慶応三年十一月。冬を目前にして、冷え込みが日々増していく。そんな折に、伊庭と本山が屯所を訪れた。近藤や土方に用があるとのことで、は関係ないからと屯所の周りを走ることにした。そして夕暮れ時に、土方が二人を連れて外に出て来た。
「どこか行くんですか?」
が土方に声をかけると、伊庭が頷いた。
「ええ。坂本龍馬に少し小言を言いに行ってきます」
「坂本? 土佐の?」
たまに話題に上がるので、名前だけは知っていた。ちょうど近藤が長州出張に行っていた頃に起こった寺田屋の事件もそうだが、それまで反目していた薩摩と長州の間を取り持ったり、先日の大政奉還に関しても一役買っていたらしく、話題に事欠かない人物だ。土佐勤王党の残党だとかで新選組としても捕まえて取り調べたいのは山々なのだが、なぜか幕臣の勝海舟や各藩の藩主から「坂本には手を出すな」と言われている状態で、新選組としては手は出せないという状況にあった。
「おまえも来るか?」
土方が意外なことを言いだした。
「えっ、いいんですか?」
「トシさん!」
「邪魔をしなきゃ構わねえ」
どうする、と視線で問われる。行きます、と言おうとした矢先、山崎と千鶴が左右から走って来た。
「副長、見廻組の件でお知らせしたいことが」
千鶴は話が終わるまで待つようで、先に山崎が土方に声をかけた。
「ちょうどその話をしていたとこだ。話してくれ」
山崎はや千鶴、伊庭たちの耳にこの話を入れていいのか迷ってから、決意した様子で言った。
「実はここ数日、見廻組が怪しげな動きを見せています。腕の立つ手勢を選りすぐっており、まるで、大きな動きを起こそうとしているかのような……」
「大きな動きか。山崎、おまえはどう見る?」
山崎は少し悩んでから、答える。
「……恐らくは、暗殺かと。それも、かなりの大物を狙っているとしか思えません」
それを聞いて、土方はを見た。
「、来い!」
「えっ、はい!」
走り出す土方に、が慌ててついていく。
「どこ行くんですか?」
並走しながらが問う。
「伏見の近江屋だ。坂本が潜伏している場所として当たりをつけてたんだが」
「そもそも、どうして坂本が暗殺されるとまずいんですか?」
「あいつが今暗殺されれば大騒動だ。それだけの重要人物ではあるんだよ、あの野郎は」
なるほどと言いながら、は土方に遅れないようにしながら伏見までをひた走った。
日が暮れた頃、何とか近江屋に辿り着く。
「チッ、遅かったみてえだな」
息を整えながら土方が悔しそうに言う。近江屋は物々しい雰囲気だった。
「中で斬り合いがあったんだってさ」
「人が大怪我したとか――」
そんな声が人だかりから聞こえる。
「どうするんですか?」
「頃合いを見て、中の様子を確認しに行く」
土方と共に人混みに紛れていると、聞き覚えのある声がした。
「トシさん! ちゃん!」
声の方に目を向けると、伊庭と千鶴が駆けて来る。
「何だ? 八郎はともかく、雪村まで……」
「怪我の手当できる人がいた方がいいんじゃないですか?」
「……それもそうだな」
が言うと、土方も頷く。
「トシさん、見てください。あの人、確か土佐藩の――」
伊庭の視線の先を見ると、武家風の男たちが町人たちに道を開けるように命じて、店の中へと入って行った。
「俺は中の様子を確かめて来る。おまえたちは――」
「おれは行きます」
「ちゃん!」
伊庭が声をあげた。は土方と視線を交差させる。
「行くぞ、」
「はい」
伊庭と千鶴を置いて、は土方と共に人でごった返す近江屋の中に入った。
血の臭いだ、と思った。が眉を寄せて、土方の傍に寄る。ここで何かあったら、自分が土方を守らなければならない。
「ここでこれ以上何か起こることはねえよ」
の心を読んだように、土方が言った。は驚いて目を向ける。
人斬りは二階で起こったようだった。土方が階段を上り始め、も後を追った。廊下にも一人の死体があった。だが、土佐藩士は室内の方を改めているようだった。背の高い男ばかりで、の背丈では室内はよく見えない。
「誰が死んだんだ?」
土方が関係者を装って近くの人間に声をかける。
「坂本さんと中岡さんだ……中岡さんはまだ辛うじて息はあるが、あの様子じゃ……」
悔しそうに声をあげる。そうか、と土方は再び室内に目を向け、そのまま前へと歩み出た。
「ちょ、土――」
土方が、人差し指を立てた。静かにしろということらしい。は慌てて口を閉じる。土方は室内に入っていくと、しゃがみこんで二人の容態を確かめていた。少しして土方が戻って来る。
「坂本は即死だな、頭をやられてる。中岡はまだ辛うじて息はある、ってとこか……」
二人が運び出されるようで、と土方も外に出ることにした。伊庭と千鶴と合流し、土方が見たことを伝えた。
「俺は、ここに残って辺りの様子を確かめておく。長居して余計な疑いを招く気はねえが、気になることもあるからな。八郎、悪いが雪村を屯所まで連れて帰ってやってくれ」
伊庭が目を見開く。
「あの、ちゃんは――」
「こいつにはもう少し付き合ってもらう。近藤さんたちへの伝令は頼んだぜ」
そう言って、土方はを連れて歩き出す。
「。今回の件、どう思う」
人混みから離れながら、土方がに問いかけた。
「どう、って……状況とさっきの山崎さんの言葉から考えたら、見廻組の人たちが坂本を暗殺したってことでしょ?」
「それはわかってる。なんで、騒ぎが起きるとわかっていながら、見廻組の連中は坂本暗殺に踏み切ったんだ? 以前面目を潰されてるからって意趣返しをするには、ちと軽率すぎると思わねえか」
は答えられない。自分にはそういったことを考える頭はないし、今の情勢だって詳しく知っているわけではない。
「どうして、おれを連れて来たんですか?」
が違うことを問いかける。土方はしばし無言だった。
「なんでだろうな……おまえにも、こういうことを経験させたかったってところか……」
「こういうこと?」
が更に問うと、土方は目を向けずに答える。
「時代が動く瞬間、ってやつだよ」
は首を傾げる。土方が続けた。
「坂本龍馬が死んだことで、この京の町は大きく揺れ動くことになる」
「……戦になるってことですか? 禁門の変みたいな?」
「あの程度で終われば苦労はしねえがな」
状況が違うのだと土方は言う。あの時は長州勢が御所に攻め込んできても、会津と薩摩が手を組んで追い返した。だが、先日の長州征伐、特に二度目の方で幕府の権威の失墜は目に見えていた。以前は幕府側についていた薩摩藩は、今は長州と手を組んでいる。状況は禁門の変の頃より格段に悪い。
「でも、戦うんでしょ?」
が問うと、土方は足を止めた。も足を止め、土方を見上げる。
「新選組は、それでも戦うんじゃないんですか?」
たとえ幕府の権威が落ちていても、以前は味方だった藩がいなくなっても。新選組だけは、間違いなく戦うのだという確信がにはあった。
「どうしてそう思う」
土方が逆に問いかけた。だって、とは言う。
「新選組は、本当の武士だから」
土方が目を瞠った。
何年も新選組を傍で見て来た。武士とは何かもよくわからなかった自分が、彼らの生き様は、なんだか清々しいな、と思っている。そんな生き方をしたいな、と少し思い始めている。そんな覚悟を持っている彼らと共にいて、剣を合わせていて、感化されないはずもない。
「……言うじゃねえか」
土方は愉快そうに口元を上げた。そして真剣な表情に戻す。
「戦になれば、おまえも出てもらうことになる。それでもいいんだな」
は頷いた。
「もちろんです」
「人を殺す覚悟は」
「できてます」
「自分が死ぬ覚悟は」
「できてます」
でも、とは言う。
「おれは千鶴を守るために、生き残ります」
雲が晴れ、月明かりが二人を照らす。しばし見つめ合い、そして土方がふっと笑った。
「そうだな。おまえにはまだまだ働いてもらわなきゃならねえからな」
そう言って、土方は再び歩き出す。も後を追った。
「これから忙しくなるぞ」
「はい」