屯所の奥の誰も訪れない場所に、は初めて自分から足を運んだ。そこに見慣れた後ろ姿を見つけ、眉を寄せる。
「平助」
藤堂が振り向く。
「か。どうかしたのか? こんなところに来て」
「いや……その、体の調子とか、どうかな、と思って」
目が合わせられない。
「なんだよ。心配してくれてんのか?」
「するだろ……だって、おれが……」
「!」
びくりと肩を震わせる。藤堂が近付いて来て、の肩に手をのせた。
「オレが自分変若水を飲むって決めたんだ。おまえのせいじゃない」
藤堂は羅刹になった。傷は内臓まで届いており、あとは死ぬのを待つだけとなった時に、山南が藤堂に提案したのだ。変若水を飲まないか、と。こうして表向きには藤堂は死んだことになり、羅刹隊の一人として、日の当たらない生活が始まった。
「オレは自分で自分の道を選んだんだ。……死にたくなくて。あんなに嫌だと思ってた薬に縋ってまで、生きようと思った」
ただそれだけだ、と藤堂は笑う。の表情は晴れない。
「……そもそも……なんで、おれなんか助けたんだよ。あいつに刀が効かないの、わかってたんだろ」
俯いてぼそぼそと喋る。はあ、と藤堂は息を吐いた。
「じゃあ、おまえはなんでオレなんかに、戻って来いって必死になって説得してくれたんだよ」
「だって、それは――」
「オレのこと仲間だと思ってくれたからだって、オレは思ってたんだけど」
「……」
藤堂の言う通りだった。仲間だから、戻って来てほしいと思った。
「オレも同じだよ。おまえは仲間だから、死んでほしくないって思ったら、体が勝手に動いてた。その結果だ」
そう言うと、の頭をくしゃくしゃと撫でる。気にするなと言われても、きっと、自分はこの気持ちを消化するのに、まだまだ時間がかかるのだろうと思った。
「ところで、それ何持ってきたんだ?」
藤堂が指をさす。は風呂敷に包まれた荷物を片手に持ってきた。ああ、と言ってはその場に腰を下ろす。藤堂もそれに倣った。
「じゃーん」
風呂敷の中から、徳利と盃が出て来た。
「酒? どうしたんだよ、おまえ一人で買いに行ったのか?」
「いや、買い物行くっていうから、野村に買いに行かせた」
自分の小遣いを全部渡し、これで買える一番いい酒を買って来い、と言った。状況を理解した野村が、任せてくれと胸を叩いて買って来たものがこれだ。
「こんなんじゃ詫びにもならないんだけどさ」
藤堂に盃を差し出して、は眉を下げて笑う。
「呑もうぜ、平助。それとも、おれ相手じゃ楽しくないか?」
羅刹隊は引きこもった生活を余儀なくされる。だから、少しでも楽しさを感じて欲しいと思っての誘いだった。藤堂は苦笑する。
「ばーか、そんなわけないだろ」
藤堂はまたに手を伸ばして頭を乱暴に撫でた。幹部たちは自分を子供扱いするのをやめないな、とは思う。嫌なわけではないのだが。
徳利の口を開けて、藤堂の盃に酒を注ぐ。
「ていうか、酒飲めるようになったのか?」
は自分の盃に酒を注いだ。
「いや、初めて呑む」
「はあ!? ちょっと誰か呼んで来いよ! おまえが倒れたらオレじゃ運べないんだから!」
「大丈夫大丈夫」
「大丈夫じゃないって! せめて水も持って来い!」
「酒って言ったって、ただの米で作った水だろ?」
「おまえ馬鹿か!?」
徳利を置いて盃を持ち上げる。
「じゃあ、かんぱーい!」
「かんぱーい……」
藤堂が不安そうな声をあげた。は酒の呑み方はわからなかった。なので、よく永倉たちがやっているように、ぐいっと一気に呷った。
「あーあー、そんな一気に……!」
「……」
は無言で眉を寄せ、首を傾げた。
「……これがうまいのか? よくわかんない味がする。喉が熱い」
「この味がわかんねえとは、まだお子様だな。酒はやめて水でも飲んでろ」
「呑んでるうちにわかるようになるかもしれない」
「やめろ! まじで倒れたら運べないから!」
藤堂は、徳利を持ち上げて追加で酒を注ごうとするの手を掴んでやめさせようとする。やめろ零れる、おまえこそやめろ、などと騒いでいると、近付いてくる足音があった。
「何を騒いでいるのですか?」
「あ、山南さん……」
山南だった。羅刹隊のいる部屋に来ているを見て、眉を寄せた。
「山南さんもどうですか、お酒!」
だが、は徳利を持ち上げて山南に見せた。山南は息を吐き、少し思案してから近付いてきた。
「……そうですね。少しいただきましょうか」
「やった!」
藤堂がぽかんとした表情をしていた。は使っていない盃を渡すと、酒を注ぎだす。
「ただし、君は程々にするように。ここで倒れたら起きるまで放置しますから」
「二人とも心配性だなあ、大丈夫ですって」
「初めて酒呑むやつはみんなそう言うんだ……」
こうして、三人の静かな酒盛りが始まった。美味しいのかよくわからないと言いながら酒を呑み続けただが、顔色は一切変えずに最近の出来事を藤堂と山南に聞かせていた。
「それでさ、おれが『永倉さんって強かったんだな!』って言ったら、永倉さんが言ったわけ。『おまえ、俺のことただの女好きだと思ってるだろ』って」
「あってるじゃんね」
「だろ?」
「ふふ」
山南が声を出しておかしそうに笑った。
「なんだか懐かしいですね。昔はこうしてお酒の席で騒いだりしていたものですが」
「山南さんが?」
「藤堂君たちがですよ」
あはは、と藤堂が目を逸らす。
「こうして私とお酒を呑み交わしてくれる人など、とうにいなくなってしまったのですがね」
静かに山南が言う。藤堂が沈黙した。きっと左腕が自由だった頃は、近藤や土方、幹部たちと酒を呑むこともあっただろう。それが、今や日陰の民となってしまった。山南はそれを悔いていないというし、むしろ喜んでいるのだと言った。だが、過去の楽しかった思い出を懐かしく思わないはずもない。
「山南さんはここで何してるんですか?」
が山南の盃に酒を注ぎながら問いかけた。
「君、お酒回ってきていますね? 羅刹の研究ですよ。ご存知でしょう?」
「羅刹の研究って何してるんですか?」
「吸血衝動を抑える方法や、破壊衝動を抑える方法などですね。今の羅刹は以前よりは統率が取れて来てはいますが、完全に血に狂わなくなったわけではありません」
山南が溜め息をつく。
「綱道さんがいれば、羅刹の研究も進むと思うのですがね……」
そこまで言って、山南がを見た。
「そういえば、君は綱道さんに怪我を治してもらったことがあると言っていましたね」
「はい。十歳の頃かな」
「その時のことを覚えていますか?」
がずずと酒を呑む。
「面白い話じゃないですよ」
そう前置きして、は話し出す。
千鶴とはいつも一緒にいたようで、実のところ常に一緒にいたわけではない。自分は道場に通っていたので、一日のほとんどを道場で過ごして、その帰りに毎日雪村診療所に通った。それは、そんなある日の出来事。
道場から診療所への道の途中、聞きなれた声が聞こえた。それから男の声が数人。竹刀を担いだまま声を頼りに走ると、泣きそうな千鶴の前に笑いを浮かべた男が三人。この辺りでは見ない顔だったことだけ覚えている。
頭に血が上って、竹刀を振り回して、千鶴を逃がして男三人と対峙した。でも、十歳の女子供が三人の男に力で敵うわけもなくて。地面に何度叩きつけられたか、何度殴られたり蹴られたりしたかなんて数えることもなかった。ただ、目や口に砂が入っても、血や食べたものを吐き出しても、その男たちを殺すことしか考えられなかった。男たちは刀を抜いて、ついに自分を斬りつけた。いい加減にしろ、しつこい、とかそんなことを言っていたようにも思う。髪もその時に切られた。
それでも、千鶴は追わせない。絶対に殺す。それだけ考えて、既に折れていた竹刀を持って何度も立ち上がった。
「おまえたち、そこで何をしている!」
聞き覚えのある声がして、男たちは逃げて、視界に入ったのは千鶴と雪村先生で。
ああ、よかった、無事だった……そう思ったら、急に力が抜けて、倒れた。と、思う。
……そして、気が付いたら、診療所の布団の上にいた。体中に布が巻かれていて、怪我をしていたのはわかったけれど、不思議と体にもう痛みはなくて、ただ頭がぼうっとしていた。何をしていたのか思い出すのにしばらくかかっているうちに、雪村先生が来て、起きている自分を見てほっとした顔をしていたように思う。
「気分はどうだね、」
「悪くないけど、おれ何してたんだっけ?」
そんなことを話していると、千鶴が部屋にやってきて、突然泣き出した。
「ちゃん、ごめん……ごめんね……! 私のせいで……!」
その言葉で何をしていたのか思い出した。千鶴が怪我をしなかったのなら、まあ自分の怪我なんて些末なことだ。どうせもうどこも痛くない。
「傷の方は……ふむ、塞がったようだ。体に何かおかしなところはないかね?」
「ないかなー。今から走り回れそうなくらい元気だよ」
「そうか。さほど大きな怪我ではなかったようだから、良かった良かった」
少しだけ違和感を感じた。自分は確かに全身打撲と切り傷だらけだったはずだ。髪だって短くなっている。あれが夢ではなかったことは確かなはずだが、でも、事実治っているのだからそうなのだろうと納得をした。
その時に髪は灰の色に変わったが、怪我の後遺症だろうと雪村先生は言った。それからというもの、打撲も切り傷もすぐに治る体質になった。雪村先生は「千鶴を守るという良い行いをしたから、天から授かったのだよ」と説明をしてくれたし、そういうものなのだと思った。便利な体になった反面、髪は目立つのでそれっきり伸ばすのをやめた。
「……って、感じですかね」
は盃に残っていた酒を呑み干した。
「なるほど。薬を飲ませたらしいという部分は綱道さんから聞いただけで、自身では詳細はわからないと」
「そうです」
が徳利を持ち上げると、藤堂がそれを奪い取り、の盃に酒を注いだ。神妙な表情をしていた。
「……おまえ、本気で小さい頃から千鶴のこと守って来たんだな」
は首を傾げて、盃に口をつけた。にとって、それは当たり前で今更なことで、一体藤堂は何を言っているのだろうと思った。
「藤堂君、覚えていますか? 新選組に変若水が持ち込まれたばかりの頃、まだ羅刹に理性はありませんでした」
「……ああ」
「綱道さんが変若水を持ち込んだ時の研究成果はその程度だったはずです。それなのに、ほぼ完璧な変若水を君に飲ませている。これはなぜか」
藤堂が眉を寄せた。
「やっぱり、が飲んだのは変若水じゃなかったんじゃねえの?」
「そうですね。その可能性は多分にあります」
山南が頷く。
「考えうる可能性は三つ。一つは、藤堂君の言う通り変若水ではない何かだった。二つ目、その時一度だけ成功した、またはそのような好条件だった」
指を三本立てて、山南は言う。
「三つ目。それは応用できるものではなかった」
と藤堂が顔を見合わせる。何の話をしているのかさっぱりわからない。
「今の変若水は、原液に別のものを混ぜて薄め、効果を弱めたりといったことをしています。この薄めるための液体を何にするか、どの程度薄めるかが研究の中心だったのですが……」
山南はそこまで言うと、ふうと息を吐いた。
「まあ、今ここで話すことではないですね。とにかく、変若水にはまだ改良の余地があるということです」
そう言って眼鏡を上げる。
「山南さんは羅刹たちのことを考えてるんですね」
が言う。
「当たり前でしょう、この研究は新選組の進退に関わる――」
「山南さんは、やっぱ優しいんだなー」
「え……?」
山南の動きが止まる。はへらりと笑ってみせる。
助言をくれた。強くなったと言ってくれた。それが、どれだけ嬉しかったか。
「……ねむい」
の体がぐらりと傾き、そのまま意識を手放した。
――夢を見た。自分は千鶴と新選組にいて、なんの事件もなく穏やかな日々だった。皆が元気で、巡察に行って、稽古をして、一緒に食事を取る。楽しい、楽しい毎日だ。
目が覚めるとまだ夜中で、いつの間にか自分の部屋にいた。目の端から涙が零れていて、は暗くてよかったと思いながら目元を拭う。……そんな日々はもう来ないと、知っている。