朝になり、千鶴とほぼ同時に目を覚ます。

「寝にくかったでしょう? ごめんね、布団譲ってもらって……」
「いいよ、別に。おれはどこででも寝れるし」

 うーんと伸びをしては立ち上がる。沖田のぶかぶかの着物を借りていたことを思い出した。

「伊東さんどうなったかな……」
「うん、広間に行ってみよう」

 一度部屋に戻ると、襖だけとりあえず元に戻された状態になっていた。蹴り倒された襖には穴が開いている。誰か修理してくれるのだろうかと思って中に入ると、血塗れの畳。布団だけは撤去されたようだ。誰も入って来ないことを祈りながら手早く着替えると、広間へと向かう。すると、正面から四人の男たちが歩いてくるのが見えた。

「あら、あなたたちは……」
「伊東さんに三木さん。それに……斎藤さんと平助君も。どうしたんですか? こんな朝早くに」

 千鶴が問うと、伊東が溜め息をついた。

「そりゃ、あれだけのことがあった後、のんびり寝ていられるほど無神経ではありませんわ。雪村君、怪我をしていたでしょう? 傷の様子はどうなのかしら?」
「まあ、その……大事はありませんでした」

 治っているとは言えなかった。は黙っていた。

「そう、それは何よりですわね」

 伊東が上機嫌で言った。

「あの……伊東さん、何かいいことでもありましたか?」
「ふふふ、知りたい?」
「はい、知りたいです」

 千鶴が正直に言う。だが、伊東は含み笑いをするだけだった。

「教えてあげない。まあ、大体想像はついてるかもしれないけど。ねえ、藤堂君、斎藤君?」
「……ん、まあ、なぁ」

 藤堂は視線を逸らしたままこちらを見ない。

「なんだよ平助。何か隠してんのか?」
「いや……」
「あの、斎藤さん……?」
「今は知る必要はないということだ」

 藤堂と斎藤は言葉を濁した。

「何だ? 別れの挨拶にしちゃ、ちとそっけなさすぎないか。それとも実は、こんな所からはさっさと出て行きたいってのが本音なのか」

 三木が笑う。

「出て行く……?」
「三郎、余計なことは言わなくてもよろしくてよ」

 千鶴が言葉を繰り返すと、伊東が鋭い口調で言った。

「それでは私たちはもう行きますわ。雪村君、君、ご機嫌よう」
「それではな、雪村、
「……またな」

 横を通り過ぎようとする四人に、は振り返る。

「ちょっと待てよ平助! 斎藤さんも! 出て行くってどういうことだ!」

 ずい、と三木がの前に立つ。

「黙ってろよ番犬。キャンキャン喚くな」
「あんたには話しかけてねえんだすっこんでろ」
「三郎!」

 ちっと舌打ちをして、三木が下がる。

「ごめんあそばせ」

 こうして、四人はどこかに行ってしまった。わけがわからず、とりあえず誰かに話を聞こうと広間へと急ぐ。広間には井上と島田がいた。

「おや、雪村君。もう起きてて大丈夫なのかい?」

 井上がいつもの柔らかい笑みで問いかけた。千鶴は頷く。

「はい。ぐっすり眠りましたから、もう平気です。傷も見た目ほど深くなかったみたいで……」
「それは良かった。しかし、災難でしたね」

 島田も微笑んだ。

「それよりも……今そこで伊東さんたちに会ったんです。でも、様子がいつもと違っていて……もしかして、何かあったんですか?」

 井上と島田が顔を見合わせる。

「……そうか、会ったのかい」
「伊東さんと三木さんも、なんだか意味深なことを仰ってたんです。平助君や斎藤さんの様子も、いつもとは違う感じで……」

 千鶴の言葉に、島田が小さく息を吐いた。

「実はですね……伊東さんたちは、ここを出て行くことになったんです」
「えっ? 出て行くって……」
「はあ!? 本当に出て行くのか!?」

 千鶴とが驚いて声をあげる。

「新しく隊を立てることにしたらしい。新選組とは別にね」
「そんなことできるんですか?」
「近藤局長と土方副長が、伊東さんと話し合って決めたということです」

 話はこうだった。伊東は以前から同志と共にこの新選組を出て、孝明天皇の御陵衛士を拝命しようと考えていたが、昨夜の一件でこれ以上一緒にやっていくのが困難だと判断し、隊を分けたいと言い出した。三年にもわたって謀っていたのはそっちだろうというのが伊東の言い分だった。だが、幕府からの密命を外に漏らされでもすれば、新選組も黙っているわけにはいかないと近藤は言った。そこは取引だと伊東は微笑む。近藤たちは伊東に黙っていて欲しい。伊東は黙ってここを出て行きたい。だから、出るにあたって隊士を分けて欲しいと言ったのだ。近藤は表向きには協力関係にあるという形をとること、そして連れて行くには本人の承諾を取ること、の二つを条件として挙げた。

「じゃあ、平助君と斎藤さんが……?」
「伊東さんについていくそうだよ。驚いたねえ。伊東さんと昔からの知り合いだった藤堂君はともかく、斎藤君はそんな様子はまったくなかったのに」
「そんな話あるかよ!」

 が怒鳴る。一緒に江戸から京へとやってきたはずなのに、同じ志を持っていたはずなのに、伊東派でもなかったはずなのに、急に伊東について行くと言い出したというのか?

「心配することはないよ、雪村君、君。言っただろう? これは友好的な関係を前提とした分離だ」

 近藤がやってきて二人に向かって微笑んだ。

「そうはいっても、今後は衛士と新選組隊士との交流は禁止するつもりなんだろう?」

 井上が言うと、一緒にやってきた土方が息を吐いた。

「当然だ。これ以上、あいつらの好き勝手にさせるつもりはねえからな」
「でも……本当にそれでいいんですか? 伊東さんや皆さんが、ここからいなくなってしまっても……」

 千鶴が土方に問う。

「伊東派の奴らが抜けたところで、困ることはねえよ。ま、平助と斎藤も一緒だっていうのは少しばかり計算外だったがな」
「まあ、な……彼らの期待に応えられなかった、我々の落ち度でもあるが……」

 土方と近藤が難しい顔をした。
 期待に応えられなかった? 本当なのか? はどうにも納得できなかった。

「……まさか、こんなことになるなんて」
「まあ、羅刹隊のこととか研究のこととか知られたならな……伊東さんにはていのいい口実を与えたんだと思うけど」

 伊東は最初から御陵衛士の発足について周囲に根回しでもしていたのだろう。先日の隊士集めの旅だって、新選組のためだなんてこれっぽっちも考えていなかったに違いない。自分の同志を集めたかったのだ。「平助君と斎藤さんと、話がしたいな……」
 千鶴が呟いた。

「そうだな」

 が同意する。本当に伊東についていくのか。それが正しいと思っているのか。彼ら自身に確認したかった。

「雪村君」

 正面から山崎が歩いてくる。

「昨晩、怪我をしたそうだな。傷の具合はどうなんだ?」
「あ、はい。大事はありません」
「昨日救急箱ありがとな、山崎さん」
「いや、大事なかったならよかった」

 山崎が微笑む。

「あの……平助君と斎藤さんを見ませんでしたか?」

 千鶴が問うと、山崎は顔を顰めた。

「藤堂さんと斎藤さんか……」
「……すみません、変な事を聞いてしまって」
「変な事なもんかよ、あいつら今はまだ新選組の仲間だぞ?」

 申し訳なさそうにする千鶴に、が言う。その言葉に話す気になったのか、山崎が表情を戻した。

「境内だ。向こうに行くのを、さっき見かけた。……話をするなら早い方がいい。彼らがここを出た後は、それすらも許されなくなるからな」
「はい!」

 二人は境内に向かって駆け出した。ぶらぶらと歩いている二人を見つける。

「平助君! 斎藤さん!」

 千鶴が叫ぶ。二人が振り返った。

「ははっ……やっぱつかまっちまったか」

 藤堂が苦笑する。

「もしかして、迷惑……だった?」

 千鶴が問うと、藤堂は首を振った。

「んなことないって。オレも、ちゃんと話したいって思ってたからさ」
「ありがとう」
「やはり来たか。話があるなら、早く済ませてくれ」

 一方で、斎藤は迷惑そうに言った。は眉を寄せる。

「は、はい……あの、二人はどうして新選組を離れることにしたんですか?」
「理由かあ……んー」

 藤堂は少し考えて、言葉を紡ぐ。

「伊東さんは同じ流派の先輩だし、昔から知ってるしさ。あの人が新選組に入ったのは、オレが誘ったのがきっかけだったんだし。だから、一緒に行動する義務があるんじゃねえかなって……そう思ったんだよ」
「でも、そのためにみんなと離れて……このまま会えなくなるかもしれないんだよ?」
「いきなり分派って言われて、オレもちょっと動揺してるところはあるんだけどさ……」

 藤堂は目を逸らして頭を掻くと、もう一度二人の方を見た。

「けどオレ、元々幕府に尽くしたいって思ってたわけじゃねえし。例の薬のこととか、色々考えると……伊東さんが言う御陵衛士の方があってる気がするんだ」

 藤堂は視線を落とす。

「オレだって、本当はみんなとずっとバカ騒ぎしてたかったさ……だって、江戸にいた頃から今までずっと一緒だったもんな」

 寂しそうな声で、そう言う。

「……斎藤さんは、どうなんですか?」

 千鶴は今度は斎藤に問いかけた。

「自らの志に合うと感じて、伊東派に属することに決めた」
「は? あんた尊攘派だったのか? 初耳だけど?」

 顔を顰めてが問う。斎藤の視線は冷たかった。

「征夷大将軍というのは、本来夷狄を排するためにある役職。外夷を払うという本分を忘れた幕府に、尽くす義理はあるまい」
「……近藤さんや土方さんの考えは、間違ってるって仰るんですか?」
「そうだ」

 千鶴の問いに、斎藤は迷いなく言い切った。

「間違っているから……別れても……もう会えなくてもいいんですか?」
「それもやむを得んだろう。己の志を貫くためには、情などに頓着するべきではない」
「そんな……」

 千鶴が言葉を失った。も言葉を探すが、何も浮かんでこなかった。

「やっぱり……新選組に残ってもらえませんか? こう思ってるのは私だけじゃないと思います。ちゃんだって、みんなだって、平助君や斎藤さんとずっと一緒にいたいって思ってるはずです」

 千鶴が言う。ね、と言われては無言で頷く。

「お願いします。平助君、斎藤さん」
「……言わないでくれって。オレたちだって、昨日今日決めたわけじゃねえんだからさ」

 藤堂が困ったように笑った。

「話はそれだけか? ならば、俺はもう行かせてもらう」

 そう言って斎藤は踵を返した。

「本当にいいんですか? いつか新選組のみんなとも、戦わなくてはいけない日がくるかもしれないのに……」

 その背に向かって千鶴が声を投げる。

「言ったはずだ。志の前では、情など無用のものだと」

 斎藤の背が遠ざかって、やがて寺の陰に隠れて見えなくなった。

「……平助の言い分は、まあ、わからないでもない」
「え?」
「でもな」

 が拳を握る。

「あの男のことは、まったくわからねえ!」

 そう言って、は走り出した。千鶴と藤堂が名を呼ぶが、は振り返らなかった。

「斎藤一!」

 大声で名を呼んだ。先を歩いていた斎藤が足を止める。

「何だ」

 振り返る。数歩の距離を置いて、も足を止めた。

「あんたの志ってのは、今まで一緒にいた仲間と見ていた夢とは違ったのか? 新選組のやっていることこそが、あんたの目指すものだと思ってた。あんたの守りたいものだと思ってた」
「あんたの勘違いだ」
「おれの勘違いだと思えねえから言ってんだよ馬鹿野郎!」

 数歩の距離を一気に縮めて、はその胸倉を掴んで顔を引き寄せた。

「おれはあんたと何度も剣を合わせて来た。だからわかる。あんたは確かに新選組のことを思ってたはずだ。なのに、近藤さんと土方さんの考えが間違ってるだなんて、よく言えたな!」

 だって、言ったじゃないか。「新選組のために生きねばならない。そのために命を捨てることも躊躇わない」と。あれは嘘だったとでも言うのか?

「確かに俺は新選組のために働いていた。それは認めよう。だが、新選組が仕える今の幕府は己の本分を忘れている。俺の剣は腐った幕府のためにあるのではない」

 冷たい目をに向けて、斎藤は言う。

「じゃあ何か? あんたの剣は、かつての仲間を斬るためにあるとでも言うのか!?」
「そうなることもあるかもしれん」

 ドン、とは斎藤を突き放す。数歩後ろに下がり、間合いをあけた。

「……勝負しろ」

 そして刀の柄に手をかける。

「納得いかねえ。どうしても出て行くっていうなら、おれのこと斬り伏せてから出て行けよ」

 斎藤は首を振った。

「無意味だ。あんたは俺には勝てない。身をもって知っているはずだが」
「いいから刀を抜けよ、斎藤一!」

 が刀を抜くと同時に力強く踏み込んだ。刀の交わる音は一度だけ。そして、刀が地面に落ちる音。――の首元に、刃が突き付けられていた。

「最後に一つだけ助言だ。怒りに任せた剣ほど、見切るのに容易いものはない」

 そう言って、斎藤は刀を納める。

「斬れって言っただろ! なんで斬らねえんだ!」
「あんたを殺す理由がない」

 そして斎藤は背を向ける。

「今日のことは伏せておけ。『私の闘争を許さず』という決まりを知らぬわけではないだろう。隊士でないとはいえ、あんたも処罰は免れまい」

 斎藤が歩き出す。

「……あんたなんか、大っ嫌いだ」

 泣きだしそうなその声に足を止めることもなく、斎藤は立ち去った。
 とぼとぼと中庭に向かうと沖田が佇んでいた。がやって来たのに気が付いて、振り返る。

「どうしたの? 元気ないね」

 そう問われ、先程の斎藤とのやりとりを思い出して、は眉を寄せる。そして、別に、と小さく答えた。

「総司さん聞いた? 斎藤さんと平助が出て行くって」

 うん、と沖田は頷く。

「聞いたよ。次会ったら殺し合いかな」
「敵になるなら、だろ」
「そうだね。敵にならないのなら、斬る必要はないからね」

 そう言って、沖田は腰の刀に手を添える。

「もし新選組の……近藤さんの敵になるなら、容赦はしない」

 それは冗談ではなく、本心からの言葉。

「新選組の剣だから?」

 が問うと、沖田はにこりと笑った。剣は考えない。ひとたび命令が下れば、誰であろうと斬り捨てる。沖田総司は、そのようにできている。

「おれも、剣になれるかな」

 がぽつりと呟いた。いつか沖田が戦えなくなるのなら、その代わりに自分が立てればと、そう思った。

「君が?」
「盾より剣、って言ったのは総司さんだろ」
「うん、そうなんだけど……」

 沖田は少し考えてから、意地悪そうに笑みを浮かべた。

「やっぱり向いてないよ。君はほら、番犬とかがいいんじゃない? 敵に吠えて噛みつく感じの」
「誰が犬だ!」

 そうして、伊東派の隊士たちが離隊する。去り際に二人が、相馬と野村に「雪村とを頼む」と言い残していったという。は見送りはしなかった。藤堂には少し悪いなと思ったが、斎藤との喧嘩別れを悔やんではいなかった。
 慶応三年三月十日。桜がはらはらと舞っていた。