三条大橋に立てかけられた制札が、何者かに引き抜かれるという事件が起こった。制札とは、特定の相手や事柄を幕府が制定した法令として知らしめるために記した掲示板のことで、長州の罪状を記した札が三条大橋にあった。それを引き抜いて鴨川に捨てた者がいる。一度だけではなく、二度だ。これに対し、新選組に「制札を警護せよ」という命令が下される。通常の巡察以外の組が、交代で見張りにあたることになった。見張りを初めて二日目、夜間に原田たち十番組が犯人を捕まえた。犯人は土佐藩士八名。何人か生け捕りにして、残りには逃げられたとのことだった。
 そして会津藩から出た報奨金で、皆は島原の角屋に来ていた。

「いやー! 左之、おまえは本当によくやった! まさか、『報奨金で皆にご馳走したい』なんて言ってくれるとはな!」

 永倉が上機嫌で言った。

「新八さん、褒めるならそこじゃなくて、制札を守り切ったってところじゃない?」
「いや、そこはもちろん褒めるけどな。それ以上に、ここの勘定を左之が持ってくれるってことに感激して、涙がちょちょ切れそうで……!」

 呆れて言う沖田に、永倉は泣き真似を始めた。

「皆、今夜は左之の奢りだ! 目一杯呑んで、日頃の憂さを晴らしてくれ!」

 おー! と叫んだのは藤堂だけだった。

「てめえ、人の金だと思って……」
「左之さん、ありがとよ! 今日は勘定を気にせず、好きなだけ呑ませてもらうからな!」

 藤堂が原田の肩を叩いた。

「みんながみんな、お酒を呑めるわけじゃないんだけどね」

 沖田が溜め息をつく。病のことを知って、自主的に酒をやめたことをは知っている。

「そう言わずに、せっかく来たんだからうまい物をたんと食っとけ」

 土方が沖田の隣の席で言う。沖田がにっこりと笑った。

「そうですよね。土方さんも、遠慮せずにたくさん呑んでくださいね」
「いや、俺は酒は……」
「ええっ? まさか泣く子も黙る新選組副長ともあろう方が、呑めないなんて言いませんよね?」
「てめえ、知ってて言ってやがるだろ! わざとらしいんだよ」

 土方が怒る姿を見て、がえっと声をあげる。

「土方さんお酒呑めないんですか?」
「そうなんだよ、この人下戸だから」
「総司!」

 ちょうどよく襖が開いた。芸妓の女性が入って来る。

「おおきに、お頼申します」

 白く透き通った肌にうっすら差した紅。絹糸のように艶やかな黒髪。美しい女性の登場に、皆が一瞬静まり返る。

「今晩、お相手させていただきます、君菊どす。すぐにお料理もできますよって、存分に楽しんでいってください」

 拍手が起こる。永倉たちだ。

「綺麗な人だね」

 千鶴がに囁いた。うん、とも頷く。島原のこういった店に来るのは初めてだ。芸妓の女性は皆このように美人なのだろうか。
 やがて、酒と料理が運び込まれて宴会が始まった。永倉や藤堂が上機嫌で酒を呷っている正面で、と千鶴は料理だけを楽しんでいた。一体いくらする料理なのだろう……会津からの報奨金がいくらだったのかは聞いていないが、原田が気前よく皆にご馳走するというくらいなのだから、それなりの金額のはずだ。つまりこの一口が……そこまで考えて、料理の味はよくわからなくなった。
 周囲を見ると、静かに酒を呑んでいる斎藤、同じく食事をしている沖田。土方は君菊に酌をされながら話をしている。下戸ではなかったのかと思いながら、はよくわからない美味しい料理を一口食べた。

「にしても、立て札を守っただけでこんだけの報奨金が出るんなら、全員捕まえてたらどれだけの大金が貰えてたんだろうな。なあ左之、どうして逃がしちまったんだ? 八人くらいなら何とかできねえ数じゃねえだろ」
「あっ、オレもそれが不思議だったんだ! 敵を絶対に逃がさないよう取り囲んでたんだろ? 一旦捕まえた奴もいたらしいのに、本当は何があったんだよ?」

 気になる話が聞こえて、永倉たちの方に目を向ける。原田は無言でいたが、ふと千鶴の方を見た。

「千鶴、おまえあの晩、どこかに出かけなかったか?」
「えっ?」

 料理を食べていた千鶴が箸を止めた。

「出掛けてませんけど……どうしてですか?」
「本当に、あの夜は外に出てねえんだな?」
「はい……私、一人で屯所の外に出たことはありませんから」

 ね、と千鶴に同意を求められては頷く。確かに原田が制札の警護をいていたあの夜は、千鶴はと一緒に屯所にいた。

「おい、どうしたんだ?」

 永倉が問う。

「見間違いであってくれりゃいいんだが……あの晩は月も出てなくて暗かったからな。だが、あれだけ近くで見たんだ。絶対に見間違うはずがねえ……」
「あの……原田さん? 仰っている意味が……」

 原田が言いにくそうに話し出した。

「いや、実はだな……立て札を引っこ抜こうとした土佐藩士を取り囲んだ時、おまえによく似た顔の女に邪魔されて、囲みを破られちまったんだ」
「えっ……?」

 水を打ったように静まり返る。

「ええと……まあ、そんな時もある! 何にせよ、今日は左之の奢りだ! 朝まで呑もうぜ!」
「さ、賛成! 今日は限界に挑戦してやるぜ!」

 永倉と藤堂がまた騒ぎ出す。それを見て溜め息をつき、原田はもう一度千鶴に目を向けた。

「悪かったな、おかしなこと言っちまって。別におまえを疑ってるわけじゃねえんだ。俺たちの邪魔をしても、おまえが得することなんてなにもねえはずだしな」

 千鶴が首を振る。

「いえ、気にしないでください……私はあの晩、確かに屯所にいました。ちゃんじゃ証人にならないかもしれませんが……」
「ああ、いいんだ。おまえじゃねえってことはわかってるからよ」

 原田が手を振った。

ちゃん、覚えてる?」

 静かだった隣の沖田が話し出して、は原田から目を移した。

「前に平助と一緒に巡察に出た時、千鶴ちゃんにそっくりな女の子に会ったよね」
「あっ!」

 が大声をあげる。話をしていた原田と千鶴がを見た。

「どうしたの?」
「千鶴にそっくりなのって、あの時の女じゃないか? 南雲、薫とかいう……」

 あっ、と千鶴も声をあげた。

「なんだ? もしかして知り合いなのか?」
「前に巡察に出た時に、私に似ている女の子に出会って……ね、平助君」

 藤堂が眉を寄せた。

「ああ、あの時のだろ? でも、総司とは似てるって言ってたけど、オレはそうでもないと思ったけどなあ」
「そうだったっけ……」
「だって、向こうはお嬢さん姿だったし」

 数人の溜め息が重なった。原田が呆れた目を藤堂に向ける。

「その女のことはよくわからんが……とりあえず、平助に女を見る目がねえってことはよくわかったぜ」
「はあ!? なんでそうなるんだよ!」

 むきになった藤堂を原田がからかっている様を、は溜め息をついて見ていた。藤堂の女の見分け方は服装だけなのだろうか。

「その話、詳しく聞かせてくれ」

 斎藤が酒を呑むのをやめてこちらを見ていた。

「前に巡察の途中で、千鶴ちゃんそっくりな女の子に出会ったんだよ」

 沖田が説明する。

「偶然とは思えん。一度、その者に話を聞いてみる価値はありそうだな」
「でも、新選組に仇なすような子には見えませんでした」

 千鶴が言うが、斎藤は表情を崩さなかった。

「ごく普通の町娘を装うことなど、いくらでもできる。その女子と会ったのは、本当に初めてなのか?」
「はい……ちゃんと沖田さんは、私にそっくりだと言っていました。平助君は、あまり似ていないって言ってたんですけど」
「僕は似てたと思うな。ねえ?」
「うん、似てた」

 沖田とがそれぞれ頷く。

「京に親戚はいないのか? 同じ顔の人間など、そう滅多にいるものではない」

 千鶴が首を振る。

「いえ、いません。父からも聞いたことはありませんし。もしこちらに親戚がいるなら、父も松本先生じゃなくてその方を頼れと言ったはずですし……」
「……なるほど」

 斎藤が頷く。

「さてと、いい感じに酒も回ってきたことだし……恒例のあれをやらせてもらうぜ!」
「おっ、来た来た! さすが左之! 待ってました!」

 話は、突然始まった原田の宴会芸によって終わってしまった。
 朝まで残るという永倉と原田、そしてそんな二人と君菊に捕まった土方を残して、たちは帰路についていた。藤堂は朝まで残るかと思いきや、疲れたので帰るとのことだった。

「だんだん夜は冷えてきたなあ」

 が腕をさすりながら言った。そうだね、と千鶴が返す。

「こほっ、こほっ」

 沖田が咳をする。

「沖田さん、大丈夫ですか?」
「平気だよ。君も心配性だよね」

 千鶴の言葉に、なんてことないように沖田が返した。斎藤と藤堂がいる前で病の話はできない。千鶴はそうですかとだけ言った。

「それにしても土方さん、すっかり君菊さんに気に入られてたな! ずっと隣にくっつかれてたし」

 藤堂がおかしそうに笑いながら言った。千鶴が頷く。

「うん。綺麗な人だったし、土方さんと並ぶと美男美女って感じだったね」
「そんなに綺麗だったっけ?」

 沖田が首を傾げた。

「綺麗だったって! つうか、あんな高そうな人呼んじまった左之さんの懐が心配だよ!」
「そう。僕、女の人の良し悪しってよくわからないな」

 沖田が興味なさそうに言った。が腕を組む。

「君菊さんは綺麗だったと思うけど、平助はなあ、小綺麗な格好してればみんな美人で可愛い子みたいだからなあ」
ちゃん、それ合ってる」
「そんなことねえって!」

 と沖田に向かって藤堂が憤慨したように叫ぶ。千鶴が自身の姿を見て溜め息をついた。

「どうかしたのか。暗い顔をしているようだが」
「い、いえ、何でもないです」

 斎藤に問われ、千鶴は慌てて首を振る。

「千鶴もさ、いつか振袖とか着て見せてくれよな!」
「えっ? どうしてそういう話に……」
「千鶴の振袖姿は可愛いぞ」
ちゃん!」

 深夜、賑やかな屯所への帰り道だった。