慶応三年十二月中旬。王政復古の大号令。将軍慶喜公の大政奉還を受けて、天皇より発せられた。大政奉還後も朝廷の委任により庶政を担っていた幕府はこれによって廃絶を宣言されたが、朝廷もまた同時に廃絶となり、天皇の下で公家・諸大名・諸藩士から登用する新政府が発足することとなった。
 新政府は慶喜公に官位の辞退と土地を朝廷へ納めるように求めたが、慶喜公は即決できかねるとして二条城から大坂城へ移るに留まった。そのまま、大坂城では幕臣たちの間で主戦論が高まり、京に幕府軍税を集め始めた。新選組は幕府の軍勢を補佐するため、守護職の要請により伏見奉行所に入ることとなった。不動堂村の屯所は一時閉鎖となり、沖田を含めすべての人員が伏見へとやってきた。
 薩摩藩がこれ以上の政治的解決は不可能とみて江戸での挑発行為を始め、それに対して庄内藩が薩摩藩邸の焼き討ちを行った。この焼き討ちを機に、薩摩藩を討とうという機運が幕府内で高まったのである。
 そんな話を永倉に説明してもらったは、奉行所内を歩いていた。

「――ああ、相馬。おまえの懸念はもっともだ」

 土方の声が聞こえ、は足を向ける。土方と相馬が話をしていた。

「皆は勝って当然と考えていますが、俺は敵を侮るべきではないと思います。俺が陸軍隊として参加した長州征伐も、幕府はせいぜい賊軍を懲らしめる程度の戦だと考えていました。しかし、いざ蓋を開けてみれば、結果は幕府側の圧倒的な敗北……」
「だから俺たちも負ける、って言いてえのか?」
「いえ、そこまでは……」

 土方はふっと笑う。

「別に責めてるわけじゃねえよ。構わねえから、思ってることを言え。……正直に言っちまえば、俺も厳しい戦になると思ってるからな」

 相馬は少し迷って、話を続ける。

「以前の長州征伐の時、俺は最前線でこそなかったですが、それでもよく覚えています。こちらからは手が出せないのに、薩長の連中が銃を撃つ度に、味方が何人も倒れていく恐怖。……あの時の敗北感は、その場にいないとわかりません」
「敵さんの銃との性能差があることは、俺も前から憂慮してる。……とはいえ、戦わないうちから引くわけにもいかねえのは事実だ」
「……はい。わかっています」
「今更じたばたしたところで、銃が手に入るわけでもねえからな」

 敵との銃の性能差。敵の武器が銃で性能も良いのに、こちらの主力武器は刀だ。刀が銃に勝てるのか?

「おまえの意見は参考にさせてもらう。……最悪の事態に備えて、退路も確保しとかねえとな」

 そこで話は終わったかと思われた。

「何か意見はあるか、

 土方に問われ、は仕方なしに陰から姿を現した。相馬が驚いた表情をしていた。

「意見はないですけど……銃相手の戦い方がわかりません」

 土方が頷く。

「旧式の銃なら、弾を込め直す時間が必要だったり、精度が悪くて標的に当たらなかったりする。だから、間合いを詰めちまえば斬り合いに持ち込めるんだが……」
「長州の持っている銃は、旧式とは違います。連射ができるので弾込めする時間が不要なうえに、精度が高い。間合いに入るのは難しいと思います」

 土方と相馬がそれぞれ答えた。は眉を寄せる。

「それ、どうやって勝てばいいんですか?」

 負けるつもりでいるわけではないが、話を聞くだけだとこちらから攻撃のしようがないように聞こえる。

「それを考えるのが俺の仕事だ」

 新選組の頭。それが土方だ。は理解して頷く。自分は手足。土方が考えた通りに動くだけだ。
 すぐに戦が始まるわけではなかったので、はいつも通り外で自分の稽古をして過ごしていた。伏見奉行所に入って数日後のこと。

「ん?」

 足音が聞こえ、は木刀を振る手を止めた。二人分の足音が駆けていく。塀の外を覗き見ると、千鶴が誰かに手を引かれて駆けていくところだった。

「千鶴……?」

 手を引いているのは女のようだ。は少し悩んで、木刀を放り捨てて、足音を立てないようにして二人の後を追った。
 古びた神社に辿り着いた。は鳥居の陰から様子を窺う。ようやく手を引いていた女の顔が見えた。――南雲薫だ。彼女からこちらに接触してきたことはない。千鶴に何の用だろう。

「千鶴、久しぶりだね」

 聞き覚えのある男の声がして、は目を瞠った。

「父様……? 本当に、父様なの?」

 千鶴が声を震わせた。そこに立っているのは、確かに雪村綱道だ。駆けだそうとして、千鶴が思いとどまったように足を止める。

「……父様。聞きたいことがあります。新選組で、羅刹の研究をしていたというのは本当ですか?」
「そうか、聞いてしまったんだね……」

 綱道はあまり残念には思っていないような声で言った。

「確かに、私は新選組で変若水の改良を行っていた」

 千鶴が息を飲む。

「どうしてそんなひどいことを! 羅刹になったみんなを元に戻してください!」

 千鶴が縋りつくが、綱道が首を振った。

「無理だよ、千鶴。変若水の毒は、人を完全に変質させてしまう。元に戻すことはできない」
「そんな……!」

 言葉をなくす。そんな千鶴をいたわるように、綱道が千鶴の肩に両手を乗せた。昔と変わらない優しい微笑み。

「それに、なぜ戻す必要があるんだね? 羅刹は素晴らしい力を持っているだろう? ――この日ノ本を統べる鬼の一族として申し分ない」
「え……?」

 綱道は続ける。

「既に誰かに聞いているかもしれないが、おまえは由緒ある鬼の一族の生き残りなのだよ。おまえの一族は人間どもに殺されてしまった。だが――おまえと私の可愛い羅刹たちがいれば、雪村の里を復興することが可能なのだ。あの八瀬家や風間家など目ではない、鬼の一族の頂点に立てる。我々を見捨てた旧い鬼の一族を一掃することだって夢ではないはずだよ」
「……」
「さあ行こう、千鶴。一緒に羅刹軍と鬼の王国を作ろう。これは皆、おまえのためなんだよ」

 綱道が羅刹の研究をしていたのは、幕府のためでも新選組のためでもなかった。鬼の里――雪村の里を復興させるため。滅んでしまった千鶴の故郷を元に戻すため、薬の実験を行っていたのだ。
 千鶴は静かに首を振った。

「私は……行きません。私は羅刹の軍も鬼の王国も欲しくありません。誰かを傷つけて手に入れる居場所なんて要りません」

 千鶴がはっきりと言う。綱道の表情から笑みが消えた。

「……どうしてわからないんだね千鶴」

 千鶴の肩を掴む手に力が入る。

「父様、放してください……私は、一緒には行きません!」

 物陰に隠れていたが地面を蹴った。刀を抜く。そして、金属が噛み合う音がした。

「何してんだ雪村先生。千鶴が嫌がってんだろうが」
ちゃん……!」

 左手で千鶴を抱き寄せ、は南雲の持った刀と刃を合わせていた。

「フン、か。家族の再会を邪魔するなんて、無粋な奴だな」

 南雲の刀を押し返し、は一歩踏み出すと同時に刀を横に一閃した。綱道と南雲が後退する。

か。おまえには感謝しているよ。今まで千鶴を守って来てくれたんだったね」

 そう笑みを向けると、懐からびいどろの小瓶を取り出した。

「お礼にいい物をあげよう」

 放り投げられたそれを、左手で掴み取る。

「これ……変若水?」

 赤い液体が小瓶の中で揺れている。

「おまえには、羅刹になって引き続き千鶴の護衛を頼みたい。今の半端物では満足な力は出せないだろう?」

 隣で千鶴が息を飲んだ。は変若水を見てから、綱道を睨みつけた。

「ガキの頃、おれに飲ませたのは変若水なの?」
「いや。あれは失敗作だ。変若水ですらない」

 綱道は首を振った。そう、とは呟く。

「さあ、。それを飲むんだ。千鶴のことを思うなら、千鶴の故郷の復興にも協力してくれるだろう?」

 千鶴がの袖を引いた。

「ああ、おれは千鶴が大事だよ」

 そう言って、は小瓶を懐に入れた。刀を構える。

「だから、千鶴を連れ去ろうとするなら――おまえらは敵だ」

 綱道の顔から表情が消えた。ふっと南雲が笑う。

「だから言ったじゃないか、おじさん。なんかいらないってさ。ここで殺しておこうよ」
「千鶴、下がってろ」

 が声をかけると、千鶴は数歩後ろに下がる。
 踏み込むのは同時だった。刃が噛み合う。何度も何度も金属音を響かせて二人は斬り合う。は、いける、と思った。南雲の腕は新選組幹部には及ばない程度。集中しろ。相手を殺すのだと思え。決して勝てない相手ではない。

「ハッ……千鶴が大事とか言ってるけどさ。そんな千鶴の実の兄を目の前で殺すのかよ!」

 の動きが一瞬止まった。その一瞬を、南雲は逃さなかった。

「っ!」

 刃が掠った頬が裂ける。が後ろに下がった。

「千鶴の兄だと?」

 構え直しながらが問う。

「そうさ。俺は千鶴の双子の兄だ」
「そ、そんな……! 私に兄がいるなんて、父様は一度も……!」

 千鶴が声をあげると、南雲は苦笑した。

「未だにおじさんのこと本当の父親だと思い込んでるのか? 俺たちの両親は殺されたんだよ、里に攻め込んできた人間どもにな!」

 千鶴は言葉を失った。その反応に満足した南雲は、に笑みを向ける。

「千鶴のたった一人の肉親を殺せるのか? !」

 南雲が地面を蹴った。だが、は迷うことなくその刀を受け止める。驚く南雲に対し、は力強く刀を振るった。鋭い刺突が南雲を襲い、その頬に傷をつける。南雲が後退した。

「殺すよ。例え千鶴の肉親だろうと……おれたちの敵ならな」

 が静かに言う。南雲が自身の頬の血を拭ってから舌打ちをする。

「薫君。今日は帰ろう」

 綱道が言った。南雲が驚いて振り返る。

「でも、おじさん!」
「いずれ千鶴にもわかる時が来る」

 南雲は悔しそうに歯を噛んでから、綱道の隣まで下がった。

「千鶴。また会おう」

 そうして、二人は立ち去った。
 完全に気配が消えて、は刀を納めた。振り返ると、千鶴が青ざめた顔で立ち尽くしていた。

「千鶴」

 はっとして千鶴がに意識を戻した。そして駆け寄って来る。

ちゃん、頬の傷……」
「え? ああ、このくらいすぐ治るよ」

 頬を拭う。

「とりあえず、帰って土方さんに報告しよう」
「うん……」

 歩き出す。

「あの、ちゃん。さっきの変若水……」

 千鶴が問う。が受け取って変若水は、懐に入ったままだ。は懐に手を当ててから、真っ直ぐ前を見た。

「誰にも言うなよ」
「……飲むの?」
「わかんない」

 そんな時は来ない方がいい。そう思いながら、二人は奉行所へと帰った。