慶応元年十月。西本願寺に屯所を移転してから半年、大きな事件がほとんどなくなり、新選組にも余裕が出て来た秋の頃合い。
 十一月に近藤が長州に出張に行くことになった。幕府側の永井の従者として、長州の様子を視察するというのだ。この働き次第で幕府側の覚えがめでたくなるだろうという伊東や武田たちに反して、土方や永倉たちは危険だから行かない方が良いと言っている。会議は難航しているようだという話はも聞いていたが――

「ちょっと、何を怖がってるのさ。そんなへっぴり腰で、不逞浪士とまともに戦えると思ってるの?」

 苛立った声と剣戟の音を横で見ながら、は溜め息をついた。

「総司さん、機嫌悪ぃなあ……」

 沖田は近藤の出張が近付くにつれ、日に日に機嫌が悪くなっていた。刃引きした刀での稽古も、本当に殺しかねない勢いで乱暴に振るっている。

「ほら、どこを見てるの? 受けるだけじゃ駄目だってば! ちゃんと相手の動きを読まないと。天然理心流の稽古はこんなに甘くないからね!」

 ううん、と唸りながら見ていると、の隣に近藤がやってきた。

君、総司のあの稽古どう思うかね」
「どうと言われても……機嫌最悪って感じじゃないですか?」
「だなあ……」

 はあ、と二人が溜め息を重ねる。

「よし、今日はここまで。僕に色々言われた人は、夕食後に素振り百回しておくようにね。もしやらなかったら、次の稽古ではもっとしごかれると思っておいて」

 冷たく言い放ち、今日の稽古は終わったようだ。近藤が近付く。

「なあ、総司。気持ちはわかるが、もう少し手加減してやってはどうかな?」
「十分手加減してるつもりですけど? 試衛館時代の稽古はもっと厳しかったですよね。それに、不逞浪士と斬り合いしてる時、手加減なんてしてくれます?」
「ううむ……確かにその通りだが……」

 近藤に笑みも向けずに、沖田は淡々と返す。その様子に近藤も返す言葉がないようだった。

ちゃん、次は君の稽古だよ」
「えっ、は、はい! お願いします!」

 びくりと肩を揺らして、は木刀を持って走り出す。
 夜。布団の上に寝転がって、は天井を見つめていた。

ちゃん、どうかしたの? 考え事?」

 隣に布団を敷いて、千鶴が問いかけた。

「総司さんがさ、近藤さんの長州行き納得してないみたいなんだよな」
「ああ、うん……話し合いの時も言ってたよ、納得してないって」

 千鶴が頷きながら言う。はあ、と何度目かわからない溜め息をつく。

「総司さんも連れて行ってやればいいのになあ。そしたら機嫌も直るのに」
「沖田さんまで行っちゃったら、新選組の方が大変になっちゃうんじゃないかな……」
「だよなあ」

 きっと沖田もわかっている。近藤について行きたい反面、自分も行っては新選組が立ち行かなくなること。それでも、近藤が心配で仕方がないのだ。江戸に帰るだけならこんなに心配もしないのに、行先が敵地と言っても過言ではない長州だ。心配するなと言う方が無理な話だろう。

「近藤さんに、万が一のことがあったらどうなるんだろうな」

 がぽつりと言った。

「どうって……」
「新選組のこととか、天然理心流のこととか」
「万が一のことあったら、天然理心流は沖田さんが後を継ぐことになるって井上さんが仰っていたけど」

 が千鶴に目を向ける。

「素直に継ぐと思うか?」
「思わないけど……」

 言いにくそうにしながらも、千鶴ははっきりと答えた。沖田総司がそういう人間だということは、皆が知っている。

「近藤さんは無事に帰って来るよ、必ず」
「……そうだな」

 千鶴から視線を逸らし、また天井に目を戻す。自分が何か言えるわけでもないし、今は近藤が無事に帰って来ることを祈ることしかできないのだ。

「そういえば、近藤さんは沖田さんに長州行きを納得してもらう案があるみたい」

 千鶴が思い出したように言った。

「案?」
「いいことを思いついたって仰ってたけど……何かは聞いてないから……」
「ふうん……」

 そして翌日。沖田との稽古の時間、は沖田を見るなり首を傾げた。機嫌が直っている。近藤の長州行きに納得したのだろうか。昨日、千鶴から近藤が何か思いついたようだったとは聞いていたが。

「ねえ、君、近藤さんと何か話した?」

 休憩中、沖田がに問いかけた。

「いや……? 千鶴は何か話したって言ってたけど」
「そう、千鶴ちゃんか……」

 理解したように沖田が呟く。

「近藤さんと話したのか?」

 問いかけると、沖田は困ったように笑みを浮かべた。

「うん、話したよ。話をするまでは、無理矢理にでも長州行きをやめさせるつもりだったんだけど……あんなことを言われちゃったらなあ……」
「あんなこと?」
「内緒」

 詳しい話はしてくれないらしい。そう、と言っては話を終えることにした。

君」

 稽古を終えて廊下を歩いていると、山崎に声をかけられた。立ち止まって山崎が追いつくのを待つ。

「おれに何か用?」
「ああ、長州に行く前に、君にしか頼めないことがあってな」

 そういえば、山崎も長州行きに同行するのだったと思い出す。だが、自分にしか頼めないこととは何だろう。監察の仕事だろうか。山崎の部屋に連れて来られ、周囲に誰もいないことを確認して襖をぴたりと閉めると、山崎はに向き合った。

「俺がいない間、沖田さんの部屋の掃除を頼みたい」
「……は?」

 予想とは違う頼み事をされて、は思わず声を裏返らせた。沖田の部屋の掃除?

「え? 今までは山崎さんが総司さんの部屋の掃除をしてたってこと……?」

 この二人は折り合いが合わないのか、あまり仲が良くなかったと記憶している。沖田が山崎に言いつけている? そんなこと山崎が承諾するはずもなさそうだが。

「待ってくれ、君は何か勘違いをしている」

 山崎が慌てて言った。

「俺は、松本良順先生に頼まれてやっているだけなんだ」
「松本先生に?」

 山崎は再び外に人の気配がないことを確認してから、声を落としてこう言った。

「君も薄々気付いていることと思うが……沖田さんは何か病を患っている」

 心臓が跳ねた。

「病……?」
「ああ。見当はついているんだが、松本先生も口止めされているのか教えてはくれなくてな。……もしかして、君は沖田さん自身から聞いているだろうか」

 山崎が射貫くような目でを見る。は視線を落とした。

「知らない。何かの病だろうっていうのはおれだってわかってるけど……何も聞いてない」

 そう言うのが最善だと思った。沖田と約束した。病のことは、誰にも話さないと。

「そうか……」

 山崎が納得しがたい声で呟いた。

「それでなんで掃除なんだ? その病と関係あるってこと?」

 これ以上追及されては困ると、は元の話題に戻すことにした。山崎が頷く。

「ああ。その病は、空気のきれいなところで静養すれば、病状を和らげられるらしいんだ。だが、沖田さん自身に埃が立つことをさせるわけにはいかないし、かといって他人に部屋を掃除されるのも嫌らしくてな……」

 確かに、肺の病だから埃っぽい部屋よりも綺麗な部屋の方が良いだろうとも理解した。沖田が他人に部屋を見られたくないというのも知っている。

「そこで、沖田さんと仲の良い君ならば、万が一見つかったとしても少し怒られる程度で済むのではないかと思ったんだ」
「怒られはするんだな……まあ、いいけど」

 確かに、他の隊士たちがやるよりは、自分の方がまだ多少怒られるくらいで殺されるまではいかないと思う。その後の仲がこじれる可能性はあるが、まあなんとかなるだろう。

「医療面のことは雪村君に頼んだし、これで俺がいない間も安心できる」

 山崎が笑っての肩を叩いた。

「沖田さんは新選組になくてはならない存在だ。君の掃除にすべてがかかっている。頼んだぞ」
「掃除に……すべてが……」

 なんて重い掃除なんだ。喉元まで出かかった言葉は飲みこんで、は頷いた。
 そして十一月四日。近藤たちが西へと旅立つ日がやってきた。気を付けて行ってきてくれと皆が口々に言う。も無事に帰って来ますようにと願った。
 沖田の予定は大体把握していた。巡察当番の日、稽古の日、非番の日。巡察は一緒に行くことが多いし、非番の日はいつ戻って来るかわからないので除外し、隊士たちに稽古をつけている間に急いで掃除をすることにした。――だが、その目論見は初日に終わった。

「どういうことかな、ちゃん」

 は壁際に追い込まれ、逃げられないように壁に手をついた沖田と向き合っていた。
 誰にも見つからないように沖田の部屋に入ったまではよかった。整頓されている沖田の部屋のどこから手をつけようかと思いながら、とりあえずはたきで埃を落としていると、いきなり襖がガラリと開いたのだ。そこには満面の笑みの沖田の姿。そして現在に至る。

「君の考えじゃないよね。誰の差し金? 土方さん?」

 隠しても仕方がない。は溜め息をついて、本当のことを話すことにした。

「松本先生に頼まれた山崎さんからの指示だよ」
「山崎君?」
「部屋を清潔にした方が病状が和らぐから、代わりに掃除してくれって……あ、でも松本先生は何の病気かははっきりと山崎さんにも言ってないみたいだったから!」
「ふうん……その様子だと、今までも山崎君が僕の部屋を勝手に掃除してたみたいだね」
「……それは……たぶんそう」

 沖田が息を吐いてを解放する。

「掃除くらい自分でやるから、君がやらなくてもいいよ」

 そう言われるだろうとわかっていた。ここで引くわけにはいかない。がぐいと沖田の胸倉を掴み、顔を近づけた。

「おれは、一日でも長くあんたに生きて欲しい」

 沖田が目を丸くする。

「掃除するだけで少しでも呼吸しやすくなるならおれがやる。自分で掃除して埃が立って、あんたが咳をするなら意味がないんだ」
「……」
「見られたくない物を見たりしない。だから、おれに掃除させてくれ」

 目と目を合わせる。先に逸らしたのは沖田だった。すっと指を部屋の片隅に向けた。

「その桐箱。あれは触ったり動かしたりしないで」

 長い桐箱だ。刀でも入っているのだろうかと思う。

「わかった!」
「あと手紙とか出て来ても絶対読まないで」
「よ、読まねえよ!」

 こうして、定期的に沖田の部屋を掃除する許可を、本人から得ることができたのだった。