白い隊服を手に取る。袖を通し、紐を結う。そして、額に鉢金を巻いて、腰にある刀を確かめる。深呼吸をひとつ。大丈夫、落ち着いている。
暗くなった頃、二番組と十番組、そしてが屯所の前に集まった。そして、不動堂村から程近い油小路に身を隠す。
その時間がとても長く感じられたが、実際は一刻程しか経っていなかっただろう。上機嫌で歩いてくる姿があった。伊東だ。が立ちあがり、通りに歩み出た。刀を抜く。
一歩、一歩と間合いを詰める。自分の踏み込むに一番適当な間合いまで、あと一歩。
「あら、あなたは、ええと――」
それが、伊東の最後の言葉だった。力強く踏み込むと同時、既に抜いていた刀が月光に煌いたが、伊東が構えるには遅すぎた。
「が……!」
吸い込まれるように、の刀が伊東の喉を貫いた。空気が漏れるような声を最後に、伊東は沈黙する。胸を蹴りながら伊東から刀を抜く。血を噴き出しながら、伊東は仰向けに倒れた。じわりじわりと頭部に広がる血だまりを、は黙って見ていた。――こうして、自分はまた一人、人を殺した。
「……はは」
千鶴を守るためでも、自分を守るためでもなんでもない。ただ、新選組のために人を殺した。それを体験してみたくて、殺しを申し出た。「おれにやらせてほしい」と。御陵衛士はこれで終わる。そのきっかけが、新選組の正式な隊士でもない自分だったことが、少しだけおかしかった。
「おい、、大丈夫か?」
立ったまま動かないを心配して、永倉と原田が陰から出て来る。が振り返った。
「大丈夫だよ。伊東さんこのままでいいのか? 移動させた方がいい?」
そう問うと、永倉が首を振った。
「いや、ちょうど月明かりの下だ。見つけやすくていいだろ」
「御陵衛士の連中が来ちまう。隠れるぞ」
促されて歩き去る。最後にもう一度だけ自分の殺した人間を見て、は二人の後を追った。
そうして陰に身を隠して四半刻。
「そろそろ来る頃だな……」
永倉が呟くと同時、複数の足音が聞こえた。六、七人の御陵衛士がやってきたが、ほとんどが見知った顔だった。その中に藤堂を見つけて、は目を瞑る。説得をしに来た。それでも、藤堂が御陵衛士であることを望むなら――斬る。
「ん、あそこに倒れてるのは誰だ? まさか――」
先頭の三木が駆け寄る。伊東の死体に縋りつくようにして絶叫した。
「伊東さん! おのれ、いったい誰がこのような真似を……!」
御陵衛士が叫ぶ。
「……行くぞ」
永倉が呟き、原田とが頷いた。組長二人とを中心に二つの組が姿を現すと、藤堂が驚きで目を丸くした。
「新八っつぁん、左之さん。それにまで……」
それでも、その声はどこか納得したような声音だった。伊東に縋っていた三木が立ち上がる。
「なるほど。兄貴の死体を餌に待ち伏せか。下衆の集まりにふさわしい、卑怯な真似をしてくれやがるぜ。永倉! 原田! 兄貴を殺したのはおまえらなんだろ!」
「おれだよ」
が声を出す。一歩前に出て、月明かりに返り血がよく見えた。
「おれが殺した」
三木が驚愕の表情の後、怒りを露わにして刀を抜いた。
「、てめえ――!」
三木が踏み込もうとした瞬間、銃声が響いた。全員の動きが止まる。
「おいおい、一体どこの馬鹿が撃ちやがった!?」
原田が叫ぶ。
「どこの馬鹿とはつれねェなァ。せっかくこのオレ様が相手をしにきてやろうと思ったのによ」
闇から二人の人影が現れる。不知火と天霧の二人だった。鬼を名乗った二人だ。
「おい、どうしておまえらがここにいるんだよ!」
「何でってなァ……仕事だよ仕事。頭の悪いおまえらと、もっと頭の悪い御陵衛士の連中が罠にはまるのを見物しに来たってことさ」
不知火のその声を合図に、複数の浪士が路地に押し寄せて来た。そうして新選組と御陵衛士は囲まれる。
「よくもまあ、これだけの人数を集めたもんだ。風体からすると、薩摩の連中だな?」
永倉が言うと、三木が眉を寄せた。
「薩摩だと?」
「不意打ちのような真似をしたことは詫びましょう。だが、我々も一応は藩命に従う責務がありましてね」
天霧の言葉に原田が舌打ちする。
「薩摩の藩命かよ。……おまえはともかく、不知火は長州に関係してるんじゃなかったか? ご主人様を見限って薩摩についたってんなら、笑うとこだけどな」
「それがなァ、今や薩摩と長州は仲良しこよしらしくてな」
不知火が肩を竦める。
「んな事より、てめェらの心配をしたらどうだ?」
薩摩藩士の包囲が狭まる。原田がを背後に隠した。
「どういうことか説明しろ。おまえらが薩摩藩の手の者だっていうんなら、どうしてオレたちまで取り囲んでやがるんだ?」
三木が不知火と天霧を睨みつけた。御陵衛士は薩摩と手を組んでいたはずだ。
「あァ? あー、おまえらが伊東派とかいう連中か。坂本の件じゃ世話になったらしいな。んじゃま、ご苦労さん。礼は言ったから、とっとと死んでくれや」
そう言って不知火が拳銃を構える。
「三木君、危ない!」
パン、と銃声が響くと同時に三木の前に飛び出した御陵衛士の男が倒れた。三木が慌てて抱き起した時に顔が見えた。見覚えのある顔だった。
「……ずいぶんな真似をしてくれるじゃないか。裏切るつもりか、薩摩藩!」
「あァ? そういうおまえらは、昔の仲間を裏切ったんだろうが。『坂本暗殺は新選組の原田の仕業です』って噂を広めてな」
「やっぱりそうか。つまらねえ噂を流してくれやがったのは、てめえらだったんだな」
原田が予想していたとばかりに言う。
「ま、おまえらはもう用済みってこった。口封じのためにゃ、おまえら全員殺しちまうのが一番簡単だろ?」
「何だと……!?」
新選組と御陵衛士が刀を構える。
「この戦力差で戦うのは、お勧めしませんね」
天霧が言う。
「じゃあ、黙って殺されろってのか?」
声をあげたのはだった。二人の視線が、原田の陰にいるに向いた。
「じゃあ、この数を突破できるのかよおまえら!」
原田の陰から一歩出ると、は刀を二人に向けた。
「おれたちは頭が悪ぃからな、全力で抵抗させてもらうぜ!」
「よく言った!」
「よし、てめえら気合入れろ!」
おお、と二番組と十番組、そしてが声を揃えた。その声を合図に、三勢力が入り乱れた戦いが始まった。
が押し寄せて来る薩摩藩士の攻撃を避けながら、藤堂を探した。藤堂は刀を抜くか迷っている様子だった。
「藤堂、加勢しろ! おまえ、ここへ何しに来たんだ!」
「っ……!」
三木に叫ばれ、それでも藤堂は刀を抜かない。
「平助! おい、平助!」
が右手に刀を持ったまま、左手で藤堂の肩を掴んだ。藤堂の瞳は揺れていた。
「……」
「新選組に戻って来いよ! みんなおまえのこと待ってるから!」
その言葉は予想できていたのだろう。藤堂が俯く。
「今更戻れるわけねえだろ!」
藤堂が叫ぶ。
「伊東さんについていくのが国の為になるって……これであんな薬に関わらずに済む、仲間を犠牲にしなくてもよくなるって……そう思ってたのに。なのに、今更どうすりゃいいんだよ!」
藤堂が頭を振りながら叫ぶ。それは、まるで悲鳴のようだった。
「左之さんを坂本殺しの犯人に仕立てるって、いきなり言われて……そんなのどう考えてもおかしいんじゃねえかって思ったけど、でも……!」
拳を握る。
「でやああ!」
薩摩藩士が藤堂の背後で叫ぶ。藤堂が振り向くより先に、が踏み込んだ。
「うるせえ! 今取り込み中だ!」
刀を一閃させる。薩摩藩士が倒れるのに目もくれず、再び藤堂を見る。
「平助! おまえが言ってた『自分の信じる道』って何だったんだよ!」
藤堂が目を見開く。
「オレの、信じる道……?」
「おまえ言ってただろ! 一人の侍として道を貫くんだ、って! おまえの言う侍って何だよ! 誰かにくっついて! そいつの言うことを聞くのがおまえの言う信じる道か!?」
が藤堂の胸倉を掴む。それはの思う侍ではない。新選組は、そんな人間を武士とは呼ばなかった。
「おまえは何に命懸けるんだ!? 藤堂平助!」
藤堂が唇を噛む。そしてまた俯いた。
「……この頃はさ、いつも新選組にいた時のことばっか考えてたよ。あの薬のこととか、羅刹のこととか……そういうのは全部、思い出の中から消えちまってさ。不思議と、良かったことばっかり思い出しちまうんだよな」
藤堂は自嘲の笑みを浮かべる。
「戻りてえな……!」
それはきっと、彼がずっと思っていた言葉だった。
「もし新選組に戻ったって、今のオレは、何のために戦えばいいのかすらわからねえけどさ……」
「何をしている藤堂! そいつは新選組だろうが! 斬れ!」
の背後に迫った御陵衛士が刀を振り上げる。が振り返るより先に、藤堂が刀を抜いた。そして、柄を男の鳩尾に叩き込んだ。呻き声を上げて男が倒れる。その陰に、衝撃を受けたような顔の三木がいた。
「藤堂、おまえ――この土壇場で、オレたちを裏切るつもりか? 兄貴をあんな汚いやり方でなぶり殺しにした新選組の奴らにつくっていうのかよ! ああ!?」
三木が怒りで叫ぶ。
「ごめんな、三木。オレ、御陵衛士失格だ。伊東さんはすっげえ頭がいいし、時流を見る目も、人脈もあるし、あの人が言うことならきっと正しいんだろうと思って、今までついてきたけど――」
そこまで言うと、藤堂は背後に迫って来た薩摩藩士を斬り捨てる。
「だけど、オレは……っ!」
ぐっと歯を噛んで、藤堂は周囲に宣言する。
「オレは! オレが信じる道を貫く! オレが命を懸けるのは、仲間のため――新選組のためだ!」
隣でがふっと笑う。そうして藤堂の背後の薩摩藩士を斬り捨て、背を預ける。
「早く片付けて帰るぞ! 千鶴が待ってる!」
「ああ!」
藤堂は懐かしそうに返事をした。
白の隊服以外の男たちを斬り捨てる。薩摩藩士たちは新選組の強さに腰が引けてきているようだった。
何人目かの薩摩藩士を斬り捨てた時、の刀は急に横から出て来た黒い手に掴まれた。
「っ!?」
「君は雪村千鶴の友人でしたね」
天霧だった。
「ここで君を殺せば、彼女も新選組から離れやすくなりますか」
「知るかよ、千鶴に聞け……!」
刀を引き抜こうともびくともしない。天霧と対峙するのは初めてだった。なぜ無手なのかとずっと思っていたが、理解する。――この男は、無手で人が殺せるのだろう。
刀を掴んだまま、天霧はもう片手での胸倉を掴むと、そのまま壁に向かってぶん投げた。
「ぐっ……!」
背中を壁に叩きつけて、地面に落ちる。息ができなかった。肺が空気を欲しがって、げほげほと咽るだけだ。
「試してみる価値は、ある」
立ち上がって逃げようとした。だが、体が動かない。刀は手を離れている。刀に手が届いても、きっとこの男に刀は効かない。――死を、覚悟した。
「!」
誰かが名を呼んだ。視界が暗くなり、ボキ、と嫌な音が近くでした。
「……が……はっ……」
ぼたぼた、と血がの顔に降ってきた。
「え……?」
顔を上げる。自分と天霧の間に、誰かがいる。――誰だ?
「……平助?」
ゆっくりと崩れ落ちてきた体が、の上に重なる。
「平助ッ!」
壁に打ち付けた体の痛みなんかまったく気にならなかった。勢いで起き上がると、自分に折り重なるように動かない藤堂がいた。
「……ぶじ、か……?」
「馬鹿、喋んな!」
口からごほと血を吐きながら、藤堂は笑う。
「刀が効かぬからと壁になりましたか……その心意気には敬意を表します」
天霧の声が降ってくる。
「……だが、愚かだ」
の耳には、もう何も聞こえなかった。
「くそ、なんだこいつらの強さは……!? た、退却だ! 退け! 退け!」
薩摩藩士たちが撤退を始める。それを見て、天霧も二人の傍から離れだした。天霧と不知火も、薩摩藩士たちと共に姿を消した。
「くそっ、この場は退くぞ……! 今夜のことは、決して忘れん。おまえたち新選組の奴らは全員、地獄に叩き落してやるからな!」
三木も生き残った御陵衛士を連れて立ち去った。
「平助!」
永倉と原田が駆け寄って来る。の上に重なる藤堂を抱き起こす。
「……はは、ドジっちまった……」
「やべえぞ、この傷は……もしかしたら内臓が……」
「うっ……げほっ!」
藤堂が血を吐く。
「くそっ! おい、平助! こんなとこで死ぬんじゃねえよ!」
「とりあえず屯所に運ぶぞ! ここじゃどうしようもねえ!」
永倉が藤堂を背負い、走り出す。
「!」
「あ……うん……」
走り出す原田の後を、も追いかける。
ほんの少しの距離が、あまりにも長く感じられた。屯所は戦いの後があったが、何があったのかを誰かに聞く余裕はなかった。屯所の入り口に山南と山崎がいて、永倉が運んできた藤堂を見て目を見開いた。
「藤堂さん! どうしたんですか!?」
「どうもこうもねえよ! 敵にやられて……早く平助を診てやってくれ!」
「ですが、この傷は……」
山崎が眉を寄せる。――ああ、無理なんだ。は察する。自分のせいで、藤堂は死ぬのだ。
「一刻の猶予もありません。藤堂君を奥に運んでください」
時が止まる。
「……山南さん、あんた何を考えてる?」
永倉が声を震わせた。そして、山南の胸倉を掴む。
「あんた、平助を薬の実験台にしようってんじゃねえだろうな!? ああ!?」
「最後の判断は藤堂君に委ねます。誓って、私の一存だけで変若水を飲ませることはありません」
「ふざけんな!」
「藤堂君がここで死んでもいいんですか!?」
永倉と山南が睨み合う。
「私に、任せてください」
山南が言う。永倉が胸倉から手を離した。
山崎が藤堂を背負い、山南と共に屯所内に入っていく。悪態をつきながら、永倉と原田も屯所に戻る。
「ちゃん!」
呆然と立っていたの元に、室内から千鶴が駆け寄って来た。近藤たちと屯所に帰って来たようだ。
「千鶴……」
「今、平助君が運ばれて行くのが見えたんだけど……平助君、まさか……」
がくしゃりと顔を歪めた。
「……おれのせいだ」
声が震える。両手で顔を覆った。藤堂の血がついていた。
「おれのせいで……平助が……!」
死ぬ覚悟もあった。殺す覚悟もあった。それでも――自分のせいで仲間が死ぬ覚悟は、無かったのかもしれない。
千鶴が無言でを抱きしめた。は千鶴の顔を見られなかった。説得するのだと、連れて帰って来るのだと、そう意気込んだ結果がこれだ。肩を震わせるを、千鶴はただ抱きしめ続けた。
後から聞いた話だと、屯所が同時刻に風間に襲撃された。羅刹隊や斎藤のおかげで難を逃れたが、怪我人は多く、死者が出なかったのが幸いと言えた。油小路の方は、御陵衛士側に伊東含め四人の死者が出た。この暗殺と御陵衛士への襲撃は、油小路の変と呼ばれるようになった。