江戸に戻って来た新選組は、品川にある宿「釜屋」を拠点としていた。土方は幕府重臣との交渉のため連日江戸城へ通っており、山南や藤堂は夜の見回りをしつつ江戸の動静を探っている。一方の永倉や原田は隊士たちと昼間から飲み歩いていて、ほとんど屯所にいなかった。
相馬や野村の稽古に付き合う傍らで、は今も日課の素振りを怠ってはいなかった。今までの木刀ではなく、真剣を振る。重さには十分に慣れた。もっとこの刀を手に馴染ませなければならないと思う。夜になって宿の裏で素振りをしていると、足音が近付いてきた。
「まーた素振りしてら」
振り返ると、欠伸をしながら藤堂がやってきた。
「おはよー……って時間でもねえか」
「今起きたんだろ? ならおはようでいいじゃん」
羅刹は月が太陽のように見えるのだという。そして太陽の光はきっと眩しすぎるのだろう。素振りを再開すると、藤堂はここに居座るようで、の後ろの壁に背をつけて座り込んだ。
「なあ。家、帰んなくていいのか?」
「はあ?」
が素振りを止めて、嫌そうに振り返る。
「顔見せた方がいいと思うなあ」
「いやだ。ぜってえ引き止められるに決まってる」
「そりゃそうだろ。おまえの家族すげえ心配してたし」
藤堂は京にいた頃、江戸への新入隊士募集に来ている。その時、近藤と共にの実家に挨拶に行っていた。自分と違って面と向かって他人に悪態を吐くような両親ではないと思っているが、何か苦言くらいは言われたのだろうとは思っている。
「そういう平助はどうなんだよ」
「なにが?」
は言いにくそうに目を逸らす。
「本当は生きてるって、伝えたい家族とか……」
未だに藤堂が羅刹になったことを後悔している。葬儀の光景もよく覚えている。形だけの葬儀が行われて、知らない隊士たちが悲しんで、知っている自分はただ拳を握って項垂れることしかできなかった。
「家族か……そういや、おまえには話してなかったな」
藤堂が手招きする。隣に来いということらしい。は刀を納めて藤堂の隣に腰を下ろした。
「伊勢の津藩って知ってるか?」
「津藩? いや知らないけど」
「そうだよな、江戸から結構遠いしな」
その答えは予想していたようで、藤堂は月を見上げながら話を続けた。
「そこから、生活に困らないだけの金が送られてくるんだよ。父親の行方だけは絶対探すな、って約束で。だから金に困ったことはなくてさ」
「は? なんで藩から金が送られてくるんだよ」
は意味がわからず眉を寄せる。
「津藩って、別名藤堂藩っていうんだ」
「……おい、平助の父さんってもしかして」
「わかんねえよ? 捜したわけじゃねえし」
隣に顔を向けると、藤堂は目を合わせないようにしているようだった。
「うん、でもたぶん……オレ、偉い人の隠し子とかなんだろうな」
遠い目をして藤堂が言った。そして藤堂はに目を向ける。
「だから、おまえは心配しなくていいんだよ。今更生きてることを伝えたいやつなんて、いな……ぐっ!」
「平助!?」
突然藤堂が胸元を押さえて苦しみだした。髪が白く変貌する。
「ぐ、あ……! くそ、薬が……!」
「お、おい! どうしたんだよ!」
「なんでもないっ……すぐ、収まる……うっ……!」
の頭に一つの解が浮かんだ。
「……血が欲しいのか?」
羅刹の吸血衝動は収まっていないと山南が言っていた。これがきっと、吸血衝動だ。発作だ。は刀を半分抜いて、自分の手を当てようとした。だが、そこに藤堂の手が伸びてきた。
「やめ、ろ……! なに、する気で……」
「だって、血が飲みたいんだろ!? 飲めばその苦しいの収まるんなら――」
「飲まない」
苦しみながら、藤堂ははっきりとそう言った。は目を見開く。
「血を、飲むなんて……そんなの、人間が、やることじゃ……ねえだろ?」
藤堂が呼吸を荒くしながら笑みを浮かべる。は言葉を失った。
「う、ぐあああっ!」
は藤堂を抱きしめた。今自分ができるのは、彼の発作が収まるまで傍にいることしかできないのだと、その無力感を突き付けられたからだ。生きていてよかった。そんな風に今まで思っていたことを後悔した。自分は、藤堂を人間ではない存在にしてしまったのだと、改めて真実を刃物のように突き立てられた。
藤堂の発作はしばらくして収まった。髪色が元に戻る。それでも藤堂の呼吸はまだ荒く、の腕から抜け出そうとはしなかった。
「悪い、……もう少しだけ……」
「いいよ。完全に収まるまでそうしてろ」
ごめん、と耳元で小さく聞こえた。は眉を寄せる。
「……なんで、おまえはおれのこと恨まないんだよ」
「は……?」
「おれが、おまえをそんな体にしたのに……なんで……」
羅刹になってから約二か月。藤堂がこんな苦しみを繰り返していたのだと知らなかった。羅刹になっても何ら変わりはない藤堂平助だったから、何も変わらないのだろうと思っていた。それでも、自分は確かに取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
「……あのさ」
藤堂がの腕から離れる。そして、向かい合って真っ直ぐにを見た。呼吸は落ち着いていた。
「前にも言ったけど、薬を飲むと決めたのはオレ。おまえを助けたくてへましたのもオレ。おまえが責任感じる要素は何一つないんだよ」
「……」
「まあ、おまえいい奴だから、そんなこと言っても責任感じるんだろうけど」
藤堂がの頭に手をのせて、わしゃわしゃと撫でる。
「オレは新選組に戻るよう説得してくれたおまえには感謝してるから。あまり自分のこと責めんなよ」
が油小路で藤堂に向かって言った言葉を肯定してくれる。連れ戻したことをよかったと肯定してくれる。――でも、自分のせいで藤堂という人間は死んだ。そのことを消化するには、まだまだ時間がかかりそうで。いっそ恨んでくれた方がどれほど気が楽だっただろうと、そう思うのだ。
翌日、は斎藤と共に江戸の町を歩いていた。松本の病院に行くためだ。病院には、近藤や沖田を含め怪我をした隊士たちがいる。大坂城まで連れ帰ることができなかった隊士たちもたくさんいる。戦場に残してきた。共に稽古してきた彼らの姿がないことを、時折思い出して胸が痛む。
「なあ、斎藤さん……三番組の隊士も、何人か死んだだろ」
「ああ」
「そういう人たちの死について、どうやって心の整理つけてきたんだ?」
いつも見かけていた人がいない、というのは思っていた以上に寂しくて。井上や山崎の姿を探してしまったことも何度かある。そして、昨日の藤堂のことも心に重石を残している。
「彼らの志も背負って戦うと決めている」
斎藤は、はっきりとそう言った。
「志を、背負う……」
「わからないか」
「意味はわかるけど、理解はしてないと思う」
同じ志を持った仲間、それが新選組だ。だから、彼らの思いも背負うと決めている。意味はわかる。だが、思いを背負うとは、一体どういうことなのだろうか。
「死んでいった人間、戦えなくなった人間の志を継いで戦えるのは、今生きている人間だけだ」
今生きている人間、とは繰り返す。は今生きている。死んだ井上や山崎、隊士たち。彼らの思いや志を引き継いで戦うことができるはず。……よく、わからなかった。
「あんたが戦い続けることで、誰かが救われることもあるかもしれん」
自分が戦って、誰が救われるのだろう。
「……そういうもんか」
納得した言葉は呟いたが、隣に伝わるほど納得はできていなかった。
病院に到着する。まずは二人で近藤に挨拶に向かった。
「近藤さん、こんにちは」
「やあ、斎藤君、君。来てくれたのか」
近藤が嬉しそうに笑顔を見せる。
「お加減の方はいかがですか」
「ああ。まだ自由に腕を動かすことはできないが、体調は良いよ。ありがとう」
斎藤が今の新選組の状況報告を行い、隊士たちの様子を見に行くからとを置いて立ち去った。
「総司の様子を知っているかね」
近藤に問われ、は首を傾げる。
「いや、この後行こうと思ってましたけど?」
「総司の病のことを、君は知っていたとトシに聞いてな」
「……あの鬼副長め」
が苦々し気に呟く。沖田の病の話は、彼が労咳であることが判明した伏見奉行所で土方に問われた。は今更隠すことでもないからと、知っていると答えたのだ。
「怒りますか?」
「いや、むしろ逆だよ」
近藤は首を振る。
「ずっと総司の病に気がつけなかった、俺たちの落ち度だ。君はずっと総司を支えてくれていたのだろう? ありがとうと、そう言いたいと思っていたんだ」
は眉を寄せる。
「支えてたつもりはないんですけど……源さんにも同じことを言われました」
まるで兄妹のようだと。他の人にはできないことをしたのだと。そう言ってくれたのは井上だった。
「源さんか……惜しい人を亡くした」
「……」
近藤が重く呟き、も俯いた。
「だが、立派だった。立派に最後まで戦った」
近藤は、誇らしげにそう言った。はずっと疑問だったことを聞く機会だと思った。
「近藤さん、聞いてもいいですか?」
「何だね」
「死んだ人に対して『立派だった』って言うのは、武士道の何かですか?」
死んでいった人に対して、「立派だった」と皆が口を揃える。ずっと意味がわからないままだ。
「そうだな。武士に対して言うのは間違いないだろうな」
近藤は頷く。
「『花は桜木、人は武士』という言葉があってな。花の中では桜が最もすぐれており、人の中では武士が第一という意味の諺なんだが……桜が潔く散るように、武士も潔く散るのが美しいとする考えが武士道にはある。武士は庶民よりも死が身近にあるだろう? そのため、武士が死を覚悟して戦場に臨む時、最後まで美しくあろうとするものなんだ。……美しく死ぬとはどういうことか、わかるかね」
「わかりません」
は正直に答える。近藤が微笑んだ。
「それは、美しく生きることだ」
美しく生きること、とは呟く。
「死を自覚するとき、精一杯最後まで生きる覚悟が生まれる。死というのは最後に必ず訪れるものだが、人々から感謝と名誉に包まれて死ぬことは、立派な生き様だったと言えると思わないかね」
「源さんと山崎さんは、立派な生き様だったってことですか」
「ああ。俺はそう思うよ」
は頷く。
「そっか……それなら少しわかる気がします」
立派な生き様だった。彼らは敵に背を向けることなく、最後まで戦い抜いた。それは、確かに感謝と名誉に包まれた死だったのだろう。
「だからな……その、君が雪村君に対して『死んでも守る』と言うのは……」
近藤が言いにくそうに言葉を濁す。ああ、とが頷く。
「美しい生き方ではない、ってことですね」
「そこまでは言わないが……」
「大丈夫です。自覚しました。おれの命を千鶴に押し付けるのは、確かに美しい生き方じゃないなあ……」
千鶴を守って死んでも。千鶴はきっと感謝してくれない。それは、藤堂に対して感謝よりも責任の方ばかり感じている自分だからよくわかる。
「おれは武士になるつもりはないけど、少し考えてみます。ありがとうございました」
そうして近藤の部屋を離れ、沖田の部屋に向かう。沖田は上体を起こしてはいたが、咳を繰り返していた。どんどん咳が苦しそうになっているな、とは思う。そんなことは気にしていない様子で、は近藤と話したことを聞かせた。
「ふうん、武士道の話か」
「うん。ちょっとだけわかった気がする」
土方は禁門の変の時、天王山で切腹した長州藩士たちの潔さを見事だと言った。その意味が数年経ってわかった気がした。土方は最後まで武士であり続けた彼らを美しかったと認めたのだろう。
「それにしても……君はこんなところまでついて来ちゃって、これからどうするつもりなの?」
沖田に問われて、は首を傾げる。
「どうするって言われてもなあ……今まで通りだよ。新選組の隊士みたいなでいるだけ」
隊士のようであって隊士ではない。そんな存在で今後もあり続けるのだろう。それを誰かから咎められることでもない限り、何か転機でも訪れない限り、今まで通りが続く。近藤に誘われたことは、少し胸に残ってはいるけれど。
「幕府は賊軍扱いになったんでしょ? 千鶴ちゃんと、戦いが立て込まないうちに家に帰った方がいいんじゃない?」
「冗談!」
が大声を出す。
「おれは、新選組がどうなるのか見たい。だからついてくって決めた」
「それはきっと、死と隣り合わせだよ」
「そうかもしれない」
沖田の忠告するような言葉に、は笑みを浮かべた。その忠告は、本人にその気がなくても遠回しな心配であると、これまでの付き合いでわかっている。
「でも、ここで家に帰ったら、おれは後悔する。それは絶対だから」
帰ることは簡単だ。だって自分は隊士じゃない。だが、ここで帰ってしまったら、新選組の行く末を見届けたいと言った自分の言葉が嘘になる。土方と話した言葉が嘘になる。ついて行くと言った。だから、ついて行くまでだ。今まで通りに。
「まあ、君はこうと決めたら言うことを聞かないからなあ」
「えー、そんなことないだろ」
ある、ない、という言い合いは沖田の咳で中断された。今でさえこんなに苦しそうなのに、この先もっと苦しくなるのだろうかとは思う。死ぬまで、苦しみ続けるのだろうか。
「……薬を飲めば、僕の病も治るのかな」
沖田がぽつりと呟く。は首を傾げた。
「薬なら今だって――」
そして意図に気が付く。薬とは、肺の薬ではない。「変若水」のことだ。以前山南が言っていた。変若水の効果があるのは、生きている人間だけ。生きているうちに沖田に薬を飲ませるべきなのでは、と。藤堂のことが脳裏をよぎる。
「冗談、やめろよ」
声が掠れた。
「冗談だと思った?」
沖田がを見る。その目に、冗談を言っている気配はない。
「戦えるならなんだっていいよ。たとえ人じゃなくなったって、近藤さんの役に立てるなら――」
「駄目だ!」
が沖田の言葉を遮った。
「駄目だよ……総司さんまで羅刹になったら、おれは……っ」
労咳で苦しんだ後に、吸血衝動に苦しむことになる。そんな姿を、見たくはない。沖田はを見て苦笑した。
「相変わらず変な子だよね、君って。僕がどうなろうと、君には関係ないでしょ?」
「……本当にそう思うのかよ」
が沖田の両肩を勢いよく掴んだ。
「本当に、おれが何も思わないと思ってんのか? あんたが人じゃなくなって、血に飢えて苦しむ姿を見て、おれが何も思わないと思ってんのか!?」
「……」
「頼むから、自棄になってもそんなこと言うなよ」
俯いて唇を噛む。そんなの頭に手がおりてきた。
「うん、ちょっと自棄になってたかな。ごめんね」
少しだけ笑ってから、沖田は表情を戻した。
「平助と何かあったの?」
どうしてわかるのだろう、と思ったが口にはしなかった。実際、沖田に羅刹になってほしくないのは、昨日の藤堂の様子を見たからだ。血に飢えて、皆の見ていないところであんな風に苦しんでいるのだ。はなんでもないとだけ言った。
「、そろそろ帰るが……取り込み中だったか」
斎藤がやってきて、そんなことを言った。今、が沖田の両肩を掴み、沖田がそんなの頭を撫でている状況だった。
「一君、つまらないこと言ってると斬るよ」
沖田が不機嫌そうに言って二人は離れた。が立ち上がる。
「じゃあな、総司さん。またな」
「うん、またね」
この「また」というやりとりを、あと何度交わすことができるのだろうと思って、は頭を振って考えをなかったことにした。