慶応三年四月。伊東派が離隊して一か月が経った。沖田が布団から起き上がれる日が日に日に少なくなっていく。一番組は沖田の代わりに永倉が面倒を見ており、は変わらず一番組の見習い隊士として巡察や稽古に参加をしていた。

「総司のやつは大丈夫なのかな」

 巡察で歩きながら、永倉が言う。

「あいつ、食も細いし好き嫌いも多いし、根性ねえし、飽きっぽいし……そんなんだから、いつまでも風邪が治らねえんだよ」
「はは……」

 合っているような、全部間違っているような。そんな永倉の言い分には隣で苦笑を浮かべることしかできない。

「斎藤と平助は、うまくやってんのかな……他の隊士ってみんな、伊東さんの腰巾着みてえな連中ばっかだろ? どう考えても、話が合うとは思えねえんだけどな……」
「……そうだな」

 永倉との巡察はいつもこんな感じだ。沖田のこと、斎藤と藤堂のこと。答えはここにいる誰も持っていないのはわかっているから、ただ吐き出すだけの時間。はただ相槌を打っている。

「よし! じゃあ、稽古すっか稽古!」

 屯所に帰って来るなり、永倉が言った。

「あのさ、永倉さん」

 が声をかける。

「新米隊士の稽古、おれが見るから……ちょっと休んだら?」

 永倉が意外そうな顔をした。そして、にかっと笑みを浮かべ、の頭に手をのせた。

「なんだなんだ、俺のこと心配してんのかー? おまえに心配されるほど柔じゃねえよ!」

 わしゃわしゃとの頭を撫でる。

「総司が元気になって、斎藤や平助が戻って来た時、隊の中がぐちゃぐちゃだったら困るだろ」
「……」
「よーし、稽古だ! 付き合え!」

 一番組と二番組の面倒を見て、新米隊士の稽古をつける。近藤や土方から無茶なことを言われていると思いながら、いつか来る元通りの新選組を夢見て永倉は無理をして頑張っている。は少しでもできることがあればと、最近は一番組だけでも面倒を見るようになった。元々一番組は沖田の部下だっただけあって、には友好的だ。がずっと沖田の稽古をつけてもらっていることも知っているし、それでが昔と比べて格段に強くなったことも知っている。だから、巡察は一人では無理でも、皆の稽古を見るくらいなら自分でもできると思っている。なのに、永倉がそれを許さない。任されたことはすべてやるのだと、そう言って無理をしている。永倉に限って倒れることはないだろうとは思っているが、心配なのは確かだった。

「ふぁ……千鶴まだ戻ってこないのか?」

 ある夜。は千鶴を捜して屯所内を歩き回っていた。明日は朝食当番のはずだから勝手場にいるかと思えば、既に朝食の準備は終わっていて、千鶴の姿はなかった。
 すると、境内の方から刀を振る音が聞こえた。千鶴の小太刀ではない、彼女の腕ではこんな音は出ない。足音を立てないように近づくと、千鶴の姿を見つけた。その視線の先には、刀を一心不乱に振っている永倉がいる。

「千鶴?」
ちゃん……」

 振り返って、千鶴はまた永倉に視線を戻した。隣に立つ。

「永倉さん、いろいろ悩んでいるみたいなの」

 千鶴が小さな声で言った。

「沖田さんは病状がどんどん悪化しているし、斎藤さんと平助君はいなくなってしまったし……今後新選組がどうなっていくのか、不安なのかもしれない……」

 は千鶴に目を向け、そして永倉に目を向けた。
 なんでもない、大丈夫。そう言って無理をして、自分たちの前では笑顔を見せる。永倉が器用ではないことは知っている。仕方がないことだと、割り切って考えることはできないのだろう。その不安をかき消すために、深夜に一人剣を振っているのかもしれない。

「……」

 無言で静かに刀を抜く。そして、力強く地面を蹴った。

ちゃん……!?」

 千鶴の叫びとの足音に、永倉が振り返った。振り下ろした刃が刃に噛み合う。受け止めるのはさすがだなとは思った。

おまえっ、なにしやがる!?」
「つれねえなあ! 誘う相手がいないならおれを呼べよ!」

 一度間合いを取る。刀を下ろしてしまった永倉に対し、は正眼で構えた。ふう、と息を吐く。

「いくぜ」
「いや、ちょっと待っ――」
「待たねえ!」

 が地面を蹴った。振り下ろした刀は永倉に受け止められる。一度ではない。二度、三度と振り下ろすが、それは永倉に止められる。

「どうしたどうした! 剣術師範はこんなもんか!? そんなんじゃおれの師匠には勝てねえな!」

 永倉はの挑発に乗ったようだった。目つきを変え、構えも変える。そして、に向かって刀を振り下ろした。一合、二合。二人は無言で刀を打ち合う。金属のぶつかり合う音が境内に響いた。

「加減されてんなあ。そんなにおれに怪我させるの怖い?」

 が一旦後ろに下がって言う。永倉が眉を寄せた。

「当たり前だろ、何だってんだ急に」
「加減して刀振って消える程度の悩みなら、大したことねえよ」

 永倉が目を見開くのとが再び地面を蹴るのは同時だった。ガチンと鋼がぶつかる。鍔迫り合いしながらは顔を近づけた。

「なあ、剣術好き?」
「はあ!?」
「剣を振ってる間は余計なこと考えなくていいからおれは好き」

 弾いて、後ろに下がる。そして、はブンと刀を振った。

「だから一人で刀振ってたんだろ。おれたちが見てるのにも気が付かないほど集中して」
「……」

 永倉は刀を下ろした。も構えるのはやめた。

ちゃん、永倉さん……!」

 千鶴が駆けてきて、の隣に並んだ。

「もう、ちゃん! 突然斬りかかるなんて……」
「手っ取り早いだろ」

 そう言っては刀を納めた。

「いつもなんでもないようなふりしてるけどさ。剣を合わせりゃ何考えてるかくらいわかるよ」

 が言うと、永倉は長い息を吐きながら刀を納めた。

「だから、おまえにも声かけてねえんだろうが……全部見透かされちまうからな」

 永倉が視線を逸らす。

「気付いちまったんだよな、色々と」
「気付いた?」

 千鶴が問い返す。

「俺も剣術が好きだ。自分より強い相手と戦ってる最中って、余計なこと考える暇がねえだろ? とにかく相手を出し抜いて――勝つことだけを考えてるうちに、雑念が消えちまうっていうか。わかるだろ、

 がうんうんと腕を組んで頷いた。それに笑みを浮かべて、永倉は続けた。

「竹刀と防具をかついで、あちこちの道場回って武者修行してた時、近藤さんたちと知り合ったんだ。最初はすげえびっくりしたぜ。こんだけ強いのに、何で全然名前が売れてねえんだって。理不尽だって思ったもんな」

 それから試衛館の食客として滞在したのだとわかった。
 その実力に見合うくらい近藤を有名にしたいというのが土方の口癖だった。その願いはある程度叶えられたと言っていい。新選組は大きくなって、幕府からも重用されるようになった。近藤が幕府の偉い人と会うほどの身分になったのは、土方からすればきっと喜ばしいことだ。
 でもよ、と永倉はそれを否定する。

「……俺が好きだったのは、貧乏暮らしで損ばっかりしてて、嫁さんにあれこれ言われても――絶対に俺たちを追い出したり見捨てたりなんてしねえで、笑顔で付き合ってくれてた近藤さんなんだ。勝つために、羅刹だとか変若水なんかに頼って、隊士の命を弄んで平気でいられるあの人じゃねえんだよ」

 永倉が最近近藤たちの行動に疑問を持っていることは気が付いていた。は何か変わったようには思わなかったけれど、きっと、長い付き合いの永倉には思うところがあるのだろう。自分が信じていたものが変わってしまった。追い続けるべきか悩んで、でも踏ん切りがつかなくて、そんな迷いを打ち消したくて剣を振るっていたのだということは理解できた。

「……こんなの、らしくねえよな。悩んだってどうしようもねえことぐらい、わかってんのに。何で今更、自分の気持ちなんかに気付いちまうんだよ。どうして、わからねえままでいられなかったんだよ」

 自嘲するように笑い、永倉は月を見上げた。

「永倉さんらしくないなんて、そんなことないと思います」

 千鶴がそう言った。

「誰だって、悩んだり立ち止まったりするときがありますから……ゆっくり時間をかけて答えを出していけばいいんだと思います。そして選び取った答えは、永倉さんにとって……すごく大切なものになるはずですから」
「そうそう。おれだってここに来てからいろいろ難題出されて悩んだりしたけど、無駄だったなんて思ってないし」

 永倉が目を見開いた。

「あっ、す、すみません、私たち偉そうなことを……!」
「え? いやいや、そうじゃねえよ。別に怒ったわけじゃねえんだ。どっちかっつーと、逆だな」
「逆?」

 が問う。

「ああ。最初の頃は、俺らの中に入ってビクビクオドオドしてた小せえ女の子と、やんちゃ盛りって感じの無鉄砲な女の子がさ、しっかりしたもんだなって」

 永倉が懐かしそうに目を細めた。千鶴が首を振る。

「私が、私たちが成長できたのは、永倉さんたちが守ってくれたおかげです。私は中途半端な立場だし、お役に立てないことがいつも心苦しくて……だから永倉さんの明るさにすごく救われて来たんです。ちゃんもこんな態度でいるのに、怒りもせずに受け入れて下さって……本当にありがとうございます」
「おい千鶴、おまえいつおれの親になったんだ?」

 が隣を小突く。

「よせよ、んな大げさなもんじゃねえ。俺にとっちゃ、おまえら妹分の面倒を見るなんてのは、当然のことだからな」
「……でしたら、頼りになるけどたまに困ったことをする兄のお世話は、私たちの仕事ですよね?」

 千鶴が悪戯っぽく言った。

「ハッハッハ! そうか、お互い様ってことか!」

 大きく口を開けて永倉が笑う。そしてそのまま、はあ、と息を吐いた。

「総司も寝込んでて、斎藤も平助も抜けて、人手が足りてねえ時期だし。しばらくはこのままいくしか……ねえんだろうな」

 そうだろうなとも思った。人を増やしたって、沖田や斎藤、藤堂と同じような強さと信頼感がある人物が現れるわけではない。だから、このままやっていくしかないのだ。
 月を眺めて考え事をしたいという永倉をその場に残し、二人は部屋へと戻る。

「原田さんが言ってたの。永倉さんはしょうがないって自分に言い聞かせて諦められるほど、器用な人じゃないって。きっと、今の状況がすごく辛いんだと思う」
「……うん」

 信頼のおける仲間が減って、信じていたものがわからなくなって。永倉の心情を推し量ることはできないが、少しでも役に立たなければと、は気持ちを新たにした。