慶応四年一月九日。鳥羽伏見の戦いが薩長側の勝利で終わり、幕府軍が撤退するとともに新選組は幕府が用意した蒸気船に分乗して江戸に向かう。京に来てから四年。千鶴とは四年ぶりに故郷に帰ることとなった。
大坂から出航したその夜のこと。は甲板で暗い海を見つめていた。
「どうした。眠れねえのか」
甲板を歩く足音に目を向けると、土方が近付いてきた。
「土方さんこそどうしたんですか。眠れないんですか?」
「まあな」
そうして、土方はの隣に立った。風に土方の長い髪が揺れる。
「八郎と試合したんだってな」
「八兄に聞いたんですか? ったく、なんでもすぐ話すんだから……」
は息を吐く。
「どうしてそうまでして、俺たちについて来ようと思った?」
土方が問う。うーん、とは唸る。
「まだわからないことがあって」
は少し考えてから、言葉を紡ぐ。
「土方さん。後を託して死ぬって、どういうことですか?」
井上が言った。山崎が言った。土方を、新選組を頼むと。隊士でもなんでもない、自分に言ったのだ。
「自分が死んだ後のことなんてわからないのに、死後のことを頼むってどういう気持ちなんだろうと思って」
「信じたんだろうよ」
土方からの答えはすぐにあって、は隣を見上げる。
「源さんや山崎がおまえに何かを言ったのなら、あの二人はおまえを信じたってことだ。この後も生き残って戦い続けると、そう信じたからこそ、後を託したんだ」
「信じる……」
自分はできるだろうか。誰かを心から信じて、思いを託すということが。
「……土方さん、覚えてますか? おれが新選組に来たばかりの頃、『誠』の意味について教えてくれましたよね」
土方がふっと笑う。
「ああ、そんなこともあったな。あの頃のおまえは、本当に誰一人信用しちゃいなかった」
「今は違いますよ」
は縁に手を置いて、暗い海を笑顔で見つめる。
「おれは新選組が好きだ。みんなと一緒に戦いたいって思ってる」
それが、今の素直な気持ちだった。新選組のことは信用に足る存在だと思うし、共に戦いたいとも思っている。
「でも、おれは隊士じゃないから……きっと命を懸けて新選組のために、何かを成すことはできないんだろうなって」
きっと同じ隊士だったら、こんな不安はないのだろう。
「命を懸けて千鶴を守ろうって本気で思ってたんです。でもそれって、千鶴におれの命を押し付けてるみたいだから……それはやめようって思ったんです」
死ぬ覚悟はある。でも、千鶴のために死んだら、きっと彼女は自分自身を責める。それは、ただのの自己満足でしかない。
「千鶴にも言われてるんです。何か他に守りたい気持ちとか見つけて欲しいって。まだ見つけられてないんですけど」
土方が呆れたように息を吐いた。
「おまえはなんでもかんでも雪村雪村って言うがな……おまえは何がしたいんだ?」
「おれがしたいこと?」
首を傾げる。
「雪村を守りてえっていうのはあるだろうが、そうじゃねえ。おまえがおまえのためにやりたいことは何なんだ?」
「おれが、おれのために……?」
「源さんと山崎は、おまえや雪村のためでも、新選組のためでもねえ。あの二人は己の信じるものを貫き通して死んでいったんだ」
己の信じるもの。誠を貫いて死んだ。
「二人とも、立派だった」
土方は噛み締めるように言った。己の信じるものを貫き通して死んだら立派なのか、とは思った。基準はわからないが、きっとそういうものなのだろう。
「……土方さんが、自分のためにやりたいことってなんですか?」
問いかける。
「今は、最後まで戦い抜くことだな」
土方もと同じように船の縁を掴んだ。
「諦めねえ。一度や二度の敗北がなんだ。戦って、戦って、最後は勝つ」
遠い水平線を睨みつける横顔を見て、はまた首を傾げた。
「それ、新選組のためじゃないんですか?」
「俺がそうしたいって思ってるんだから俺のためだ」
「……ははっ」
「何笑ってやがる」
「いや、そういうのもありなんだなって思って」
自分のために何がしたいか。そんなこと、考えたことがなかった。そして、自分がそうしたいと思えばなんでもいい。――思いつくものが、ひとつだけあった。
「おれは……今は、新選組がどうなるのかが見たいかな」
一度や二度の敗北では諦めないと。刀が折れても、仲間を失っても。泥を啜ってでも戦い抜く。そんな新選組が、どうなるのか見て見たい。最後には勝つのか、それとも負けて地に落ちるのか――負けても戦い続けると言っているから、勝つまで戦いは続くのかもしれないが。そんな志を貫こうとしている新選組と一緒にいれば、自分も、何か見つけられそうな気がした。己の誠を。貫きたい思いを。そして、誰かを失う覚悟や、後を託す意味についても、わかるかもしれないから。
「そうか」
土方はそう言って、に目を向けた。
「じゃあ、。おまえはこれからもついて来るんだな?」
「はい。どこまでもついて行きますよ、土方さん」
は微笑み、力強く頷いた。
誰もが体と心に傷を負う中で、は心に一つの灯を見つける。それが何かは、まだわからない。