それから屯所の大掃除が始まった。引っ越して来た時に持ってきた箪笥を動かし、誰かの食べ残しの握り飯が現れ、ネズミが現れ、埃が舞いあがる。埃を掃きだして、水で絞った雑巾で床を拭く。病室も用意され、山崎が主にその部屋の管理を任されることになった。
 翌日、掃除の成果を確かめるために、松本が再び屯所を訪れた。

「うん、まあまあ綺麗になったじゃないか」
「だろ? この筋肉は飾りじゃねえって、先生もようやくわかってくれたみてえだな」

 永倉が握り拳を作って言った。

「人を動かすという点に関しては、軍略も掃除もさして変わりませぬゆえ」
「……あんた、文句言ってただけだろうが」

 胸を張る武田を見て原田が呆れて言った。

「でも総司は一日休んでたんだろ? ずるいよなあ、みんな頑張ってる時に」

 藤堂が文句を言うと、沖田が肩を竦めた。

「しょうがないじゃない。土方さんが過保護なんだから」
「おまえが変な咳するからだろうが。養生しねえから、いつまでも治らねえんだよ」

 土方に言われ、沖田は不満げな顔をする。

「しかし、やはりこうして片付いていると気分が良いものです」

 斎藤が笑みを浮かべた。

「まあな。見違えたもんだ。これはこれで悪くねえ」

 土方が同意して頷いた。

「よし、これからは毎日掃除するか」
「おう、頼んだぜ平助!」
「なんでオレだけなんだよ!? 体力自慢の新八っつぁんが真っ先に働くべきだろ?」

 こうしていつものように賑やかな幹部たちの話に笑っていた時。松本が沖田を連れて、出て行くのが見えて、は首を傾げた。なぜ呼び出されたのだろう。一瞬考えて、答えはすぐに出た。あの一向に治まらない咳についてだろう。も輪を離れ、後をつけることにした。
 二人は中庭にいた。話し声が聞こえる、ギリギリの距離をとって身を隠す。

「結論から言おう。……おまえさんの病は労咳だ」

 えっ、と声が出そうになって慌てて口を押えた。でも、どこか納得するところもあった。ただの風邪ではないと、も思っていたからだ。

「なんだ。やっぱりあの有名な死病ですか」
「驚かないのか?」
「そりゃあ、ただの風邪がこんなに長引く筈もないですしね。でも、面と向かって言われるとさすがに困ったなあ。あはははは」
「笑いごとではなかろう」
「これでも困ってるんですけどね」

 沖田はいつもの調子だった。いつもの様子で、死病の宣告を受けている。

「労咳の一番の薬は静養だ。新選組を離れて、精のつく物を食べて、ゆっくり身体を休めなきゃいかん」
「それはできません」

 鋭い声。

「そうせんと、身体は悪くなるばかりだぞ。今はそうやって平気なふりができても、いずれ、布団から起き上がることすらできなくなる」
「じゃあ、その時までここにいますよ。血を吐きながら、それでも刀を取ります」

 ぐさり、ぐさり、とに言葉が突き刺さる。それが、彼の本心からの言葉だとわかっているから。本当に、血を吐くその時まで刀を持つのだろう。

「なぜ、それほどまでここにいたいんだね?」

 松本が怪訝な声で問う。

「僕は、新選組の剣ですから。ここにいることが僕のすべてなんです。新選組の前に立ちふさがる敵を斬る……ただ、それだけなんですよ」

 知っていた。彼が以前話してくれた――自分は新選組の剣だから、近藤と新選組のために戦うのだと。それが、きっと彼の『誠』なのだ。

「……おまえさんの覚悟はわかった。だがな、この病は悪化すると周りの人に迷惑がかかる。それはわかるな? 今後は私の言いつけを守ってもらわねばならんぞ。もし守れんのなら、すぐに近藤さんに言うからな」
「それってまさか、苦い薬とか飲まなきゃならないんですか?」
「当然だろうが。病人なんだからな」
「うわ、困った人に知られちゃったなあ」

 沖田が軽い口調で言う。

「……先生、近藤さんたちには言わないでくださいよ。約束ですからね」

 念押しする。溜め息が聞こえた。

「まあ、どうしても言えないことってのはあるだろうな。……私も、あの子に打ち明けていないことがあるんだ」

 千鶴に? は耳を澄ませる。

「綱道さんが尊攘派の過激浪士連中と行動を共にしてるかもしれん、なんてなあ。とてもじゃないが、伝えられんよ……」

 は息を呑んだ。だが、今まであった目撃情報に、西方の浪士と一緒に桝屋を訪れたというものがあった。もしかすると、彼は幕府に反するつもりで新選組を離れたのではないか?

「世の中ままならないものですね」
「まったくだなあ……。まあ、これからは頻繁に新選組に通って、おまえさんのことを診てやる。だからくれぐれも、無理はせんようにな」
「わかってますよ。お気遣いありがとうございます」

 松本が立ち去る。足音が消える。

ちゃん」

 沖田が呼ぶ。驚きはなかった。彼は気配に聡い。この距離だと気が付くかどうかの境かと思われたが、やはり駄目だったようだ。仕方なく姿を見せる。

「気付いてたのか……って、気付くよなあ、総司さんだもんなあ」
「そうそう、僕だからね」

 椅子に座った状態で、沖田は笑っていた。いつも通りに。

「労咳って、おれでも知ってる。治らない病気なんだろ? 死ぬしかないって……」
「まさか本気にしてるの?」

 遮ったその言葉に、は眉を寄せる。

「は? だって松本先生がそう診断したんだし……」
「千鶴ちゃんって医者の娘だよね? 彼女なら気付くはずでしょ? でも今まで何も言わなかったんだから、これは誤診。はい終わり」
「いや、ちょっと待てって!」

 慌てて会話を続けさせようとする。

「千鶴はただの医者の娘であって医者じゃない! 松本先生が言うならそれは――」
「僕の言葉より松本先生を信じるんだ?」
「……」

 からかうような声に、は言葉を失う。

「信じたくないよ」

 俯いて拳を握る。

「信じたくないけどさ……」

 信じたくないけれど、医者が診断したのだ。いずれ死ぬ、と。
 沈黙が下りる。沖田が短く息を吐いた。

「明日から君のこと、びしばししごくけどいいよね?」
「は?」

 顔を上げると、いつもの沖田の顔。

「あ、安静にしてろって言われたばかりだろ!?」
「だって、強くなりたいんでしょ?」

 続く文句は出てこなかった。真剣な目とかちあう。
 彼は、この期に及んで、自分ではなくのことを考えてくれていた。いずれ来る死を前にして、恐怖を感じる様も落胆する様も微塵も見せずに、残りの時間でを強くすることを考えている。「強くなりたい」と、が沖田に言ったから。

「……うん。強くなりたい」

 素直に答えた。そして、頭を下げる。

「よろしくお願いします!」
「うん。素直でよろしい」

 満足げに笑う。顔を上げて、もつられて笑った。

「あと、ここで話してたことは――」
「言わないよ」
「千鶴ちゃんにも」
「言わない。黙ってる」

 本当にそれが新選組に対する最良の選択なのかどうかはわからない。でも、それくらいしか自分から沖田に返せるものがなかった。

「そう。ありがとう」

 静かに礼を言われ、らしくないな、とそう思った。
 沖田と共に広間に戻ると、どうやら一騒動起きていたらしく幹部が集まっていた。

「はあ!? 風間が来てた!?」

 ぎょっとしてが叫ぶ。

「それで、大丈夫だったのか!? 怪我は!? 怪我人は!?」
「大丈夫。話だけして帰って行ったから……」

 詰め寄ると、落ち着いてと言いながら千鶴が説明した。は眉を寄せる。

「は? 何それ。遊びに来たのかあいつ?」
「だとしたら、俺たちは完全に舐められてるってことだな」

 土方が不機嫌そうに息を吐いた。

、もう一度言うが、おまえの鬼との交戦は認めねえからな」
「……」

「一応わかりましたって言っておきますけど」

 投げやりに言う。そして、土方を睨むように見据えた。

「でも、千鶴が目の前で攫われそうになったら、おれは死んでも止めますよ」

 はっきりと言う。

「千鶴を守れないんじゃ、おれは剣を持ってる意味がない」
ちゃん……」
「失礼します」

 そう言っては広間から立ち去った。廊下をずんずんと歩いていると、後ろから追いかけて来る足音があった。

君」

 声が意外な人物で、は足を止めた。

「近藤さん?」

 首を傾げ、近藤が追いつくのを待つ。

「なんですか?」
「うむ、先程のトシとの話だがな……」

 近藤は言いにくそうに言葉を区切ると、話し出した。

「『死んでも止める』というのは……気持ちはわからんでもないんだが、他に言葉はなかっただろうかと思ってな」
「おれは本気です」
「本気だからこそ心配なんだ」

 近藤が息を吐く。

「君が雪村君を守るために剣術の稽古をしているのも、わかっているつもりだ。だが……親友が自分を守るために死んでしまったら、雪村君が悲しむとは思わんのかね」

 が首を傾げる。

「でも、それがおれの役目なんで」

 千鶴を守る。ただそれだけのために強くなることを望んだ。千鶴を守れなかった自分など想像したくもなかった。

「ふうむ……しかし、雪村君の気持ちは無視してもよいものなのだろうか」
「千鶴の気持ち?」

 さらに首を傾げる。少し考えて、は近藤に問いかける。

「新選組の隊士が死んだら、近藤さんは悲しいですか?」
「もちろんだとも」
「でも、立派だったって言うでしょ?」

 近藤は眉を寄せる。

「ああ。だが、君は――」
「だめですよ、近藤さん。ちゃん、まだ無自覚なんで」

 沖田だった。同じように広間から出て来たらしい。今度はが眉を寄せる番だった。

「おれが何を自覚してないって言うんだよ」
「千鶴ちゃんを縛ってるってこと」
「千鶴を縛ってる? なにそれ、意味わかんないんだけど」
「だろうね」

 沖田は頷くだけだった。

「さ、稽古でもしようか」

 そう言って沖田はの両肩に手を乗せて、背を押すようにして歩き出す。

「おい、総司」

 近藤がその背に声をかける。沖田が振り向いた。

「いずれ伝えます。今はまだ」

 にこりと微笑む。

「だからなに?」
「なんでもないよ」