沖田が咳をし始めて半年ほどが経った。松本は時々やってきては沖田を診て、「しつこい風邪」だとか「妙な風邪」などと診断をして帰って行く。近藤と土方は怪訝に思いながらも、医者の診断だからとそれを信じているようだったし、沖田も咳をする以外は元気そうなので、特に問題も起こっていなかった頃。
は一番組と稽古をして、壬生寺から屯所に帰る。先に戻っている沖田と、この後いつも通りの稽古だった。
「沖田さん。話があります」
中庭に向かう途中で、千鶴の声が聞こえた。は足を止める。どうやら沖田と一緒にいるようだ。
「沖田さんの咳なんですけど、松本先生は本当に何も仰っていないんですか?」
「何度も言わせないでよ。ただの風邪だって、先生も言ってたでしょ」
沖田が突き放すように言う。千鶴は少し沈黙してから、話を続けた。
「……私、沖田さんのように長く咳を繰り返す人を見たことがあります」
「へえ」
沖田は話を促すこともなく相槌を打つだけだったが、千鶴は続ける。
「最初はその人も風邪だと思って父のところに来ました。でも、その人の咳はどんなに風邪に効く薬を飲んでも、咳を和らげる薬を飲んでも効かない……そうして、やがて血を吐くようになりました」
「だから、僕もそうなるって言いたいの?」
感情の無い声で沖田が問う。間があった。
「……正直に言います。沖田さん。あなたの病は、労咳だと思うんです」
やはり、千鶴も気が付いていた。何もおかしなことはない。千鶴は医者の娘だ。知識だってある。何人も患者に会ってきたのだ。労咳の患者だって過去にいたに違いない。
沖田はしばらく無言だった。土を踏む音が聞こえる。
「千鶴ちゃん、君さ――」
が地面を蹴った。
「総司さん、ちょっと待った!」
沖田と千鶴が向かい合っているところに、が割って入る。驚いているのは千鶴だけ。沖田はがいたことには気付いていたようだった。
「なに? 斬ると思った?」
「……思った」
が千鶴を背に隠して沖田を見上げる。沖田は無表情でと千鶴を見下ろしている。しばらく睨み合って、沖田が息を吐く。
「僕は、他の人にそれを言ったかどうかを聞こうとしたんだよ。下手に触れて回られても困るからね」
それでもは警戒を解かない。たとえ刀に手を添えていなくても、自分が抜くより沖田の方が早い。自分たち二人の首を刎ねるのは一瞬だ。
「あの……ちゃん、もしかして沖田さんの病のこと、知ってるの?」
千鶴が戸惑い気味に問う。沖田が今度は溜め息をついた。
「ちゃんが黙って見てれば誤魔化しようもあったのにね」
「う……」
軽率な行動だったのだと気が付く。自分がこうして割って入るというのは、千鶴の言葉が本当だと言っているようなものだ。
「どうしてよりによって君たちに知られるのかな……間が悪いっていうか、何ていうか……」
沖田が頭を掻く。
「じゃあ、沖田さん、本当に……」
「千鶴ちゃん。ちゃんもだけど」
千鶴の言葉を遮って沖田が二人の名前を呼ぶ。
「もし、誰かに僕が労咳だなんて言ったら――殺すよ」
沖田の刀が音を鳴らした。殺気。と千鶴は、その言葉が冗談ではないと理解する。
「……どうして、ですか?」
千鶴が震える声で問う。
「労咳は死ぬ病気です……血を吐いて、布団から起き上がれなくなります……それでも、沖田さんは新選組に居続けるんですか?」
「そうだよ」
「少しでも長く生きたくないんですか? 空気の綺麗なところで静養すれば――」
「……あのね、千鶴ちゃん」
沖田がを押しのけた。そして千鶴の肩に手を置いた。
「君は余計な気を回さなくていい。僕は病気なんかじゃない。ちゃんの稽古だってつけられるし、近藤さんの役にだって立てる。いいね」
有無を言わせぬ口調の沖田に、千鶴は言葉を失った。千鶴は助けを求めるようにを見る。は無言で頷くだけだった。沖田の病については黙っていると約束した。誰にも言わないと約束をした。それが新選組のためになるとは思わないけれど、沖田のためになるならそれでいいのだとは思う。無言のを見て、沖田が少しだけ笑った。
「千鶴ちゃん。約束、守れるよね?」
沖田が問う。それは、肯定以外の返答は求めていない問いだ。否定すれば、すぐに首が飛ぶ。
「……はい。病のことは、黙っています。誰にも言いません」
千鶴は沖田を見上げる。
「でも、沖田さん。私たちとも約束をしてください。決して、無理だけはしないと。辛い時は休むって、約束してください」
沖田が面食らったように目を丸くした。そして、苦笑する。
「変な子。僕がどうなろうが、君には関係ないじゃない」
「あります!」
千鶴が声をあげる。
「わかったわかった。約束するから大声出さないで」
沖田が千鶴を宥めるように言った。その場しのぎだろうな、とは思う。沖田はいくら辛かろうが、血を吐こうが、きっと動けなくなるまで刀を取る。そういう人だと、知っている。
「じゃあ、このことは僕たちだけの秘密だよ」
沖田が二人に向かって言う。と千鶴は頷いた。
こうして、新選組の本当の隊士でもない二人が、沖田の秘密を共有することになる。秘密を破れば殺される。千鶴が沖田を思って誰かに言わないかどうかが、は心配だった。
「ねえ、ちゃん」
夜。布団にもぐってから千鶴が声をかけてきた。
「本当に、黙ってるのが最善だと思う?」
昼間の話の続きだと気が付いた。やはり本当に黙っていて良いのか悩んでいる。
「最善だよ。少なくとも、あの人にとってはそれ以外にない」
「だって……」
「殺されたいのか?」
が問う。
「……殺されたいわけじゃないけど……沖田さんのことも心配だから」
「心配なのはおれも同じだけどさ」
そう前置きして、は言う。
「譲れないものって、人それぞれなんじゃないかな」
沖田にとって、新選組や近藤がそれだ。自分の命よりも優先すべきもの。絶対に譲れないもの。死ぬまで新選組一番組の沖田総司として刀を取り続けるのが、彼の願いだ。
「……そうだね」
千鶴は納得したように言った。
おやすみ、と言って二人はそれきり無言になる。
その夜、は夢を見た。沖田の咳が止まらない夢。血を吐き続ける夢。それでも戦い続ける夢。自分は、そんな彼の背を追いかけた。追いかけても、追いかけても、追いつけない。沖田は風のように走り抜ける。そうして、彼は風になった。――そんな、夢を見た。