つい先日、『大政奉還』が行われた。徳川幕府が、天下を治める大権を天皇に返したのだ。お陰で、戦で天下を取りたかった薩摩も長州も、戦をする大義名分がなくなってしまった。それでも、慶喜公が将軍であることは変わらないし、徳川家が日本で一番大きな大名家であることも変わりない。このまま今まで通り続いて行くのだろうと思われた、慶応三年十月のこと。
 ガキン、と金属がぶつかる音がする。

「刃筋を意識しろ! 木刀なら打ち込んでりゃよかったが、刀じゃそうはいかねえぞ!」
「はい!」

 刃引きした真剣で、と永倉が打ち合っていた。永倉が、木刀ばかりじゃなくてそろそろ真剣でも稽古した方がいいんじゃないか、と言い出したのだ。今まで稽古をつけてくれなかったくせにと思ったが、以前深夜に打ち合ったのが永倉にとって面白かったらしく、以降少しずつ暇を見つけて稽古をつけてくれるようになった。

「もっとうまく捌け! 棟や鎬で受けると折れ曲がっちまうだろうが! 受ける時は刃! 受け流しは鎬! 体に覚え込ませろ!」
「はい!」

 永倉の稽古は面白い。相手を殺すという感覚を鍛えた沖田の稽古と違い、刀を扱うに当たって何が悪いのかどうすればいいのかが的確に言葉で返って来る。しばらく木刀しか振ってこなかったので、忘れていた真剣の感覚が蘇って来る。

「よし、じゃあ今日はここまでだな」

 二人とも汗だくになって、今日の稽古は終わった。

「ありがとうございました!」

 が頭を下げる。

「つーか、おれの相手してて大丈夫なのか? 隊務の方、相当厳しいだろ」

 顔を上げながら、が問う。幹部の数が減り、永倉や原田の負担は増している。特に、刀を使う永倉は原田よりも面倒を見る隊士の数が多い。

「何言ってんだ。おまえが更に強くなれば、その分俺は楽ができるようになるからな!」

 永倉は笑いながら言う。先日土方にも似たようなことを言われたばかりだ。はようやく新選組に本当の意味で馴染んで来た気がして嬉しかった。

「ところで、最近の総司の様子はどうなんだ?」

 歩きながら永倉が問いかけた。

「体調良さそうな日もたまにあるけど、大体寝込んでて具合悪そうにしてるよ」
「そうか……」

 体調のこと自体は隠す必要がないため、が素直に答えると、永倉は表情を暗くした。
 沖田は布団からほとんど起きられなくなった。隊務に関わることも許されなくなり、隊士たちは沖田はもうこのまま死ぬのではないかと噂している。ただの長引く風邪ではないと皆気が付いている。「労咳なのでは」と言っている隊士もいる。

「総司、どうなっちまうんだろうな……」
「……」

 死ぬのだろう。そんなこと、言えなかったし、言いたくもなかった。
 そして翌日のことだった。沖田の様子を見に部屋に行くと、姿がなかった。慌てて屯所中を駆け回ると、中庭にその姿を見つけた。周囲に人はいない。

「おい、総司さん!」

 沖田が振り返る。

「何してんだよ、寝てろよ」
「今日は気分がいいから」

 そう言ってにこりと笑う沖田の腕を引いて、が首を振る。

「駄目駄目、起きててもいいから部屋にいてくれ」
「君に僕の行動を制限されるいわれはないと思うんだけど」
「心配してんの。わかってるだろ」
「そんなに心配しなくてもいいって言ってるんだけどな」

 腕を引く手を払われる。

「そんなことより、稽古しよっか。たまには体動かさないと」

 その言葉に、は眉を寄せた。

「はあ? 何言ってんだよ、そんな体で。無理だって」

 沖田の表情から笑みが消える。

「無理? そっちこそ何言ってるの? 僕より弱い君が」
「……」
「試してみてもいいんだよ? 僕まだ君に負けるつもりはないんだけど」

 こうなった沖田は梃子でも動かない。はあ、とは息を吐いた。少し付き合えば満足するだろう。

「いいよ。木刀持ってくるからちょっと待ってて」
「そこにあるでしょ」
「え?」

 歩き出そうとしたが足を止めて振り返る。沖田はの腰を指さしていた。

「腰に。差してるじゃない」
「……真剣でやるつもりか?」

 沖田が自身の刀を抜く。はしばし渋った。沖田と真剣で稽古をしたことはないのに。

「新八さんと真剣で稽古してるんでしょ? 僕とできない理由はないよね」

 そういうことか、と納得をする。息を吐いて、は仕方なく刀を抜いた。やるからには、いつものように集中する。目の前の敵を、殺すのだと。
 沖田が先に踏み込んだ。これは、得意の刺突。一撃目を見切って避ける。そして、二撃目を鎬で受け流した。三撃目は――なかった。が、沖田の眼前に刀を突き付けているからだ。沖田が目を瞠ってを見る。

「わかったか、総司さん。あんたは病人で、おれなんかにも負けるほど弱ってるってこと」

 睨みつけながら言葉にする。

「手を抜いてたわけじゃないだろ。あんたが稽古で手を抜くほど甘くないってことは、よく知ってる」

 沖田の突きにしては、それはあまりにも遅すぎた。力がなかった。が余裕でかわし、受け流せる程度には。沖田が刀を下ろすのに合わせて、も刀を下ろす。沖田が刀を納めた。

「部屋に戻るよ」
「ああ、そうしてくれ」

 の横を通って、沖田はふらりと立ち去る。

ちゃん」
「なに」
「どうして泣くの」
「……」

 答えられなかった。口を開いたら、本当に涙が出て来そうで。

「ごめんね」

 奥歯を噛み締める。

「謝るなよ」

 絞り出すように声を出す。

「ううん」

 沖田は否定し、言葉を続ける。

「君の師匠でいられなくてごめんね」
「……っ」

 足音が後ろに聞こえる。

「総司さんは!」

 沖田が立ち止まる。は振り返らない。

「……沖田総司は、一番組組長で、天才で、新選組の剣で……病気しようが何しようが、ずっと、おれの師匠だからな」

 声が震えないようにするのが精いっぱいだった。

「……ありがとう」

 寂しそうな声を最後に、沖田は歩き出す。足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなって、はその場にしゃがみこんだ。刀を落とす。

「……くそっ」

 こんな形で勝ちたくなんてなかった。
 こんな形で病の進行を知りたくなんてなかった。
 こんな形で――『死』を感じたくなんてなかった。
 誰も来ませんようにと願いながら、は少しだけ泣いた。