沖田の部屋をなんとか掃除して、二人で廊下に出ると前方からも二人組が歩いてくるのが目に入った。沖田が小さく「うわ」と言ったのが聞こえた。

ちゃん、沖田君、こんにちは」

 伊庭だった。千鶴と一緒に近付いてくる。

「伊庭君、また来たんだ。奥詰って暇なんだね」
「暇ではありません。仕事です。京に来る用事があったので、皆さんにご挨拶にと」

 そして、伊庭はにこりと笑う。

「それから、折角京に来たので、千鶴ちゃんにお土産選びを手伝っていただこうと思いまして」
「千鶴に?」

 が首を傾げる。あっ、と伊庭が声をあげる。

「違うんですよ、ちゃん。母と妹に渡すお土産なんですけど、千鶴ちゃんの方がいろいろと詳しいかと思いまして……!」
「君、もう何も言わない方がいいと思うよ」

 沖田が呆れ顔で言った。そして微笑む。

「じゃあ、僕たちもついて行こうか」
「えっ」

 伊庭がぎょっとした。千鶴とが首を傾げる。

「私は構いませんけど……」
「おれも暇だからいいけど」
「決まりだね。それとも何? 伊庭君は千鶴ちゃんと二人きりで出掛けたかったのかな?」
「……そんな、ことは……」

 伊庭は苦渋の決断をするかのように言葉を絞り出した。

「……わかりました、行きましょう」

 そして、伊庭はようやくにこりと笑みを浮かべたのだった。
 秋の京は行楽客で賑わっていた。遠くに見える山も綺麗に色づいているのが見える。

「江戸の状況は今、どんな感じなんですか?」

 先を歩く伊庭と千鶴の背を見ながら、と沖田が歩く。沖田がこの位置がいい、と言ったのだ。にはよくわからなかった。

「あなたたちが江戸を離れたのは、二年ほど前でしたよね? その頃と比べると……そう大きく変わってはいないと思いますけど」

 伊庭は一度言葉を区切った。

「ただ、やっぱり昔に比べると、西洋人を見かける機会が増えたかもしれません。あとは江戸の周辺に西洋人の造った建物もできました。二人から見ると、町の様子もだいぶ様変わりしてしまったかもしれません」

 ふうん、とが声を漏らす。以前江戸に行っていた藤堂が、町も人も変わった気がすると言っていたのはそういうことだろうか。

「そして、幕府でもいろいろと変わってきています。新設された陸軍部隊では、刀ではなく銃や大砲で戦う部隊で、仏蘭西から指揮官を呼び寄せて、部隊の演習を始めているんですよ。それに幕府でも黒船を購入しましたし……」
「伊庭君、江戸の話をしてたんじゃないの?」

 沖田が口を挟んだ。はっとして伊庭が千鶴とに目を向けた。

「す、すみません! ええと、江戸の話ですよね……」
「いえ、大丈夫です。伊庭さんにも事情があることはわかっているつもりですから」

 千鶴がそう言ったあたりで大通りへと辿り着き、話は終わりになった。

「それで八兄、土産はどんなの買うんだ?」

 が問いかける。伊庭が力なく首を振った。

「それが、まったくわからなくて……男はつい、着物や帯、かんざしなどを思い浮かべてしまうのですが、きっとそれぞれ好みがあるでしょうし、趣味に合わない物を贈られても困るでしょうから」
「着物や帯だと仕立ててもらうのに時間がかかりますしね」

 千鶴が頷いた。

「できれば、日頃使える物で、女性が喜びそうな物がいいんですが。そういった物で、あなたたちのおすすめの土産物は何がありますか?」

 伊庭が千鶴に問う。

「そうですね……着物とかかんざしとか、高価な物はわからないんですけど……」
「やっぱ小間物じゃないか?」

 千鶴が考えている間に、が千鶴を見て言った。

「裁縫道具とか、ちりめんの小物とか」
「あ、そうだね。紙バサミとかもいいかも。京には可愛い小間物を売る店がたくさんあるし、そういうのが好きだったらきっと喜んでくれるよね」

 と千鶴があれがいいとかこれがいいとか言っているのを見て、伊庭はぽかんと口を開けていた。

「なんて顔してるの、伊庭君」
「いえ、ちょっと意外だったというか……」

 二人が伊庭を見る。

「というわけで……伊庭さん?」
「あ、はい。小間物良さそうですね。あなたたちに相談してよかった」

 伊庭が慌ててそう言った。

「ではまず、三条のみすや針を見に行ってみましょうか。確か京の名物らしいですから」
「一条戻り橋、二条の薬屋、三条みすや針、四条芝居」

 が歩きながら歌い出す。くすりと笑って、千鶴が続く。
「五条の橋弁慶、六条の本願寺」
「七条停車場、八条のおいも掘り」
「九条羅生門に、東寺の塔」

 顔を見合わせて二人が笑い、それを見て沖田も笑う。伊庭だけがなんの歌かわかっていなかった。それに気が付いて、千鶴が説明をした。

「京の町は碁盤の目のようになっていて道を覚えにくいから、子供たちはこの歌で覚えるんですって」
「へえ、面白いですね。二条というと、家茂公が上洛した時に使われた二条城の近くですね」
「そうなんです。私も最初の頃は覚えるのが大変で」
「歌だと覚えやすくていいよな」

 は上機嫌なのか、次の歌を歌い始めた。

「まるたけえびすに、おしおいけ、あねさんろっかく、たこにしき」

 話している間に三条に到着する。みすや針に寄ってから、様々な小間物屋を見て回った。ほとんどと千鶴が選んだもので、伊庭は「いいですね」「それも買いましょう」と言って財布の紐を緩めていた。
 そうしているうちに日が暮れた。荷物はと千鶴が二つに分けて持っていた。

「あの……いいんですか? 荷物なら、僕が持ちますよ」
「いいえ、重くありませんから平気です。といいますか、今の私は小姓ですから、荷物を持っていないと駄目なんです」
「ですけど……」
「それに、二本差しの伊庭さんが自分で荷物を持っているのは変ですし」
「どう見ても一本差しのおれたちが従者だもんな」

 二人ともまったく気にしていないようだった。伊庭だけが少し落ち込んでいる。

「本当にすみません……まさか、こんなことになるとは思っていなくて」

 けほけほ、と咳が聞こえて、は振り返る。少し遅れて歩いていた沖田が口元を押さえている。が駆け寄った。

「総司さん」
「大丈夫」

 手を伸ばそうとしたを断って、沖田はなんでもないように歩き出す。はそれを心配そうに見ながら、隣に並ぶ。沖田の病は確実に進行している。今日、外に出て来たのも間違いだったのではないかと思う。でも、何も知らないと嘘をつくと決めたのは沖田だ。黙っていると約束したのは自分だ。だから、いつも通りの日常を送るしかできることはないのだ――沖田が血を吐いて動けなくなるその日まで。
 屯所に戻って来ると、井上が待っていた。

「やあ、無事に戻って来たね。総司と君も一緒だったのかい」
「もしかしたら思い余って、彼女をどこかに連れて行っちゃうんじゃないかって思ってね。見張りのためだよ」
「何を言うんですか、沖田君。そんな悪い冗談はやめてください」

 伊庭が怒ったように言う。沖田が肩を竦めた。

「ところで伊庭君、この後何か予定はあるのかい?」

 井上がそう話を切り出した。

「宿に戻ろうと思っていますが」
「せっかくだから、夕飯を食べていったらどうだい?」
「ですが、そこまでお世話になるのは……」

 伊庭が言葉を濁す。

「帰りたいっていうんだから、無理に引き留めなくてもいいんじゃないですかー」

 沖田が投げやりに言う。

「そうか……残念だけど、仕方ないね」

 井上はそう言うと、千鶴に目を向けた。

「雪村君、帰って来たばかりなのに悪いが、夕飯の支度を手伝ってきてくれるかい?」
「はい、わかりました。では、伊庭さん。今日は――」
「あの、ちょっと待ってください」

 千鶴が頭を下げようとしたところで、伊庭が鋭く言った。

「もしかして、今日の夕飯は千鶴ちゃんが作るんでしょうか?」
「そうだよ。というか、僕らのご飯は基本的にこの子のだけど。残念だったね。今日はもう帰って――」
「でしたらぜひ、ご相伴に与らせていただきます!」

 今度は沖田の言葉を遮って、伊庭が元気よく言った。沖田が眉を寄せる。

「……伊庭君。なんだか、嬉しそうだけど。そんなにこの子の手料理が食べたかったんだ?」
「ええ、もちろんです」

 伊庭がにこりと笑みを浮かべた。

「千鶴ちゃん、手料理楽しみにしてますね」
「えっと、あの……はい、ご飯作り頑張りますね」
「伊庭君、もういいから帰りなよ」
「いえ、帰りません。井上さんからのお誘いは断れませんから」
「僕は呼んでないんだけど。ねえ、ちゃん」
「え?」

 突然話を振られては目を丸くする。なぜ自分に振るんだ。

「千鶴ちゃん、今日の夕飯は思いっきり手抜きしてもいいからね。それか、他の隊士に全部作らせちゃって」
「沖田君、余計なことは言わなくてもいいですよ。そもそも彼女が、客人に手抜き料理を出すはずがないでしょう。ね? 千鶴ちゃん」
「は、はあ……」

 もようやく勘付いて来た。そもそも出掛ける時に千鶴と二人で行きたかったのも、千鶴の作る夕食を食べたいのも、つまりただの幼馴染ではなく、そういうこと?
 勝手場へと向かった千鶴を見送り、未だに沖田と睨み合っている伊庭の肩にが手を乗せた。

ちゃん?」
「八兄、あのさあ」

 が真顔で伊庭を見上げて口を開く。

「千鶴と付き合いたかったらおれを倒してからにしろよ」
「え?」

 沖田が噴き出した。伊庭はぽかんと口を半開きにしてから、ぱっと顔を赤くした。

「な、何を言ってるんですか、ちゃん! そういうのではなく、僕は幼馴染として――」
「でも、同じ幼馴染でも、おれじゃなくて千鶴がいいんだよな?」
「で、ですから……!」
「ああ、思い出した。小さい頃も千鶴に言ってたもんなあ、君は僕が守――」
ちゃん!」

 口を押えられる。沖田は腹を抱えて笑っていた。伊庭が恨めしそうに沖田を睨みつける。手を剥がし、あははと笑ってもその場を後にする。――そして笑みを消した。
 千鶴と付き合うのは、せめて自分より強い人物。自分に負けるような男は駄目だ。千鶴を守る気概のない男なんてもっと駄目だ。千鶴のためにすべてを、命すら差し出せるような、そんな人間じゃないと駄目だ。はそう考えている。別に千鶴と伊庭が付き合おうが、自分がどうこう言える立場ではない、と思う。ただ、もやもやする。自分を戦えないとそう決めつけている男に、千鶴を取られるのが嫌だ。女は守られるべきだと、そう言う男に自分が負けるのが嫌だ。負けたくない。負けたくない。剣術も、千鶴のことも、誰にも一歩も負けたくない。

「強くなりたいな……」

 剣術も、心も、もっと強くならなければならない。――自分には、それしかないのだから。