屯所が静かになった。人が減ったのだから、仕方がないと思う。そして、また一人減る。武田が離隊するのが今日だった。最後まで何事もなければいいと思っていたが、今のところ問題を起こす様子もなく、取り越し苦労だったかと思っていた夕暮れ時。は慌てた様子の井上を見つけた。
「源さん、どうしたんだ?」
声をかけると、井上は切羽詰まった声で言った。
「ああ、君! 大変だ、雪村君が武田君を追って一人で屯所を出てしまったんだが……」
「武田さんを追って!? なんでそんなことに」
「なんでも、武田君が薬の資料を持ち出したようなんだ」
「なっ……!?」
何事もなく終わるはずがなかった。なぜ武田が薬のことを知っている? 伊東に聞いたのか?
話を聞くと、千鶴は武田が山南の研究室から資料を持ちだすところを見たのだという。そして、そのまま外に持ち出されるわけにはいかないと言って、追いかけてしまった。今すぐ行けば間に合う。だが、は柴田の件で「次はない」と言われている。一人で外に出るわけにはいかない。どうすれば――そう思った時だった。
「こんにちは。お取込み中でしたか?」
伊庭がやってきた。
「八兄! ちょうどいいところに!」
「え?」
が伊庭の手を引く。
「源さん! 他の人たちに、おれは八兄と外に出たって伝えて!」
「あ、ああ、わかった。よろしく頼むよ」
「八兄早く! 千鶴が危ない!」
「なんですって?」
伊庭の顔色が変わる。二人は千鶴がいそうな方向に駆け出した。走りながらが伊庭に事情を話すと、伊庭は納得したように頷いた。そうして走る速度を上げる。
羅刹の資料を持ち出してどうするつもりなのか。幕府の地位を貶めようとしている? もしかすると御陵衛士入隊の土産にするつもりなのかもしれない。
辺りが暗くなってきた頃、いつもは人気のない橋に差し掛かったところに人影を見つけた。
「千鶴!」
が叫ぶと、二人が反応した。間違いない。
「やめろ! そこで何をしている!」
伊庭が叫ぶ。は走りながら刀を抜いた。
「貴様らか。つくづく人の邪魔をするのが好きと見える」
武田は左手で千鶴の腕を掴み、右手に刀を握っていた。
「その手を離しなさい。さもなくば……」
「さもなくば、何だ?」
伊庭が刀に手をかけるが、がその前に立った。
「千鶴に怪我させやがって、殺されても文句言わねえよなあ!」
千鶴は胸元に刀傷を負っていた。着物は切れ、血が滲んでいる。だが、そこに傷跡はすでにない。
「ちゃん、君は下がって――」
「下がってろ八兄!」
は怒り露わに刀を振り上げ踏み込んだ。武田はそれを片手で受け止める。武田が千鶴を掴んでいるせいで、下手な動きをすれば彼女に怪我をさせてしまうかもしれない。本気を出せずにいると、武田が口元に笑みを浮かべた。
「多少は腕を上げたか。だが――」
大きく刀を弾かれ、体勢を崩す。
「くっ!」
一旦距離を取る。
「仮にも元組長に敵うはずもなかろうな」
――怒りに任せた剣ほど、見切るのに容易いものはない。
斎藤の言葉が脳裏をよぎり、は舌打ちする。違う、自分は冷静だ。ただ、武田と一緒に千鶴に怪我をさせてしまったらと思うと、思い切って戦えないだけだ。
「雪村千鶴……わけあって屯所で預かっている者だと聞いていたが、そういう理由だったのか」
「どんな理由です?」
伊庭が問う。
「負わせた傷が一瞬で治る、不可思議な身体の持ち主だ。伊東さんが以前言っていた、新選組には大きな秘密があると。さしずめ、あの部屋で行われていた研究と関わりがあるのだろう? この分だとどうやら、山南さんが生きているというのも本当らしい」
やはり伊東か。どこまでこの男に話をした。
「新選組とはなんだ? 何を隠している」
武田が探るような視線を二人に向ける。
「ずいぶんと妄想がお好きなようですね。剣術よりも戯作本を書く方が向いているのでは?」
伊庭が答える。ふん、と武田は鼻を鳴らした。
「どうあっても、真実を語るつもりはないか。……まあいい」
そして、武田はこちらに刀を向けた。
「、伊庭八郎。おまえたちは何の為にこの女を庇う? 化け物女だぞ」
「黙れ」
は自分が言ったのだと思った。だが、その言葉は隣の人物が発したものだった。
「真実を言っている。この女は、化け物だ。よく見ろ。先程この私が負わせた刀傷が、塞がっているだろう」
「黙れ!」
ようやく出た言葉は伊庭と重なった。武田は愉快そうに顔を歪めた。
「もしや知らぬのか? ならば見せてやろう。その目でしかと確かめるがいい」
「駄目っ――!」
武田が刀を振り上げるのが、ゆっくりと見えた。が踏み込もうとするよりも早く、隣の影が動いた。音はない。遅れて、どさりと、刀を持った右腕が地面に落下する音がした。
「な、んだと……!?」
伊庭は刀を抜いていた。左手で千鶴を抱きかかえ、武田を睨みつける。
「これ以上、彼女を傷つけさせない。まだやるか、武田観柳斎。次は、右腕だけでは済まさない」
「おのれ……!」
武田が血の流れる右腕を庇いながら伊庭を睨む。
「誰かを殺すつもりで刀を振るったことなどないが――おまえだけは、ためらいなく斬れそうだ」
「ぐぅ……っ」
武田が後退する。
「あの薬……あの薬を飲めば、こんな怪我など!」
懐から資料がばさばさと落ちる。そして、からんと音がしてびいどろの小瓶が地面に落ちた。それを拾おうとした左手を、が力強く踏みつけた。
「おまえの罪を教えてやろうか」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。武田と目が合う。
「おれを本気で怒らせたことだ」
「、貴様ッ――!」
憎悪の目。きっと、自分も同じ目をしている。真っ直ぐに睨み返しながら、は武田の首元目掛けて刀を一閃させた。頸動脈から血が噴き出す。ゆらりと傾いた体は、そのまま川へと落下した。暗い川に落下した武田は、上がって来る様子はない。姿も見えない。
刀の血を袖で乱暴に拭って鞘に納めると、は振り返った。
「千鶴!」
数歩の距離を走り、は千鶴を抱きしめた。
「馬鹿千鶴! 心配かけやがって!」
「ごめんなさい……」
千鶴がの背に腕を回す。
「大丈夫でしたか? あんな目に遭わされて、怖かったでしょう。怪我の様子はどうです? 傷を見せてください」
二人は抱きしめあったまま離れない。傷が治ることを知っているのは自分たちだけ。伊庭は知らない。だから、傷口を見せるわけにはいかなかった。
「千鶴ちゃん?」
「……平気です。怪我は、もう治ってますから。心配する必要はどこにもないんです」
千鶴がから離れながら言う。そして、唇を噛んだ。
「私は……私はさっきあの人が言っていたように……」
「千鶴は化け物なんかじゃない!」
がまた千鶴を抱きしめた。逃がさないとばかりに力を込めて。
「おまえは普通の女の子の雪村千鶴だ! あんな馬鹿の言うことなんて真に受けるな!」
「ちゃん……」
「ちゃんに先に言われてしまいましたね」
伊庭が苦笑した。
「知っていましたよ。あなたのその力のことは」
「えっ?」
驚いたのはだった。なぜ、伊庭が知っている? が考えていることがわかったのか、伊庭は微笑んだ。そして千鶴に向き合う。
「もしかしたらあなたたちは、もう忘れてしまっているかもしれませんけど。小さい頃、あなたは何度か見せてくれました。傷が治るところを。その力は僕たちだけの秘密だから、絶対誰にも見せてはいけないと……三人で約束しましたよね」
「あ……」
千鶴が小さく呟いた。も思い出す。小さい頃、雪村診療所に来ていた細い色白のお兄さんは、既に仲の良かった二人に向かってそう言った。千鶴のその力は、誰にも話してはいけないと。てっきり、千鶴の父に言われたのだとばかり思っていた。そう思い違いをしていた。二人にその話をしたのは、幼い頃の伊庭だったのだ。
「あなたは……あなたたちは、化け物なんかじゃない。僕が守りたいと思う女の子たちです。……あの頃も、今も」
と千鶴は顔を見合わせる。千鶴の先天的な治癒能力。羅刹の力を持ったの後天的な治癒能力。そのどちらも、化け物なんかではないと、「八郎お兄さん」は言う。そうか、と思う。――この人は、自分たちが忘れるほどの昔から、自分たちの身を案じていたのだ。手合わせの時、「女だから手を抜いているのだ」と思っていたのが、自分の勘違いだったのだとは知る。伊庭は「」だから本気になれなかったのだ。が、守る相手であったから。
「……僕の剣は軽いって沖田君が言ってましたけど、刀を握っている時、己を制することができなかったのはさっきのが初めてです」
伊庭は既に納めた刀の柄を握った。
「トシさんたちは京に来てからずっと、あんな気持ちを抱き続けてたんですね……何かを守るっていうのは、綺麗事じゃないんですね……」
「……」
そうだ。守るというのは、綺麗事じゃない。守ると決めたならば、殺すことを躊躇うな。沖田と土方に教えられたことを思い出す。口先だけにはなりたくない。だから、自分は刀を取る道を選び続けている。
「おーい、八郎、千鶴ちゃん、、無事か!? この俺が助けに来てやったぜ!」
走って来る足音。永倉のあまりにも呑気な言葉に、は溜め息をついた。
武田が持ち出した資料と薬はすべて現場に残っていた。刀を持った右腕と共に。
「あの、ちゃん……」
千鶴がの傍にやってきて、恐る恐る声をかけた。
「ごめんね……私のために、人を殺すことになって……」
千鶴が何の謝罪をしているのかわからず、は何度か瞬きをしてから、苦笑した。
「別に千鶴のためじゃないよ」
「え?」
俯いていた千鶴が顔を上げる。以前なら、千鶴のためだと胸を張っていただろう。だが、今は違う。
「おれは、おれのために人を殺したんだ。おまえと、明日も一緒に過ごしたかったから」
橋の上の血だまりを見て、はまた人を殺したのだと改めて思う。殺したから、自分たちは生きている。こうして一人、また一人と人を殺して、いつしか数は数えなくなるのだろう。人を殺しても別に自分は何も変わらず、明日も千鶴と過ごし、沖田や相馬、野村と稽古をし、いつものような毎日が過ぎていく。きっと、何も変わらない。人を殺した今日の延長線上に、いつも通りの明日がある。その明日を守るために、自分は刀を持つのだ。
「……変わったね、ちゃん」
千鶴が眉を下げて笑った。
「そうかな」
「うん。かっこよくなった」
千鶴がそう言った意図はわからなかったが、はかっこいいと言われることに悪い気はしなかったので、まあいいかと思った。
「帰ろう」
「うん」
どちらともなく手を繋ぐ。人を殺した手でも、千鶴はこうして握り返してくれる。それだけでいい。それだけで、いつも通りの明日は来るのだから。