は沖田との稽古以外に隊士たちの稽古も一番組が参加するときには混じっているが、隊士が増えて、必然的にが敵わない隊士が増えた。それからもは沖田との稽古を続け、だんだんと勝てなかった隊士たちにも勝てるようになってきた。でも、沖田や伊庭には及ばない。何か、『覚悟』が必要なのだと。
「さん」
声をかけられて振り返る。自分より少し年上のようだ。ここ数ヶ月で入隊してきた隊士だと記憶しているが、名前は知らない。
「なに?」
「あの、稽古に付き合っていただけませんか?」
は首を傾げる。
「おれでいいの? 幹部とかもっと強い人いるじゃん」
「いえ、そんな! 幹部の方のお手を煩わせてしまうわけにはいかないじゃないですか……!」
隊士が両手を振って慌てる。だが、の知る限り、稽古を申し込んで断るような幹部は、少なくともいつも仲良くしている彼らの中にはいない。
「大丈夫だって。おれ、これから総司さんの稽古だし、一緒に行こう」
「お、沖田さんの稽古ですか!?」
動揺する隊士の腕を引いて、はいつもの中庭へと向かう。
「で、名前なんだっけ?」
「柴田といいます……」
柴田を連れて中庭に向かうと、既に沖田はそこにいた。沖田はが見知らぬ隊士を連れて来たのを見て、首を傾げた。
「総司さん、柴田さんが稽古つけて欲しいんだって」
「僕の稽古?」
「いえ! 俺はさんに頼んだんですけど! さんがその、沖田さんの稽古が良いのではと……」
「だって、おれ稽古つけるような腕じゃないし」
ねえ? と沖田に話を振る。
「ふうん。まあ、いいけど」
そう言って沖田はにやにやと笑った。
「僕の稽古は厳しいからなあ。嫌になって脱走でもされたら困るんだけど」
「ひえ……」
「男だろ! がつんと行け! 当たって砕けろ!」
が柴田の背をばしんと叩いた。
稽古が始まった。沖田の稽古は静かだ。お願いします、以外掛け声もない。ただ打ち合う音と、痛みに呻く声しかない。
然程経たぬうちに、柴田はもう無理だと言って膝をついた。沖田が呆れて息を吐く。
「全然駄目。やる気ある? 素振りからやり直した方がいいんじゃない?」
「容赦ねえなあ」
木陰の椅子に座って見ていたが言う。いつも自分の稽古もこうやって見えているのか、と発見があった。
「手は抜かないことにしてるからね。次、ちゃん」
「休憩しなくて大丈夫か?」
「疲れてないからいいよ」
「よっしゃ、今日こそ一本取る!」
椅子から元気よく立ち上がると、は沖田に向かって構えた。
そうして打ち合うこと一刻程。途中で柴田とも交代して、何度か繰り返し打ち込んだ。
日が暮れてきた頃、そろそろ夕飯の時間だということで終了になった。
「今日はここまでかな」
「くそー! ありがとうございました!」
「ありがとう、ございました……」
結局また一本も取れなかったが叫び、柴田がへろへろと座り込んだ。
「おい、柴田さん。大丈夫か?」
沖田が先に屋内へと戻っていき、残されたが柴田に問う。
「どうしてさんそんなに元気なんですか……体痛くないんですか? あんなにぶちのめされて……」
「え? 痛いよ?」
泣きそうな柴田の言葉に、はきょとんとして返す。
「それよりも、いつまで経っても強くなれない自分の方が嫌だから」
沖田にこの剣は届かない。『覚悟』というのも何かわからない。だから、まだ我武者羅に打ち合いをするしかできることがない。
「さん、もう十分強いじゃないですか……隊士たちだって噂してますよ、あいつは強いって」
「あ、そうなの? 最近は絡んで来る隊士もいなくなったと思ってたんだよな」
「絡まれてたんですか?」
「囲まれて木刀で殴られたりしてたけど」
「ひえ、それ切腹じゃないですか!」
「幹部たちに話してないから、ばれてないんじゃないかな」
土方が「二度目はない」と言った後も、何度かあった。言葉で罵られたり、木刀で殴られたり。全部伊東派が入って来てからだ。本当は幹部たちにばれているのかもしれないが、特に罰した話は聞いていないし、自分を殴って来た彼らの腹はまだくっついたままだし、羅刹になった話も聞かない。
「おれが弱いのがいけないんだ。絡む気もなくすくらい、強くならなきゃいけない」
これだけはずっとぶれない。自分は、強くならなければならない。そして、いつか沖田たちに並び立つ。今の自分の実力では荷物にしかならない。実戦で使える強さになるには程遠い。
「……どうしてそこまで向上心が続くんですか? 俺なんて、ちょっと腕が立つと思って入隊したのに、周り強い人ばかりで心折れてるんですけど」
柴田が落ち込んだ様子で言った。
「なら、強くなればいい」
柴田の前にしゃがみこんでが言う。
「我武者羅に稽古して、力つけて、周りの奴らが驚くくらい強くなればいい」
「簡単に言いますけど……」
「簡単じゃないのはわかってるよ」
そう言って、は立ち上がる。月の昇り始めた空を見上げた。
「でも、やるんだ。おれは」
まだまだ、遠い未来の話かもしれないけれど。彼らに追いつくと決めたから。
「……強いな、さんは」
柴田がぽつりと呟いた。
それから、は沖田との稽古に柴田を誘うようになった。まだまだ打ち込み方は全然なっていないし、沖田に木刀で叩かれてばかりだが、も彼も強くなりたいと思うならこれが最善で近道だと思った。
そんな日々がしばらく続いた、ある日のこと。
「あ、」
沖田との稽古が終わり、柴田とも別れてしばらく経った頃に、見慣れた隊士たちが声をかけてくる。古くからいる隊士たちだったため、呼び出しというわけではなさそうだ。
「どうした?」
「柴田見なかったか?」
問われたのは予想外の人物の名。
「柴田さん? さっき一緒に稽古したけど、その後は見てない」
首を傾げて答えると、その隊士は顔を顰めた。
「稽古って、もしかして沖田組長の?」
「うん、そうだけど」
隊士たちが顔を見合わせる。そして、言いにくそうに口を開いた。
「おまえ、沖田組長の稽古に柴田誘うのやめた方がいいよ」
「なんで?」
意味がわからず問いかける。だって、と隊士は言う。
「沖田組長の稽古はみんな嫌がってるから……柴田も毎日辛いって泣いてるぞ」
「え?」
は目を瞠る。嫌だなんて、一度も聞いたことがない。泣き言は毎日言っているが、誘って断られたこともない。沖田の稽古は絶対に自分の為になるからと、はそう信じていた。
「おい、柴田がいなくなった!」
別の隊士が走って来る。ぎょっとして振り返る。
「脱走したのか!?」
脱走は局中法度で禁じられており、切腹させられる。あるいは――羅刹にさせられる。
「俺、永倉組長に――」
「ちょっと待て!」
が言葉を遮った。
「柴田さんが行きそうなところに心当たりないか!?」
まだそう遠くには行っていないはず、と言われては一人で屯所を飛び出した。京の地理には詳しくない。巡察で回るところがわかる程度で、あとはわらべ歌で知っているだけ。夜も近づいていて、暗くなってからでは一人で帰るのも難しいかもしれない。
それでも、自分のせいだった。彼が悩んでいることに気が付かなかった自分のせいだった。自分のせいで、人が死ぬかもしれなかった。
西本願寺を出て大通りへと出る。暗くなりつつある周囲を見ながら、とにかく走った。歩いている人はまばらだ。絶対に見つける。
そして鴨川沿いを走る。そして四条大橋の近くで、対岸の河川敷に捜し人を見つけた。
「柴田さん!」
大声で叫ぶと、向こうもこちらに気付いたようだった。橋を渡って脇の小道を駆け下り、柴田の元へ向かう。柴田は膝を抱えて、川を見ていたようだった。
「さん、どうしてここが……」
「ばかやろ、めっちゃ捜しただろうが……」
動悸が激しい。走ったからだけではない。
「さあ、帰ろう」
そう言って手を差し伸べる。柴田はその手を見て、また川に目を戻した。
「……帰ったら切腹です」
柴田が言う。
「俺は逃げたんです」
「ちょっと屯所から離れただけじゃんか。おれが一緒に怒られてやるからさ」
肩に触れると、それを勢いよく払われた。
「嫌だ!」
明確な拒絶。そして柴田は頭を抱えた。
「もう嫌なんだ! 毎日辛いししんどいし、いくら稽古したって強くなれるわけじゃない! 朝から晩までぶちのめされて、体は痛いし、心ももうとっくに折れました!」
それはなぜか自分が否定されているように聞こえて、心に刃物が刺さったような感覚があった。
「俺は新選組隊士に向いてなかったんです。来るんじゃなかった、こんなところ……」
柴田は泣いていた。毎日沖田の稽古が辛くて泣いていると、隊士たちが言っていた。
「稽古、どうして嫌だって言ってくれなかったんだ。総司さんとの稽古、やりたくないならおれに言えばよかっただろ」
柴田は首を振った。
「……言えません。さんは、毎日沖田さんとの稽古を楽しみにしているみたいだったから」
そう言うと、柴田は泣き顔をに向けた。
「さん、あなたと俺は違う」
泣きながら、柴田は笑う。
「あなたはきっと強い武士になる。でも、俺は駄目です。腰抜けなんだ」
武士になろうとしているわけじゃないけれど。そんな否定の言葉も出てこなくて。
「……とにかく帰ろう。みんな心配してるから」
もう一度手を差し伸べる。しばし悩んで、柴田はその手を取った。
手を繋いで無言で帰る。元来た大通りを通って、西本願寺に帰って来たのは日がとうに暮れてからだった。屯所の前に誰か居ると気が付くと同時に、二人が駆けて来る。永倉と沖田だった。
「!」
「ちゃん!」
沖田に両肩を掴まれる。
「一人で勝手にいなくなって、自分が何をしたかわかってるの?」
「わかってる」
彼は怒っていた。そりゃ怒るだろうな、とは思った。も千鶴も、一人で外に出ることを許されていない。
「さんを怒らないでください。俺のせいなんです」
繋いだままの手がぎゅっと握られる。
「すみませんでした」
柴田が頭を深く下げた。永倉が息を吐くと、の頭をがしがしと撫でた。
「うちの組の奴が悪かった。捜してくれてありがとな」
永倉はから頭を下げたままの柴田の方を向いた。
「おまえの処分については後で知らせる」
「……はい」
柴田の手が離れる。……それが、今生の別れのような気がして、は離れた手を追うようにして手を伸ばしたが、やがて諦めて手を下ろした。
「柴田さん、切腹になるのか?」
問いかける。
「脱走は隊規違反だ。切腹か、それとも――」
薬を飲むか。
永倉の言葉を理解し、は俯いた。
「……おれのせいだ」
「なんでだよ、おまえは関係ないだろ」
励ますように永倉が言う。対して、沖田は息を吐いた。
「まあ、君が余計なことをしなきゃ、彼ももう少し長生きできたかもね」
「おい、総司!」
永倉が諫める。沖田は言葉を続けた。
「ちゃん。ここにはいろんな人がいる。みんながみんな、君みたいにやる気があって、強くなりたいと思ってるわけじゃない」
皆が強くありたいと、そう思っていると勘違いしていた? じゃあ、一体皆は何のために新選組に入ったんだ? 京の治安を守りたくて、そのために腕を振るいたくて入ったんじゃないのか?
「余計なこと、だったのか……」
自分がやったのはただの押し付けでしかなかった。その事実に愕然とする。
「そして僕たちに何も言わずに外に出て、みんなに心配をかけたのも余計なことだよ」
「……ごめんなさい」
は唇を噛んだ。
に対する罰はなかった。ただし、もう一度同じことをするのは許されないと念を押された。
そして、柴田が死んだと聞かされたのは、翌日の夕刻のことだった。
「彼、柴田君だっけ。薬を飲むより切腹を選んだよ。もう新選組のためには尽くせない、って」
は中庭の椅子に座って俯いていた。
「いつまでへこんでるの」
沖田の呆れた声が降って来る。
「おれが殺したんだ」
「そうやって、死んでいった人全員に対して罪の意識感じて生きていくつもり?」
「だって――」
顔を上げると、沖田は呆れを通り越し、惨めなものを見ているような視線を向けていた。
「もし君を殺そうとする敵がいたら、そいつも生かして帰すつもりだった? 優しいんだね」
軽蔑するような笑み。違う、という言葉が喉に引っかかって出てこなかった。敵と今回の柴田の件は違うと、その言葉が出てこなかった。自分は千鶴を守るために強くなりたくて、千鶴の敵はすべて殺してしまいたくて、そのために今日まで稽古をしていたはずで……決して、仲間を見殺しにするために今までやってきたわけではないはずなのに。もしも、柴田が千鶴に危害を加えようとしたときに、殺せるのかと考えたら、よくわからなかった。
「君に足りない覚悟、教えてあげようか」
沖田が言う。
「他者を殺してでも生き残る覚悟」
沖田は腕を組んで続ける。
「君の『守る』とか『殺す』とかって口だけだよね。本当にその覚悟ある? 何をしてでも守り、殺す覚悟。君にある?」
「……」
答えられなかった。
「しばらく稽古は休みにしようか」
沖田が離れていく。
「覚悟ができたら、またおいで」
は、その場から動けずにいた。