慶応四年一月末。土方のはからいで、釜屋から鍛治屋橋門内の空き家となった大名屋敷に屯所が移る。土方は江戸に戻って来てから幕府との交渉で連日遅くまで外出しており、日に日に目の下の隈が濃くなっていた。
二月に入り、療養の済んだ近藤が、ようやく松本の病院から帰って来た。
「皆、心配かけてすまなかったな」
「おかえりなさいませ、近藤局長!」
「俺たち、ずっとこの日が来ることを信じてましたよ!」
相馬と野村が泣きそうなほどの喜びを見せ、近藤は苦笑をする。
「大袈裟だな……だが、ありがとう。俺も、こうして皆と再び会うことができて嬉しいよ」
さて、と言って近藤は笑みを浮かべた。
「幕府よりご下命を賜った! 我々は甲府で、新政府軍を迎え撃つことになったぞ。御公儀からは既に大砲二門、銃器、そして軍用金を頂戴している! ぜひとも手柄を立てねばな!」
永倉と原田が顔を見合わせた。
「それに甲府城を確保した暁には、なんと我々に十万石をくださるそうだ!」
隊士たちが沸いた。
「じゅ、十万石!?」
「十万石といえば、大大名だぞ」
「それはあれだ、つまり局長は……城持ちの大名ってことになんのか!?」
野村と相馬が驚愕で声をあげた。
「無論、うまく行けばの話だがな! ちなみに、若年寄格という位は既にいただいた」
大名になりたい、という夢が叶ったのだなとは思う。今の幕府の大名にどれだけの価値があるのかは、政治のわからないにはわからなかった。
「お、おいおい本気かよ……! 俺たちは殿様の家臣ってことだよな!?」
「ついてきてよかったー!」
皆が騒ぎ始める。不満ばかり言っていた隊士たちは、士気を上げることとなった。そうして隊士たちが広間からいなくなり、幹部だけが残る。
「……なあ、近藤さん。その甲府を守れって話を持ってきたのは、どこの誰だ?」
永倉が問いかけた。
「勝安房守殿だが……それがどうかしたのか?」
「大の戦嫌いで有名らしいな。そんな人が、なんで俺たちに大砲やら軍資金を気前よく出してくれるんだ?」
「そもそも徳川の殿様自体が、新政府軍に従う気満々らしいしな。勝なんとかさんも、同じ意向なんじゃねえのか」
原田が続く。
「永倉君、原田君。これは幕府直々の命令なんだぞ。確かに戦況が芳しくないため、今は慶喜公も恭順なさっているが――もし、我々が甲府城を守り切れば幕府側に勝算ありとみて、戦に本腰を入れてくださるかもしれん」
近藤は誇らしげに話を続けた。
「それに、勝てる勝てないの問題ではない。御上が我々を甲府を守るに足る部隊だと認めてくれているんだぞ。ならば全力で応えるのが、武士の本懐というものだろう。そうじゃないかね、永倉君」
「……その言い方、やめてくれねえか。俺は新選組幹部ではあるが、あんたの家来になったつもりはねえんだからな」
永倉の態度は剣呑だった。永倉が近藤や土方のやり方に不満を持っているのは、京にいる頃からだとは知っている。本当に大名になったことで、また不満が増したのだろうか。
「斎藤、おまえはどう思ってるんだ?」
原田が問う。
「俺は、局長と副長の意見に従う」
斎藤の意見は簡潔だった。土方に視線が向く。
「とりあえず、新政府軍との戦いに備えて隊士を増やそう。甲府城を押さえたら、幕府からも増援が来るはずだ」
土方が続ける。
「それに勝安房守殿の意向についてだが……いくら戦嫌いとはいえ、避けられねえ局面があることぐらいはわかってるはずだぜ。なにせ、この戦で幕府が負けちまえば、幕臣は全員食い扶持を無くしちまうんだからな。俺たちを負かしゃしねえだろ」
「……ま、確かにそれも一理あるけどよ」
永倉は仕方なしに頷いた。
「皆の筒袖を用意させたから、さっそく戦支度にかかってくれ! それでは、本日は解散!」
幹部は各々の部屋に戻る。近藤と千鶴も部屋を立ち去った。残った土方は部屋の中でおびただしい量の書類や地図を確かめていて、なんとなく立ち去る機を逃したは、土方の傍に寄った。
「手伝います」
土方が怪訝な顔をに向ける。
「何言ってんだ。おまえに戦術を考えるなんてできるのか?」
は資料の山から本を一冊持ち上げた。
「資料の受け渡しくらい……なら……」
間があった。土方が顔を逸らして、肩を震わせた。
「どうせおれに学はないですよ! 笑えばいいでしょ!」
が自棄になって叫ぶ。
「本当ならこんなことしないで寝て欲しいんですよおれは! 今睡眠時間どれだけ取れてます!? 目の下に隈あるの気付いてますか!? 鏡見てくださいよ!」
「くっ、おまえ、あまり俺を笑わせるな……」
ひとしきり笑った後、土方は息を吐いた。
「雪村に言われるならまだしも、おまえにそんなこと言われるとは思わなかったな。これだから江戸の女は」
否定は一切しなかった。ただ、からの好意をそのまま受け取る。土方が手を差し出した。
「じゃあ、甲府の地図を取ってくれ。経路を確認する」
「はい!」
は資料をいくつかひっくり返して、甲府の地図を見つけると土方に渡した。土方が地図を広げる。
「多分、次も苦しい戦いになるとは思うが……敵が薩長の軍じゃなけりゃ、そう負け戦でもねえはずだ」
「あの新式の銃とか大砲ですよね。こっちが間合いに入ることもできないやつ」
「ああ。こっちの銃と大砲は旧式だからな」
土方が頷く。
「ていうか、うちに銃や大砲扱える人いるんですか?」
「これから増やすんだよ」
「新人かあ……」
銃や大砲に長けた、どこの軍にも属していない新選組に入隊したい希望者が果たしているのか。それが疑問だった。鳥羽伏見での敗戦の報は江戸にも届いている。新選組の名も、随分落ちたことだろう。
「羅刹隊はどうするんですか?」
「あいつらは置いて行く」
土方が言った。
「新政府軍に見られるわけにはいかねえからな。それに、籠城戦に必要な戦力だとは思わねえよ」
「山南さんが文句言いそうだなあ……」
攻め込むのであれば戦力として必要かもしれないが、今回想定しているのは新政府軍より先に城に入り、守り切ることだ。確かに新政府軍に見られることの危険性を考えれば、連れて行かない方がよいだろう。
「そういえば、土方さんも大名になったんですね」
土方も近藤と合わせて、寄合席格という身分をもらったのだという。
「ああ。まあどうでもいいんだよ俺の名なんて」
土方は面倒そうに言った。
「近藤さんもついに大名ですね」
がそう言うと、土方はに顔を向け苦笑した。
「もう少し時期が早けりゃよかったんだがな。今の幕府の大名の身分にどれだけ意味があるか……」
「いいじゃないですか、今は形だけだって」
が言う。
「今後幕府がどうなっていくのとか、小難しいことはおれにはよくわかりませんけど。少なくとも今は幕府に必要とされてるってことでしょ?」
幕府が新選組を負け戦に出すはずがない、と土方は言った。いくら戦嫌いの人物だろうと、やらねばならない局面であることは理解しているはずだと。土方は、そうだな、と一言言った。