集中する。集中する。目の前の敵を、殺すのだと思う。この一歩が、この一刀が、自分の命と相手の命、そして仲間の命を左右する。地面を強く蹴る。相手の動きを見ながら、自分がどのように動けばよいか考える。木刀がぶつかる音が大きく耳に届く。

「今日はここまでにしよう」

 斎藤がそう言って、は動きを止めた。

「ありがとうございました……」

 は疲れ切ったように膝に手をついた。大きく息を吐く。

「強くなってきたな、

 が呼吸を整えていると、斎藤がそう言った。不満そうな顔では斎藤を見る。

「未熟な総司さんくらい?」

 まだ新選組に来たばかりの頃に言われた言葉は覚えていた。斎藤はふっと笑う。

「いや。隊士の中でも、あんたに敵う者はもういないだろう」

 は瞬きしてから、にやりと笑った。そして、木刀の先を突き付けた。

「よし! じゃあ、あとはあんたたち幹部だけってことだな! 負けねえ!」
「ああ。期待している」

 は沖田を始め、斎藤とよく稽古をするようになった。沖田には勝てずとも、いい勝負をするまでになってきたと自分では思う。今やるべきは数をこなすこと。敵を殺すという感覚を体に覚えさせなければならない。意識せずにできるようになるには、まだ時間がかかりそうだった。
 時は慶応二年八月。幕府は禁門の変の後、長州藩を朝敵とし各藩に長州征伐の命を出した。これを第一次長州征伐と呼ぶことになる。この戦は、長州藩がすぐに退いたおかげで互いに大きな被害は出なかった。その長州征伐から二年、幕府は再び長州藩に制裁を下すべく、多くの兵士を京に集結させていた。近藤が視察に向かったが、兵の士気はあまり高くはなかったとのことだった。戦費の負担が大きいのが要因だろうと推測された。

ちゃん、相馬さんって覚えてる?」

 夜、布団の準備を終えて、今日一日のお互いの話をしている時に千鶴が言った。

「覚えてるよ。あいつがどうかした?」
「今、長州征伐に行く陸軍隊に所属してるんだって」

 千鶴は土方の小姓という立場のため、彼らへの茶出しなどで聞いた話を持ち帰って来ることが多い。は首を傾げる。

「陸軍隊? あいつどこかの藩にいるんじゃなかったか?」
「うん、脱藩して今は陸軍隊にいるみたい。近藤さんが視察の時に会ったみたいなの」
「ふうん。まあ、藩に不満持ってたみたいだしな」

 以前会った時、藩への不満を口にしていたのを覚えている。波風立てないように顔色を窺っている様子が気に食わないと言っていた。

「それで、会った時に新選組に入らないかって勧誘したみたい」
「へえ、それじゃあ相馬新選組に来るのか?」

 千鶴は首を振る。

「ううん、まだ悩んでるって。戦いの前だったから、そっちに集中しているんだろうって近藤さんが仰ってたけど」

 そっか、と言っては頷く。
 こうして、二度目の長州征伐が行われた。その最中、突如将軍家茂公の訃報が知らされ、幕府軍には大きな衝撃が走った。また、最新式の銃を持った長州とは武器に大きな差があったこと、幕府の求心力が低下しつつあることから、戦線離脱する藩さえ現れ始め、二度目の長州征伐は幕府軍の大敗北という結末に終わった。
 それから少し経ったある日。

「あれ、相馬だ」

 稽古終わりに沖田と歩いていると、見覚えのある人物が千鶴と一緒に歩いていた。

さん! それに沖田さん!」

 相馬が嬉しそうな顔をする。

「ああ、相馬君だっけ。どうしてここにいるの?」

 沖田が然程興味なさそうに問う。

「実は新選組に入隊することになりまして」
「今、屯所内を案内しているところなんです」

 相馬と千鶴がそれぞれ答えた。

「え? おまえ、陸軍隊も辞めたの?」
「はい……お恥ずかしながら」
「いや、別に恥ずかしがることはないと思うけど。脱藩した時みたいに、陸軍隊にも何か不満があったんだろ?」

 はい、と相馬は頷いた。

「陸軍隊ってことは、長州征伐に行って来たんでしょ? 怪我してなさそうだし、無事でよかったじゃない」

 沖田が言う。相馬は眉を寄せた。

「それが不満だったというか……」
「は? 死にに行ったってこと?」

 が問う。

「幕府のために死ぬ覚悟をして行ったんです。ですが、俺は予備兵で戦線に出ることはありませんでしたし……周囲もそれを安堵する声ばかりで……」
「士気の低い部隊だったんだね。お気の毒さま」
「まあ、みんながそういう覚悟でいたら勝ってるよな」

 長州征伐の幕府軍大敗北の一件は聞いている。幕府軍の士気が上がらない中での、家茂公の訃報。長州軍との武器の差。幕府軍の敗北も仕方のないことだっただろう。
 相馬は忘れるように首を振った。そして、笑みを浮かべる。

「ここには、武士とは何かを探しに来ました。近藤局長の小姓見習いとして、雪村先輩にご指導していただきますが――」
「ちょっと待って、近藤さんの小姓見習い? 誰の許可を得て決めたのそれ」

 沖田が鋭く問い詰める。

「こ、近藤局長のですが……」
「あの、忙しくなってきたから、身の回りの世話をしてくれる人が欲しかったのだと仰っていました……先日入隊した野村君と一緒に小姓見習いから、と……」

 野村というのは、野村利三郎という最近入隊した隊士だった。二人の回答を聞いて、沖田は額に手を当てた。

「近藤さん直々かあ……」
「こりゃ文句言えないな」

 慰めるようにが沖田の肩を叩いた。その様子を見ていた相馬が問いかけた。

「以前から思っていたのですが……さんは、幹部の皆さんと随分親しげな口調でお話されますが、見習い隊士なんですよね?」
「相馬君、こういうのは馴れ馴れしいって言うんだよ」
「ちょっと! せめて仲がいいとか言えよ!」

 が沖田の腕を殴った。そして沖田が笑いながらの頭に手を乗せる。

「扱いは一番組の見習い隊士なんだけど、この子はちょっと特別でね。だからこんなのも許されてるって感じかな。君がこんな口調で話しかけてきたら斬っちゃうから」
「そ、そんなことしません!」

 相馬が即座に否定する。

「……斬られずに済んでいるさんは、実はすごい立場の人なのか?」
ちゃんは怖いもの知らずっていうか、なんていうか……そういうところがあるから……」

 考え込む相馬に、千鶴が苦笑した。二人が沖田に頭を下げて立ち去る。

「後輩か……」

 沖田が呟く。

「なに?」
「ううん。そろそろかなと思って」

 意味がわからず、は首を傾げた。
 そして、翌日の稽古の時間。稽古は以前より短時間で終わるようになった。ただ集中する。相手を殺すことだけを考える。集中力を切らすな、それが命取りになる。剣を持ったからには、必ず殺す――

「こほっ、こほっ」

 ぱちん、と集中力が切れた音がした。深く息を吐く。

「休憩しよ、総司さん」

 沖田が首を振る。

「大丈夫。さ、続き――」
「おれが! 疲れたの!」
「……軟弱」

 ぼそりと呟かれた言葉は聞かなかったことにした。実際、集中力は切れかけていた。木陰の椅子に並んで腰かけて休憩をする。

「君、千鶴ちゃんと一緒に巡察行かなくなったよね」

 は一番組が巡察に出る時にしか外に行かなくなった。あとはひたすら中庭で素振りをしている。

「組長と一緒だし、大丈夫だろ。今のおれは稽古の方が大事」
「……それ、もしかして僕のこと心配して言ってる?」

 不機嫌そうな沖田の声に、は笑った。

「ないとは言わないけど、おれのためって方が強いかな。だから気にしなくていいよ」

 沖田の病状は、咳を繰り返すだけで今のところ隊務に影響はない程度と言っていい。いつか刀が持てなくなる日は必ずやってくる。その日までに、自分は一日でも多く彼から学ぶべきことを学ばなければならなかった。

「君が強くなるのは、千鶴ちゃんのため、か」

 沖田が呟いた。今更なその言葉に首を傾げる。

「なに?」
「後輩も入って来たし……そろそろ話そうか。こういうの柄じゃないんだけど」
「なんのことだよ……」

 沖田がの方を向いた。

「誰かのために強くなりたいと思うのは立派だと思うよ。でもさ、ちゃんを見てると何か違うなって思うんだよね」
「違う? 何が?」

 がよくわからないと眉を寄せる。

「君が守りたいのは本当に千鶴ちゃんなの?」

 沖田の鋭い目がを射抜く。

「は? どういう――」
「君が本当に守りたいのは、『千鶴ちゃんを守る自分自身』なんじゃないの?」

 カラン、と持っていた木刀が落ちた。冷や汗が流れる。

「違、う……おれは、千鶴を守るって約束をして……」

 自信がなくなる。沖田の言葉はいつだっての心臓を容赦なく刺してくる。こう真剣な様子で言う時は、その言葉が冗談だったことはない。
 それに、気付いてしまった。伊庭が千鶴のことが好きだと気づいた時。あんなにも嫌だったのはどうしてなのか。自分の存在意義がなくなることの恐怖。自分の価値がなくなることの恐怖。いつだっては千鶴のことを口にする時、その後ろにいる自分を見ていた。自分を守ろうとしていた。千鶴を守ることで得る自分の居場所を、安心感を手に入れていたのだと。

「千鶴ちゃんがいなくなったら、君には何が残るの?」
「……」

 なにも。なにものこらない。
 ただ、強くなっただけの自分が残る。何の目的もなく、ただ強くなっただけの自分が。その自分に、何の意味があるのだろうか。何の、価値があるのだろうか。

「あまり千鶴ちゃんを縛ってると、彼女がかわいそうだよ」

 俯いてると、沖田が最後にそう言った。

「今日は終わりにしようか」

 立ち上がって、沖田が歩き出す。

「近藤さんがいなくなったら、総司さんには何が残るんだよ」

 足音が止まる。

「君たちと一緒にしないで欲しいんだけどな」

 冷たい目でを見て、沖田は言う。

「何も残らないよ。持ち主のいない剣がひとつ転がるだけ。……そんなことにはならないけどね」

 近藤と沖田との関係とは違う。自分と千鶴は友達だ。友達を守る。それの何が間違いなのかはわからないけれど、千鶴にすべてを押し付けていたという感覚が急に増して、はその場から動けなかった。

「それでね、お千ちゃんっていう女の子に出会って……」
「ふうん」

 夜、部屋で千鶴の話を寝転がりながらぼんやりと聞いていた。

「……ちゃん?」
「ん?」
「今日は沖田さんに稽古をつけてもらってたんだよね? 何かあったの?」
「え、なんで?」
「様子がおかしいから」

 千鶴は心配そうな表情でを見ている。はそんな千鶴に少し視線を向けて、天井を見た。

「なあ、千鶴。おれって、おまえにとって迷惑な存在か?」
「え?」

 千鶴は驚いて問い返す。しばしの沈黙。質問の意図を考えているような間があった。

「どうして、そんなこと言うの……? ちゃんは私の親友だよ。迷惑になんて思ったことない」

 千鶴が答える。

「京に来るのだって、本当は一人が心細かった。ちゃんがいたから私は……」
「……そっか」
「でも……」

 言葉が続き、逸らしていた目を千鶴に戻す。千鶴は俯き、膝の上で手を握っていた。

「死んでも守る……って、ちゃんはそう言うから、時々怖い、かな。ちゃん、いつか死んじゃうんじゃないかって……そう思うから」

 千鶴の言葉を脳内で繰り返す。

「おれが死んだら困る?」
「困るよ!」

 自然と出た問いに、千鶴は間髪入れずに叫んだ。

「困るというか……悲しい……」

 そして、再び俯いた。

「……ごめん。千鶴を悲しませたいわけじゃないんだけど」

 千鶴を守るという約束。それを破るつもりは、今だってない。だが、千鶴のために強くなり、千鶴のために戦い、千鶴のために敵を殺す。それが正しいのかどうかはわからなくなっていた。
 翌日。は素振りにも身が入らず、隊士たちが表で稽古している様を遠くから見ていた。彼らは何のために稽古をしているのだろう。何のために強くなろうとしているのだろう。自分と、何が違うのだろう。

「何かあったのか?」

 声をかけられて顔を向けると、永倉が近付いて来ていた。

「なんで?」
「何か悩んでるみたいだからよ」

 そう言いながら隣に立つ。

「総司さんに……おれが守りたいのは千鶴じゃなくて、本当は千鶴を守るという自分自身なんだろって言われて……」
「また総司か……」

 永倉が息を吐く。

「まあ、前からおまえの剣は危ういとは思ってたよ」
「危うい?」

 首を傾げる。永倉は言うか言うまいか迷い、仕方ないという息をまた吐いた。

「守るってのは、相応の力がある奴が言える言葉だと思う」
「……おれにはその力はないと?」

 そうじゃない、と永倉は言う。

「死んでも千鶴ちゃんを守るって言うけどな……最初から命を投げ出してるのと、結果的に命を失うんじゃ意味が違う」

 周囲に人がいないのを確認して、永倉はに目を戻す。

「おまえは中途半端に羅刹みたいな力を持っていて、並みの隊士より治癒力がある。最初と比べたら剣も各段に強くなった。だが、その意識の差が命取りになる」

 意識の差、とは呟く。

「おまえは最初から命を投げ出してる方だ。自分の命を軽々しく扱う人間が、他人を守れるとは思えねえよ。自分のせいでおまえを失う千鶴ちゃんのことを考えたことがあるか?」
「……」

 ない、と思う。千鶴は普通の女の子だ。だから、守ろうと思った。約束もした。でも、彼女はきっと、自分が死んでも「立派だった」とは言ってくれない。それだけはわかった。

「なあ。おまえ、道場でも剣術を習ってたし、総司や斎藤にも散々稽古つけられてるだろ? 命を大事にしてない、って言われたことないか?」
「あ……」

 ――君の剣術の欠点がわかった気がする。初めての稽古で、沖田が言っていた。
 多少の怪我を怖がっていては何もできない。だって怪我はすぐに治る。だから、無意識に自分の命を軽く扱っていたというのか。心当たりが、ないわけではない。

「ま、なんでもいいけどよ」

 がしがしと頭を撫でられる。

「千鶴ちゃんが悲しむようなことだけはするんじゃねえぞ」

 永倉は隊士たちの稽古の方に歩いて行った。その背を見送り、は別方向に駆け出した。

「千鶴!」
「はい!」

 勝手場の戸を開けて叫ぶと、お玉を持っていた千鶴はびくりとして声をあげた。

ちゃん……? どうしたの?」

 千鶴の手にあるお玉を取り上げ、脇に置いて、は向き直る。

「約束し直そう」
「え?」

 そう言って小指を差し出す。

「おれは千鶴を守る」

 千鶴が何か言いたそうにしたが、でも、と続ける。

「千鶴を悲しませない方法で、守ろうと思う」
「え……」
「命は捨てないって、約束する」

 千鶴がの小指に自身の小指を絡ませた。

「……うん、ありがとう」

 千鶴がにこりと笑い、も笑みを浮かべた。まだどうすればいいのかわからないけれど、今はただ決意を表明しに来た。千鶴に自分の命を背負わせるのは酷だと思ったから。千鶴を守る、でも千鶴のためには死なない。ただ、それだけでも約束をしようと思った。自分自身の価値については、まだ答えは見えない。

ちゃん。私からひとつ、お願いしてもいい?」
「お願い?」

 絡ませていた小指を離して、千鶴が言う。

「私以外にも、何か守りたいものを見つけて欲しいなって思うの」

 が眉を寄せた。

「千鶴以外に? それはちょっと……そんなには守れないっていうか……」

 困ったように頭を掻くに、千鶴は首を振る。

「なんでもいいの。人じゃなくていい。何か守りたい気持ちとか、見つけてほしい」
「気持ち……?」

 は少し考える。人や物でなければ、何か見つけられるだろうか。

「考えてみる」
「うん」

 ありがとう、と千鶴はまた微笑んだ。