慶応四年一月三日。何としても幕府軍との戦に持ち込みたい薩長軍と、なかなか挑発に乗らない幕府軍の間で緊張が続いていた。
は奉行所の屋根の上にいた。薩摩藩が陣を敷いているのは後香宮神社。伏見奉行所とは目と鼻の先だ。屋根の上からだと兵士たちの姿も確認できる。大砲が何門も配備されているが、兵士の数は少ない。兵力は明らかにこちらの方が上だった。
「ちゃん、ご飯食べないの?」
外に出てきた千鶴が問いかけてくる。
「うーん、そうだな……」
腹はさほど減ってはいない。だが、食べられる時に食べておくべきか。そう思った時だった。遠くから砲声が聞こえ、は立ち上がった。
「今の音、大砲か!?」
「始めやがったのか!?」
幹部たちが外に出てきた。
「! 方向はわかるか!」
土方が叫ぶ。
「そこまでは……でも近いです!」
土方が指示を出し始める。待機していた組が慌てて準備を始めた。
「! 的になる前に降りてこい!」
原田に言われ、は屋根を蹴った。着地し、土方のところに向かう。
「土方さん、おれは?」
「おまえはひとまず待機だ。まだ敵の状況がわからねえからな」
土方の指示が飛び、返事をする隊士たちの声が重なる。
大砲が鳴り続く。隣の龍雲寺にも大砲が配備されているとは知っている。そこから撃ち込んできていて、奉行所が揺れ始めた。一発でも当たれば奉行所が崩れ落ちるだろう。
「俺は部隊を率いて本陣を攻めてくる。……とはいえ、御香宮神社までの道中にゃでっかい坂がありやがる。しかも坂の上にゃ、銃を構えた兵が構えてるときてる。登ってる間に狙い撃ちされちまうな。これを打開する策といやあ……」
土方がぶつぶつと言っていると、永倉が刀に手を添えて笑った。
「よし、わかった! そんじゃ、俺が斬りこんでくるぜ」
永倉があまりにもいつも通りの様子で言ったので、は目を丸くした。
「……やってくれるか、新八」
「誰かが行かなきゃならねえんだろ? だったら行くさ。このままやられっ放しで、何もできねえまま終わるよりずっといい」
「よし、それじゃ二番組を斬りこみ隊に指名する。御香宮神社を攻撃してきてくれ」
「ああ、任せといてくれよ。この永倉新八、タダじゃ死なねえぜ」
「飛び込む時は、俺たち十番組が援護してやるからな。安心して突っ込んでってくれよ」
原田も当たり前のように言った。
「それじゃあ、行って来るぜ!」
二番組と十番組が出陣した。砲声が聞こえ、奉行所が揺れる。
「斎藤、山崎は俺についてこい。龍雲寺に向かうぞ。とりあえず、あの砲撃を止めなきゃどうにもならねえ」
「承知しました」
こうして土方や斎藤たちも出陣していった。
「どうしてだろう……」
千鶴が呟いた。
「どうしてって、なにが?」
が独り言を拾って問いかける。
「もしかしたら、死んでしまうかもしれない危険なお役目なのに……皆さんには悲壮感なんて欠片もない」
千鶴が不安そうに言った。彼らが自棄で言っているのではなく、本気でこの戦いに勝つつもりでいることは知っている。それでも、死ぬのはきっと一人や二人なんて数で収まらないこともわかっている。
「……きっと、それが武士ってやつなんだよ」
が答えた。まだ、自分にもよくわからないけれど。そんな姿に、少し羨ましさを感じ始めているのも確かだった。
日が暮れた頃に皆が帰って来た。相馬が最初に懸念していた通り、敵の銃の射程が長く、二発に一発は命中する精度の高さ。誰も敵陣に踏み込むことは叶わず、そして死んだ隊士たちを連れて帰ってくることもできなかったと。
「左之ー、生きてるか?」
「なんとかな。夕方頃は本気で死ぬと思ったぜ」
軽口を叩き合いながら永倉と原田が戻って来た。
「ここまでは防戦一方だったが、日が暮れた今ならば敵の銃の狙いも定まらぬはずだ。反撃の為には、この機を逃すわけにはいかん」
斎藤が言った。そして、土方が戻って来る。
「あ、土方さん。状況はどうなんですか?」
が問う。
戦が始まって状況がわかってきた。幕府側の兵は一万五千。薩長はどう見てもその半数以下。ただ、薩長軍は最新の銃を使っており、斬り合いも間合いに入ることはできないと言うのは耳にしていた。
「正直言って、厳しいな……だが、今夜を逃したら明日にはもっと状況が悪くなっちまうだろう。闇に乗じて敵陣営に乗り込むしかねえ」
土方が言った。永倉が膝を叩いて立ち上がった。
「待ってました! このまま防戦一方より、そっちの方が俺らの性に合ってるよな」
「俺も賛成です。銃撃戦が続けば、こちらが不利になるのは目に見えています」
「問題は、動ける奴が減っちまってるってことだよな……うちの十番組の奴らも、全員は動けねえ」
「ほぼ無傷の羅刹隊を使うしかねえ」
羅刹隊か、とは思う。藤堂の方をちらりと見ると、少し緊張した表情をしていた。彼は、羅刹隊として本当にやっていけるのだろうか。皆が外に出て行くのを、は不安な気持ちで見送った。
日が昇るとまた大砲が響き始めた。怪我人だけがどんどん増え、千鶴はその手当を行っており、も千鶴に聞きながら手伝っていた。そんな時。
「冗談じゃねえぞ!」
そう叫びながら帰って来たのは永倉だった。
「どうしたんだ、永倉さん」
が駆け寄る。
「奴ら、錦の御旗を掲げやがった!」
永倉が憤慨した様子で言った。が首を傾げる。
「錦の御旗?」
「ああ、朝廷軍であることを表す旗のことだ。つまり、奴らは天皇が認めた軍ってことだよ」
ようやくが状況を理解する。
「おれたち、賊軍扱いってことか……」
「そういうことだ。くそっ」
各地の戦況が収集された。錦の御旗を見た幕府軍は士気が一気に下がってしまったようで、どこの戦闘も敗走が始まっているという。新選組は何度も隊士を入れ替えては出撃していたが、やはり武器の性能のせいで思うような戦果は上げられずにいた。
「土方さん。千鶴見ませんでしたか?」
翌日。は奉行所に千鶴の姿がないことに気が付き、休憩を取っている土方に問いかけた。
「ああ。源さんと一緒に淀城に援軍を頼みに行ってもらった。そのまま向こうにいてもらった方が、ここよりは安全だろうからな」
「そうですか……」
結局千鶴は戦場から離れることになったのだ。でも、井上が一緒なら大丈夫だろう。がそう思った時だった。
「で、伝令……!」
山崎の声がして振り返ると、そのまま彼は倒れ込んだ。血塗れだった。
「山崎!」
「山崎さん、大丈夫か!?」
と土方が駆け寄る。深い傷を負っていた。
「淀藩が、敵に寝返りました……!」
血を吐きながら、山崎が言う。
「なんだと……!?」
土方が唖然とした声をあげる。膝をついていたが立ちあがる。考える暇はない。
「おれが行きます!」
土方を睨みつけ、が言った。土方が一つ頷くのを確認し、は奉行所を飛び出した。
「さん、俺も行きます!」
相馬の声が後ろからしたが、は振り返らなかった。
砲撃の音が遠い。距離があるからではない。自分の心臓の音が、大きく聞こえる。走る。走る。早く伝えなくてはいけない。淀城に行っては駄目だと、二人に伝えなくては、千鶴が、井上が、死ぬ。
四半刻程駆け抜けた。淀に到着すると、遠くに銃と刀を持った男たちを見つけた。その男たちの前で、膝をついているのは千鶴。そして――井上が血塗れで倒れていた。状況を、理解する。
「相馬! 千鶴を守れ!」
返事を待たずに、は刀を抜き地面を蹴った。風のように千鶴たちの横を駆け抜け、は敵の前に飛び出した。体が軽い。刀が軽い。今ならそう――なんでもできる。
「新選組だ! 殺せ!」
そう言った男の首を落とした。銃を向けて来る男を腕から斬り落とした。敵がどのように動こうとしているのか、どこにいるのか、背後すら見なくてもわかる。銃弾が肩を掠ったが痛くもなかった。それよりも怒りが勝る。状況次第で信念を曲げて敵に寝返るこいつらが――否、信念など何もないだろうこいつらが、憎くて、憎くて仕方がない。
斬る。斬る。増援が来たが、全員斬った。耳鳴りがする。頭が痛い。でも、視界が開けたようによく見える。
――そうして、立っているのは自分だけになった。
「ちゃん……?」
振り返る。驚愕の表情でこちらを見ているのは千鶴と相馬だ。ああ、無事だった。安堵の息を吐いて、ようやく呼吸が戻って来た。肩で息をしながら歩き出そうとして膝が折れた。
「げっほ、げほっ!」
「さん!」
せりあがってきたものを口から吐き出すと、ぼたぼたと血が落ちた。怪我もしていないのにどうしてだろうと思う。相馬に手を借りて立ち上がる。少しふらついたが歩けそうだ。
「源さん……どうだ?」
千鶴に近付いて問うと、千鶴が力なく首を振った。辛うじて息がある状態で、長くはないことは理解できた。
「君……敵は……」
「大丈夫。全員殺したよ」
が答えると、そうかい、と言って井上は笑う。
「トシさんに……伝えてくれるかい……」
血を吐きながら井上が言う。伸ばした手を、千鶴が両手で掴んだ。
「力不足で申し訳ない……最後まで共に在れなかったことを、許してほしい。こんな私を、京まで一緒に連れてきてくれて……」
千鶴の目から涙が落ちる。
「最後の夢を見せてくれて、感謝してもしきれない……とね」
井上が笑う。優しい、いつもの井上の笑みだ。
「ああ。伝えるよ」
涙で言葉が紡げない千鶴の代わりに、が言った。井上の目が最後にを捉えた。
「トシさんのこと、頼んだよ……」
そう言い残して、井上は息を引き取った。
三人とも、しばらくその場から動くことができなかった。最初に立ち上がったのはだった。
「行こう。大坂城に行けば、みんなと合流して、まだ戦えるはずだから」
「そうですね」
相馬が続く。が相馬を見た。
「相馬、源さん背負えるか?」
「はい、大丈夫です。……皆さんのところへ、お連れしましょう」
が頷いた。千鶴は目元を拭って、井上から離れた。
ほとんど会話がないまま、大坂城への道を歩き、辿り着いたのは夜になってからだった。
「相馬!」
大坂城の門のところで、手を振っているのは野村だ。斎藤と共に立っている。
「雪村先輩にさんも! それから――」
そうして言葉を失った。息の無い井上を見て、野村も斎藤も言葉はなかった。
「なんだよ、元気ねえじゃん。巻き返すのはこっからだろ?」
が言うと、斎藤が小さく息を吐いた。
「まずは副長のところに行くといい」
斎藤がそうとだけ言った。首を傾げ、三人は大坂城へと入る。近くにいた隊士に井上を任せて、土方がいる部屋を聞いてそこに向かった。土方がいる部屋に入ると、血塗れのと相馬を見て土方は驚愕した。
「おれのは返り血です。相馬は……源さんの血……」
「源さんの、だと?」
千鶴が説明をした。淀城に到着すると、城の門は閉まっており、銃撃されたこと。森の方に逃げたは良いが淀城からの追手が来ていたこと。井上が千鶴を庇って撃たれたこと。そこでと相馬が来て、が全員を斬り殺した。井上からの遺言も伝えると、土方は一度目を瞑り、そうか、と一言だけ言った。
「悪い知らせが続くがな、この大坂城に籠城をする用意はない」
「籠城をする用意がない……!? それはどういうことですか!?」
相馬が驚きの声をあげる。土方は不機嫌に続けた。
「どうもこうもあるか。今言った通り、そのままの意味だ。お偉いさんは籠城をしてまで、ここを守って戦う気なんてないんだとよ。……何しろ総大将御自ら、既に江戸にお発ちになったそうだからな」
「まさか、慶喜公が他の者を置いて先に逃げ出したと言うんですか!?」
相馬が床を殴る。
「くそっ、くそっ! なんでだ! なんで敵と戦いもせず、この城を明け渡すなんて……これじゃ、幕府が負けたと宣言してるようなものじゃないか!」
相馬がもう一度床を殴る。
「やめろ、相馬。俺たちはまだ負けたわけじゃねえ」
土方が言う。相馬が顔を上げた。
「ですが! この状況では、もうどう考えたって……!」
「確かに今回は俺たちの負けだろうさ。この戦いは薩長軍の方が上手だった。そこは認めるしかねえ。だが、たかが一回の負けがなんだ? どんな名将だって百戦して百勝ってわけにはいかねえだろ」
土方は腰を上げると、相馬の前に膝をつき、その肩に手をのせた。
「いいか、覚えとけ相馬。本当の負けってのはな、戦に敗北したことを言うんじゃねえ。心が折れて諦めた時を言うんだ」
土方は続ける。
「だから、俺は絶対に諦めねえぞ。敗北を味わおうが、傷つこうが……仲間を失おうが。刀が折れて一敗地に塗れても、泥を啜ってでも戦い抜く。それが俺たち、新選組だ」
土方の言葉が、胸に染みわたる。そうだ、はそれこそが武士なのだと思った。敗北を悟ったら潔く死ぬのが武士なのかもしれない。腹を切るべきなのかもしれない。でも、新選組は違うと思っていた。それが、改めて言葉で伝えられて、は言葉にできない感情が胸にこみ上げた。
それから、重傷の山崎がいる部屋にと千鶴は駆け込んだ。治療は終わっているようだが、もう長くはないと松本は言った。松本が出て行き、千鶴が代わりに山崎の世話を始めた。
「君、副長は、どうしている?」
荒い息で、山崎が問う。
「まだまだやる気満々だよ。泥を啜っても戦うってさ」
「そうか……」
「だから、山崎さんも元気になってくれなきゃ困るよ。次の戦のためにおれたちは働かなきゃならないんだから」
笑いながらが言う。
「君」
「なに?」
「初めて君を見た時、なんて危なっかしい子が来たのだろうと、そう思った」
急にそんな話を始めたので、は首を傾げた。
「だが、君のその強さを貪欲に求める姿は……何度躓いて転んでも這い上がる姿は……俺には、眩しかった」
山崎が手を伸ばす。がその手を取った。
「だから、君に託したい」
山崎が笑う。
「副長を……新選組を、頼む」
が目を丸くした。
「な、何言ってんだよ! 大体、おれ新選組の隊士じゃないし……土方さんどころか新選組のこと頼まれたって――」
「頼まれて、くれないか」
手を強く握られる。山崎の目との目が合う。
「……わかった」
が頷く。
「土方さんも新選組も、おれに任せろ! だから山崎さんは――」
「そうか――よかった」
山崎は安心したように呟いた。そうして目を閉じる。
「山崎さん! あんたも生きなきゃ駄目なんだよ! 土方さんをおれ一人に押し付けるつもりか!? おい! 山崎さん!」
山崎は、もう何も答えなかった。
千鶴に後のことを任せて、は廊下の片隅で外を見ていた。一月の夜の風は冷たく、刃のように頬を撫でる。でも、そんな痛みも、今は気にならなかった。
「ちゃん」
声がかかって振り返る。
「……八兄」
伊庭がこちらに歩いてくる。遊撃隊は慶喜公と一緒に江戸に戻ったのではなかったのだなと思う。
「新選組の状況は聞きました。井上さんと山崎さんのことも」
「……そう」
は外に顔を戻す。伊庭が隣に立った。
「ちゃん」
「なに?」
「これから僕たちは、船の準備が出来次第江戸に戻ります」
「土方さんに聞いたよ」
「あなたと千鶴ちゃんは、江戸に戻ったら家に帰ってください」
が隣に目を向ける。
「これ以上、あなた方はこの戦いに関わるべきではない」
今までとは違う、本気で言っているのがわかった。は外に目を戻してから、窓から体を離した。
「八兄。ちょっと付き合って」
それだけ言って、は廊下を歩き始める。伊庭がその後をついてきた。
やってきたのは城の外。誰も攻めてこないから、門の前に警備もいなかった。が刀を抜き、伊庭に目を向けた。
「本気で勝負して。おれが勝ったら、おれは家には帰らない」
「ちゃん」
窘めるように伊庭が名を呼ぶ。
「なぜですか? あなたは新選組の隊士じゃないんでしょう? これ以上戦いに加わって、本当に死んだら千鶴ちゃんやご両親がどれだけ悲しむか、わからないわけじゃないでしょう」
「わかってるよ」
刀を構えて、は言う。
「まだ悩んでる。だから、おれの相手をしてほしい」
「……」
「負けるようなら、八兄の言う通り、おれはこれ以上関わる前にいなくなった方が隊のためだ」
伊庭は悩んでから、刀を抜いた。向き合って構える。
開始の合図はなかった。が踏み込む。刃が噛み合う。一合、二合と刀を交わらせる。伊庭も今日は本気で相手をしているのがわかった。ここで伊庭が負ければ、は新選組に残ることになる。でも、も負けるわけにはいかなかった。集中する。集中する。周囲には何もなく、目の前にただ敵がいるだけ。この敵を殺さないと、自分たちに明日は来ない。どうして明日を求めるのだろう。この明日に、井上も山崎も、もういないのに。いつも通りの明日など、もう来ないのに。
頭に金属の音が響く。暗闇でも、伊庭の動きはよく見えた。沖田に似ているようで、全然似ていない。強いとは思う。でも、が相手をできないほどではない。落ち着いて、振り下ろされる刃を捌いていく。そして仕掛ける。が大きく踏み込んだ。
「くっ……!」
伊庭が体勢を崩した。の刀の切っ先が、伊庭の眼前で止まった。
「……おれは、新選組についていく」
は言った。二人は構えを解く。
「ちゃん……あなたはどうしてそこまでして……」
伊庭が困惑した表情で問う。
「まだわからないから」
「わからない?」
夜空を見上げる。
「武士ってどんなものなのか、ってこと」
そう言って、は伊庭に向かって笑みを向けた。