慶応二年も九月に入り、蒸し暑さが和らいできた頃合い。
「総司さん、稽古付き合ってー!」
「今日は先約がいるんだ」
ごめんね、と言われて先約とはと首を傾げて後についていく。そこにいたのは相馬と野村だった。千鶴も一緒にいる。
「よろしくお願いします、沖田さん!」
「お願いします!」
二人が礼をする。
「へえ、二人とも自分から総司さんの稽古やるって言ったのか?」
「ええ。組長のお手を煩わせるのはと思っていたんですが、強くなるためには必要かと思いまして」
相馬が頷く。
「よーし! いい心掛けだ!」
そう言っては嬉しそうに二人の背を力いっぱい叩いた。自分以外に組長直々の稽古を受けたがる隊士を見たことがなかった。
「よし、じゃあ今日は二人がぼこぼこにされるところを見学することにする!」
「ぼこぼこにされるって決めつけるなよ!」
野村が不満げに叫んだ。だが、野村はすぐにその言葉の意味を理解することとなる。
「ぐあっ!?」
「いってえっ!?」
二人は沖田に文字通りぼこぼこにされていた。一対二の稽古をしていても、沖田は余裕顔だった。息を切らしすらしていない。そして溜め息をついた。
「ひょっとしてもう終わり? あーあ、二人ともてんで駄目だね」
「あの沖田さん、今のは少しやりすぎじゃ……?」
にやにやとしているの隣で、千鶴が心配そうに言った。
「稽古をつけて欲しいって言ったのは、相馬君と野村君の方でしょ。仮にも新選組の端くれだったら、このぐらいの一撃は避けてくれないと」
無茶を言う、とは思う。沖田の稽古は新選組幹部の中でも最もきついと言われている、らしい。自分はここに来てからずっと沖田の稽古を受けているのでよくわからない。だが、一番組の組長を任されている沖田の実力が伊達ではないことはもよく知っていた。彼の稽古で痣ができない日はない。
「いってて……沖田さん、ちょっとは手加減してくださいよ!」
「へえ、野村君が戦場で戦う敵は手加減してくれるんだ? ずいぶんと優しいんだね」
「うぐっ」
もっともな言葉に野村が続く文句を飲み込む。
「まあ幹部並みになれとは言わないけど、局長付き小姓を名乗りたかったら、せめてもう少し強くなって欲しいよね。いざって時は近藤さんの盾になって死んでもらわないといけないし」
「言われるまでもありません」
軽い口調の沖田の言葉に同意したのは相馬だった。
「主君のために体を張るのが武士の責務です」
「まだそれだけ言える元気があったんだ。これだけ痛めつけられたら、普通は音を上げるものだけど」
相馬は頭を振って、もう一度木刀を構えた。
「俺ならまだ大丈夫ですから……もう一本お願いします!」
「よっしゃ! 相馬がやるなら俺も!」
野村も構える。
「……調子狂うなあ」
沖田は木刀の先で頭を掻くと、向かって来る二人の相手を始めた。
三人の稽古は日が傾き、屯所が橙色に染まるまで続いた。ふああ、とが欠伸をした頃。相馬と野村はばったりと倒れ、夕日に照らされていた。
「ええと、二人とも大丈夫?」
千鶴が水桶を持って来て、二人に濡れた手ぬぐいを渡した。
「大丈夫に見えるか……これが……」
「おい野村……先輩に対して、少しは口の利き方に気をつけろ……」
ありがとうございます、と言って冷たい手ぬぐいを受け取ると、二人は汗を拭った。
「相馬君も野村君も、屯所での生活にはもう慣れた?」
千鶴が問う。
「ええ、まだ学ぶところは多いですが、おかげさまで少しずつ」
「けど正直、ここまで稽古が厳しいとは思わなかったぜ」
相馬と野村がそれぞれ答える。
「沖田さんの稽古は、組長の中でも一番厳しいって評判だから。でも、二人はよくついていってると思う。普通はすぐに音を上げるものなのに」
ね、と言われてが頷く。切腹した柴田のことを思い出して、少しだけ胸が痛んだ。
「しかし、沖田さんの強さは本物だ。二人がかりで一撃も入れられないとは」
「あー。俺も剣の腕には多少自信あったし、その辺の連中には負けねえつもりだったけどよ……沖田さんは別格だよな。全っ然勝てる気がしねえ」
わかるわかる、と思いながらは緩む口元を押さえられずにいた。自分だって腕は立つと思っていた。それでも、沖田から一本取れたのは一度しかない。二人を見ていると、昔の自分を見ているようだ。
「聞いた話だが、新選組には沖田さんに匹敵する達人が他にもいるらしいぞ」
相馬は言う。
「斎藤さんと永倉さんじゃないのか?」
が言うと、千鶴が頷いた。
「うん。先日の稽古だと斎藤さんが沖田さんに勝ち越してたみたいだし……その斎藤さんは永倉さんに一本取られて、その永倉さんは沖田さんに勝てなくて……」
幹部隊士もたまに打ち合いをしている。新選組の三強はこの三人だと言われている。
「そう聞くと、改めてこの新選組がどんな場所か思い知らされるな」
相馬が木刀を握りしめる。口元に浮かぶのは笑みだった。
「けどよ、これだけ強者揃いの新選組で一番強いのって結局誰なんだ?」
野村が足を投げ出して問う。
「やはり、近藤局長じゃないかな。凄まじい剛の剣の使い手だと聞くぞ」
「いや、ここは土方副長だろ! 何しろ鬼の副長だぜ! 目つきも怖えし!」
「確かにあの目つきは……いや、関係ないだろ!」
相馬と野村が地面に座り込んだまま盛り上がっている。そんな二人を見て、と千鶴は思わず笑う。
「雪村先輩とさんは誰が一番強いと思いますか?」
「正直なとこ教えてくれよ。男だったら誰が最強かは気になるだろ!」
笑い声を聞いてか、二人がこちらに話を振って来る。男じゃないんだけどなあ、と思いながらは考えて、ふっと笑みを浮かべた。
「おまえたち、知らねえようだから教えてやる」
が一歩前に出た。
「この新選組で一番強いのは――」
ごくり、と二人が唾を飲み込む。が親指を自分に向けた。
「未来のおれ!」
自信満々にが叫ぶ。相馬と野村が無言で顔を見合わせた。
「おい! なんだその反応は! 今は総司さんにもあんまり勝てないけど、いつかはおれが一番にな――いってえ!」
頭に木刀が落ちてきて、は頭を押さえて振り向いた。いなくなったはずの沖田が笑顔で立っている。
「へえ、ずいぶんと面白い話だね。さっきから聞いてたら、僕より土方さんの方が強いとか……そんな戯れ言を言うのはどの口かな? 無駄口を叩く暇をなくしてあげるよ」
「い、いや、違うんですってこれは! 相馬が気になるとか言い出すから!」
「いえ、俺のせいでもありません!」
「おまえはどっちの味方なんだ!」
に木刀を一本渡して、沖田がもう一本を肩に担いだ。
「たまには二対二の稽古しよっか、未来の一番組組長さん?」
「組長になりたいとは言ってねえだろ!」
仕方なく木刀を構える。相馬が沖田に、野村がに向かって踏み込んで来る。振り下ろされた木刀を避け、背後に回りながら頭に木刀を容赦なく振り下ろす。沖田との共闘、というほどの共闘にはならなかった。二人の強さは、他の隊士たちと比べても優に相手ができる程度だったからだ。そうして、立っているのはと沖田だけになった。
「肩慣らしにもならねえ……」
が溜め息をついた。野村が体を起こしながらを睨む。
「さんちっせえのに、どこにそんな力があるんだよ……」
「小さいのは余計だ!」
「その小さいちゃんからすら一本も取れないなんて、ほんと非力だよね」
手元で木刀を回しながら沖田が呆れた口調で言う。
「じゃあ、そういうわけで、ちゃんあとよろしく」
「はあ!? なんで!?」
沖田が手を振って立ち去る。文句を言いたくとも、そろそろ体調がよくないのかもしれないと思うと無理も言えない。未だ、他の隊士に負けるような衰えは見せていないわけだが。
「さん! よろしくお願いします!」
「お願いします!」
「あーはいはい、まとめてかかってこい」
そうして完全に日が暮れ、夜になろうかという時間まで稽古は続いた。
「もう一本!」
「もう終わりだ終わり! 飯の前に風呂でも入って来い!」
いつまでやる気なんだとが叫ぶ。千鶴は夕食の準備があるからと言って、暗くなる前に屯所の中に戻ってしまった。
「さんは、ずっと沖田さんに稽古をつけてもらっているんですか?」
歩きながら相馬が問いかけて来る。
「うん、まあ。総司さんが一番多いかな。次に斎藤さんだけど、他の幹部は暇なくせに付き合い悪いから稽古つけてくれねえんだよな」
「暇な、って言えるさんがすごいと思います……普通お時間を取っていただくものかと……」
暇があれば島原に遊びに行くような彼らだ。稽古くらい付き合ってくれてもいいのにと思うのだが、永倉と藤堂は女相手には出来ないと言い、原田は得物が違うからと相手にしてくれない。
「さんでも、沖田さんには敵わないのか?」
「前に一本取れたけど」
「一本取れたんですか!?」
「一回だけな、一回だけ」
土方に稽古をつけてもらった翌日のこと。優しさと甘さの話。心構えの話。死の話。集中の仕方は以前より身について来たが、まだ実戦で使えるとは思っていない。
「ま、そんな落ち込むなよ! おれに勝てないんだし、総司さんに一撃入れられるわけないって!」
「全然励ましになってねえ……」
ばしんと手近にいた野村の背を叩く。
「まずはさんを超えるところから、ってことか……」
相馬はそう呟くと、数歩駆け、の前に立って頭を下げた。
「というわけで、さん! これからもご指導よろしくお願いします!」
「お願いします!」
「えっ、そういう話になる!?」