ、げほっ! ごほっ!」
「ちゃん!」
ぼたぼたと口から血が落ちる。千鶴と近藤が駆け寄って来た。
「まさかとは思っていましたが、君は本当に綱道に生み出された憐れな鬼だったのですね」
聞き覚えのある声がして、三人が身構える。ガサリと草の音をさせて現れたのは天霧だった。まずい、と思う。は今の体では、二人を守り切るのは難しそうだと判断した。
「千鶴、近藤さんを連れて逃げろ……あいつの相手は、おれが……!」
立ち上がろうとするに千鶴が縋りついた。
「無理だよ、ちゃん! その怪我じゃ……!」
「安心しなさい。今、君たちを殺すつもりはありません。私は確認をしに来ただけです」
「確認?」
怪訝な顔を向けると、天霧は千鶴に目を向けた。
「雪村千鶴。君は、この者に血を分け与えたことはありませんか?」
「え……?」
千鶴は少し視線を彷徨わせ、はっとして頷いた。
「は、はい。あります。ちゃんが大怪我をした時に、父が血を分けて欲しい、と……そういう治療法があるから、と言っていました」
「……本当か、千鶴?」
「うん……今まで気にしたことはなかったし、忘れてたんだけど……」
天霧が頷く。
「やはりそうですか」
「そうだったら、なんだって言うんだ」
が膝をついたまま、刀を構えた。天霧は動揺することなく、話し始める。
「変若水の原液は何か知っていますか。西洋に住む鬼の血です。羅刹は、その血から生み出されています」
何を言おうとしているのか、なんとなく予想がついた。
「。君は、雪村千鶴の血で……この国の鬼の血で生み出された羅刹、ということです」
千鶴と近藤が息を飲んだ。は特に驚かなかった。今まで羅刹かもしれない、変若水か何かを飲んだのだろうと言われていたことが、ようやく明らかになったからだ。
「羅刹の超人的な力は自身の寿命の前借りによって成り立っています。君がその力を使う度、君の寿命は削られて行く。通常の羅刹と違う副作用があるのは、君の生まれが彼らと違うからでしょう。鬼の血を人に与えたことに変わりはありませんからね」
天霧は息を吐くと、また真剣な視線をに向けた。
「綱道は新政府軍に取り入って新型の羅刹の開発に成功しました」
「さっきの奴らか……」
今はまだ日が出ている。羅刹は昼間は動けないはずだ。だが、彼らは日の光の下で活動できる。綱道の実験は新選組にいた頃より確実に進んでいるということだ。
「ずいぶん親切にいろいろ教えてくれるじゃねえか。何が目的だ?」
が睨む。
「私たちは綱道と南雲薫のやり方には賛同できない。彼らは必ず報いを受けることになるでしょう」
そう言って、天霧は首を振った。
「その命、大事に使うと良い」
天霧が姿を消す。残された三人は、風で草木が囁く中、ただ沈黙していた。