「……」
は広間の様子を障子戸の隙間から窺っていた。
今、医者が来て健康診断が行われている。上半身を脱いで、一人ずつ診察されている様を見て思う。さて、どうしたものか。
「あ、ちゃん」
廊下を走って千鶴がやってきた。
「千鶴。どうしたんだ、そんなに慌てて」
「松本先生が来てるって聞いて」
「えっ、今来てる医者って松本先生なのか!?」
松本とは、最初に京に来た時に訪ねようとしていた医者だ。健康診断に来ている医者が誰かまでは聞いていなかったはぎょっとする。あの日から一年半。ようやく松本に会う機会が巡って来た。
「ちゃんはここで何を?」
「いや、健康診断に混ざるわけにもいかないし……かといって受けないのもなあと思って、様子を窺ってたところなんだけど……」
なるほど、と千鶴が頷く。二人で隙間から中を覗く。永倉たちが上半身を脱いで騒いでいた。
「二人とも、こんなところでどうかしたのか?」
声をかけられて振り向くと、山崎がこちらに向かって来るところだった。
「あ、山崎さん……あの、松本先生がいらしていると聞いたので」
千鶴が言うと、山崎は少し考えて頷いた。
「ふむ……なるほど。松本先生に何か話があるようだな。君たちのことはある程度聞いている。事情はおおよそわかった」
そして、二人がしていたように隙間から中を覗き見る。
「だが、診察がなかなか終わらないようだ。俺に任せてくれるか?」
「いいんですか? お願いします」
「わかった、少し待っていてくれ」
そう言うと、山崎は障子戸を開けて中へと入って行った。
「松本先生、軽い症状の者なら俺が代わりに診ます。そろそろ休憩してはどうですか」
「ふむ……では、そうさせてもらおうか」
山崎といくつかやりとりをして、松本が廊下へと出て来た。と千鶴が駆け寄った。
「あ、あの……!」
「ん?」
松本がこちらに目を向ける。
「……薬の補充も兼ねて休憩にしようか。君たち、ちょっと手伝ってくれるかね」
「は、はい!」
「わかりました」
二人は頷いて松本について歩き出した。
広間から十分に離れたところまで来ると、千鶴が前に歩み出た。
「あの、松本先生――」
そう声をかけた時だった。
「ほう、さっそく会えたようだな」
近藤がやってきて、笑顔でそう言った。
「はい、お陰様で……感謝しとります」
「え……?」
首を傾げる千鶴の肩に、松本は優しく手を置いた。
「千鶴君。私は君に会うためにここに来たんだよ。綱道さんの娘さんが、ここに身を寄せていると近藤さんが教えてくれたんだ」
「そう、だったんですか……」
「何か綱道さんの手がかりになればと思い、松本先生が京に戻って来てすぐに連絡を取ったんだ」
そう言って、近藤が振り返る。
「その仲立ちをしてくれたのが、伊庭君だったんだ」
その言葉に答えるように、建物の陰から伊庭が現れた。
「こんにちは、千鶴ちゃんにちゃん。できればここには、もっと別の用事で来たかったんですけど」
「げっ、八兄……!」
「げっとはひどいですね。何か君に嫌われるようなことしましたか?」
不思議そうな顔をする伊庭に、は溜め息をつく。昨年再会した時のやりとりを覚えていないのか、それとも彼にとっては気にするほどのことでもなかったというのか。
「ここじゃなんですし、移動しましょう」
近藤の言葉で、移動することになった。千鶴が茶を用意してくる間に、が呼んできた土方がその場に加わった。
「綱道さんは、この新選組で『羅刹』を生み出す薬――『変若水』の実験を行っていた」
松本が話し出した。
「羅刹……」
「元々、羅刹の研究は幕府の手で秘密裏に進められてきました。幕臣の中でも、ごく一部の者しか知らされていない重要機密ではありますが……僕たち奥詰の者は、万が一に備えてその存在を知らされています。……対処法を含めて」
伊庭が言いにくそうに続ける。
「実験が始まった当初の羅刹は、それはもうひどいものでした。彼らと剣を交え、犠牲になった者も数多くいます。その研究の一部を新選組で引き継いでいると聞いて、確かめに来たのですが……」
そう言って土方へと目を向ける。土方が息を吐いた。
「そこまでわかってんなら、今更隠し立てしても始まらねえか」
仕方なさげに言って、土方は伊庭を見た。
「俺たちが幕命で羅刹の研究をしてんのは本当だ。そうなった経緯については、話すと長くなるんだが……ここに薬を持ち込んだのが綱道さんでな」
伊庭が千鶴に目を向ける。
「……私も、ここに来るまで何も知りませんでした」
千鶴は少し俯いた。伊庭と松本が視線を交わし合う。
「近藤さん、トシさん。率直に聞かせてください。新選組は今後、羅刹をどうするつもりなんですか?」
土方が目を逸らした。
「どうするもこうするもねえだろ……羅刹の研究は幕命だ。俺たちの一存で止めるわけにゃいかねえよ」
近藤も苦い顔で口を一文字に結んでいた。土方と同意見ということなのだろう。
「もしこのまま実験を続けて、万一のことがあったらどうするつもりなんですか? ここには戦えない人もいるというのに――」
伊庭が心配そうに千鶴とを見た。その視線が、には煩わしかった。戦えないと、伊庭は言う。
「もし幕府の意向に逆らえないというのであれば、僕が直々に上役に掛け合っても構いません」
伊庭が再び土方に向かって言う。
「私も伊庭君に賛成だ。ありゃ人間が扱いきれる物じゃない」
松本が頷いた。
「トシさん」
「……俺もあの薬が危険な代物だってのは、よくわかってるつもりだ」
土方が言う。
「それなら……」
「だが、あいつらが戦力になってるのも事実だからな」
松本の言葉を遮って土方が言った。そして、厳しい目を伊庭へと向ける。
「それに、もし実験を取りやめちまったら、もう羅刹になっちまってる奴はどうなる」
「それは……」
伊庭が言葉に詰まった。不要となった羅刹がどうなるか、その答えは出ていた。
「答えづらいのであれば、僭越ながら私の方からお答えしましょう」
襖が開いた。そこには山南が立っていた。
「山南さん! お身体の具合は大丈夫なんですか?」
「さすがに斬り合いは無理ですが、少し話をするぐらいならどうにでもなりますよ」
千鶴の問いに、山南は柔らかく笑った。そして伊庭と松本に目を向ける。
「もし、変若水が扱いきれぬ代物だということになれば……恐らくは処分されるのでしょうね。羅刹となったこの私も含めて」
「なんですって!?」
伊庭が声を荒げた。
「山南さん、なぜあなたがあの薬を……!」
山南が微笑を浮かべた。
「憐れまないでください、伊庭君。私は、こうして羅刹となったことを喜んでいるのですよ」
「喜んでいる、ですって?」
「はい。左腕を負傷し、剣客としては死んだも同然のこの私が、変若水によって見事生き返ることができました」
左手を開いたり閉じたりしてみせる。山南は羅刹となった代わりに、失った左腕を取り戻した。
「あなたも剣客であれば、片腕を失うこと……そして戦えず隊の役に立てぬことが、どれだけ苦しいか想像できるでしょう」
「……」
伊庭は俯く。理解できるのだろう。剣客と呼ばれるには遠いにも、その気持ちは理解できた。
「こうして忠告してくれた君や松本先生には申し訳ないと思うが……ここで実験を取りやめてしまうことは、山南君を見殺しにするのと同じことなんだ」
近藤が言いにくそうに言った。
「綱道さんを捜しだすことができれば、山南君や羅刹となった皆を元に戻す方法も見つかるかもしれないが……」
「……私は、人の身に戻りたいなどと言った覚えはありませんがね」
山南が近藤の言葉に苦笑した。
「……医者としちゃ、複雑だがな。山南君や隊士たちの命がかかっているとあっては、実験を取りやめろとも言えんか」
「早急に綱道さんの行方を見つけ出す他なさそうですね」
松本と伊庭が言う。
「私は何かあった時の為に薬を調合してみることにするよ。……気休めにしかならんだろうが」
「そんなことはありません。お二人の気遣いは、ありがたく受け取っておきます」
松本の言葉に、近藤はようやく笑みを浮かべた。
「……お茶、冷めてしまいましたね。私、取り替えて来ます」
「おれも行こうか?」
「大丈夫」
にこりと笑みを浮かべて、千鶴は盆に湯呑を乗せて部屋の外に出て行った。
「そういえば、君と言ったかね。千鶴君の友人と聞いているが」
「あ、はい。そうです」
千鶴の背を見送ったが、松本の方を向いた。松本は怪訝な顔をしていた。
「その髪は、染めているのか?」
灰被りの色。
「雪村先生が、昔おれに変若水か何かを飲ませたんじゃないか……って、新選組の人たちは考えてるみたいです」
が前髪を触りながら言った。
「なんですって? ちゃんが?」
伊庭が信じられないと声をあげる。伊庭と最後に会ったのは五つの時だ。怪我をしたのは十の頃だから、彼はがなぜこのような髪になったのかを知らない。
「君は血に飢えることはあるのかね」
「そういうのはないんですよね。傷の治りもちょっと早いくらいで、身体能力は並みかなって自分では思うんですけど」
松本の問いに答える。
「半端者の羅刹か……」
松本が唸った。
「君の髪を見た時に違和感はあったんです……小さい頃はそんな色じゃなかったから。でも、まさか君が変若水を飲んでいるだなんて……」
伊庭は衝撃を受けたようだった。染めているとでも思っていたのだろう。そして、表情を引き締める。
「綱道さんなら、羅刹を元に戻す方法がわかるかもしれない。ちゃんを人間に戻す方法が――」
「おれが人間じゃないって言ってる?」
思いのほか冷たい声が出て、自分でも驚いた。静まり返る。
「少なくとも、君は羅刹というよりは、人間寄りでしょうね」
沈黙を破ったのは山南だった。
「血に飢えず、昼間の行動に制限もなく、ただ治癒力が高いだけで、あとは人間と変わらない。綱道さんがどのような薬を用いたのかわからない以上、彼女を羅刹と呼ぶのは早計です」
「山南さんだって疑ってたじゃないですか」
「ええ。でも、変若水ではないとは思っていましたよ。君が怪我をした頃に、変若水が完成しているはずがないですから」
山南が微笑んだ。
「そういえば先生、健康診断の方はどうでしたかな」
山南が立ち去り、千鶴が遅いから見て来ると伊庭も席を立った後、近藤がそう問いかけた。
「ああ、それなんだがなあ。頭を抱えたよ」
「え? それは一体なぜ……」
松本が睨むような視線を近藤に向ける。
「なぜも何も、怪我人や病人を合計したら、全隊士の三分の一近くになるじゃないか」
「なんと!」
「なんとじゃないぞ、近藤さん。あんたらは今まで何をやってたんだ。切り傷から渋り腹まで……この屯所は病の見本市だぞ」
近藤は申し訳なさそうに項垂れた。
「面目ない。まさか、そんなことになっていたとは……」
「まずは病室を用意して、そこに病人を運び込んでくれ。それから、屯所を清潔にしてもらわんと話にならん」
「承知しました。すぐに取り掛かります!」
そう言って近藤が立ち上がる。
「トシ! 大掃除だ!」
やる気を漲らせて拳を握る近藤を見て、土方とは思わず顔を見合わせた。