新選組は池田屋の頃と比べたら随分と大きな組織となり、隊士の数は二百近くになった。前川邸に住んでいる隊士たちはぎゅうぎゅうのすし詰め状態で寝ていると聞いた。屯所を移転するか増やすかしないといけないのではないかと、も感じ始めた元治二年二月。
 凍えるような寒さが少しだけ和らいだ頃、はいつものように中庭で素振りをしていた。広間では幹部たちが会議をしているはずだった。沖田はその後で稽古をつけてくれるという。
 ガラリと音がして、は手を止めて振り返った。山南が広間から出てきたところだった。

「山南さん、会議終わったんですか?」

 が駆け寄った。山南はを見て、苦笑する。

「……優秀な参謀が現れて、総長はお役御免というわけです」
「え?」

 山南はそれだけ言って、立ち去った。にはその言葉の意味はわからなかった。

「今日の会議って何の話してたんだ?」

 沖田との稽古が終わって部屋に戻ると、千鶴に問いかける。千鶴は首を傾げた。

「どうして?」
「山南さんがまた伊東さんと何かあったみたいだったから」

 伊東がやってきてから、山南は以前に増して周囲に刺々しい態度を取ることが増えた。悔しそうにしている姿も何度も見ている。
 千鶴は少し迷ってから話してくれた。今日の会議は屯所移転の件についてだった。伊東が西本願寺はどうかと言った。それに対して、僧侶を武力で抑えつけるのはどうかと山南が苦言を呈した。会議は結論が出ぬまま終わったが、山南は途中で退室してしまったという。

「なるほどな……だからあんなこと言ってたのか」
「あんなことって?」
「優秀な参謀が現れて、総長はお役御免ですね、って」

 山南の左腕が動かなくなってから一年。彼はその才覚で新選組を支え続けたが、同様の立場である伊東が現れたことで、より一層腕が動かないことに対して憤りを感じていることだろう。剣ならば、試衛館にいた彼が負けることなどきっとなかった。

「薬があれば……山南さんの腕も治るのかな」

 千鶴が言った。

「薬? 腕の怪我が治る薬なんてあるのか?」
「あ、ううん。なんでもない。あったらいいな、っていう話……」

 あるはずがない。はそう思って、そうだな、と返すだけだった。
 その日の夜。は夜中に月明かりを感じて目が覚めた。目を開けると、障子戸の隙間から明かりが差し込んでいる。寝る前にきっちりと閉めたはずだと思いながら、布団から身を起こし、ふと隣の布団に千鶴がいないことに気が付いた。

「どこ行ったんだ……?」

 欠伸をしながら手早く着替えて、は刀を左手に持って廊下に出た。二月の廊下は冷たく、裸足でぺたぺたと歩いて千鶴を捜す。厠にはいない。玄関に草履はある。外に出たわけではないとしたら、一体どこに?

 ――薬でも何でも使ってもらうしかないね

 沖田が一年前に言っていた言葉を唐突に思い出した。

 ――幹部が羅刹になってどうするんだよ?
 ――羅刹ってのは、薬を飲んだらどんな怪我も治っちまう……

 永倉と藤堂がそんなことを言っていた。

 ――薬があれば……山南さんの腕も治るのかな

 薬。薬だ。はようやく千鶴の思考に追いついた。千鶴は、どんな怪我も治る『らせつ』になる薬を探している。だが、それは新選組の秘密に触れることのはずだ。だから、あの時も原田が藤堂を殴って止めた。それを千鶴や自分が知ってしまったらどうなる? 彼らの好意も無駄になり、自分たちは殺される。
 ガタン、と音が聞こえて、は床を蹴って駆け出した。
 何かが起こっている。よくない、何かが。

「誰か――」

 千鶴の声が広間から聞こえた。引き戸を勢いよく開けて、はその光景に息を呑んだ。あの夜見た、白髪の男が千鶴の前にいた。どうして。そう思う暇はなさそうだった。迷わずに刀を抜く。

「千鶴下がれ! おれが――」

 殺す。そう言おうと思ったが、千鶴が首を振るのが見えた。

「だめ! その人は山南さんなの!」

 踏み出そうとした足が止まった。

「山南さん!? えっ、だってこいつは――」

 確かにあの夜見た、白髪で赤い目の男だ。山南の赤い目がを捕えた。

「……君、ですか……ちょうどよかった」

 荒い息でそう言って、山南が微笑んだ。

「私を、殺して、ください……」
「えっ……?」

 刀を構えたまま問い返す。声は確かに山南のもの。口調もそうだ。だが、そんな彼が、自分を殺せと言っている。

「その剣で、私を……早く……心臓か、首を刺せば、死にます、だから……」

 は動けなかった。刀を持つ手が震えている。この人は、敵ではない。だから、殺せるはずが――

「早くしなさい! ぐ、うう、あああ……!」
「山南さん!」

 千鶴が悲鳴のような声をあげた。
 どうすればいい? 心臓が早鐘を打っている。この状況をどうにかしなければ、自分も千鶴もここで死ぬ。それだけは理解をしている。でも、自分は、だめだ――殺せない。

「――総司さん!」

 が大声で名を呼んだ。足音があって、広間に男が駆けこんできた。沖田だった。山南を見て、すぐに状況を理解したようだった。

「沖田君……ですか……」
「こんばんは、山南さん」

 沖田はと千鶴の姿など見えていないかのように、山南を見つめていた。

「見ての通り……実験は、失敗です……沖田君、お願いできますか……?」

 荒い息で山南が言うと、沖田はいつも通りの表情で頷き、刀を抜いた。

「ええ、わかってます。安心してください。きちんと、僕が介錯してあげますよ」
「飲み込みが早くて、助かりますよ……さすが、新選組の剣だ」

 何の話をしているのかわからなかった。言葉の通りに受け取るならば、沖田は山南を殺そうとしているように思える。だが、山南は沖田にとっては試衛館の頃からの仲間のはずだ。

「冗談……ですよね……?」

 刀を構えたまま動けないの代わりに、千鶴が震えながら声をあげた。

「山南さんを斬るなんて、そんな……」
「……君さ」

 沖田が聞いたことのないような冷たい声音で言った。

「やめてくれないかな、そういうの。よそ者は黙っててよ」
「で、でもっ……!」
「鬱陶しいんだよ。新選組隊士にでもなったつもり?」

 心臓に刃が突き立てられた感覚。これは、以前にも感じたことがある。まだ見張りがついていた頃、原田と話していた時。そうだ、これは殺気だ。

「忘れたって言うんなら、もう一度言ってあげるよ。君たちは利用価値があるから生かしてあげてるだけで、僕たちの仲間じゃない」

 ――今は協力しようってことでいいんじゃないの? 守るものが同じならね
 ――ちょっとはお兄さんを頼ったらって言ってるの

 にそう言った沖田は、ここにはいない。

「……っぐああ!」

 山南が呻き声を上げながら床を蹴った。沖田が同時に床を蹴る。肉を断つ音。冷たい空気に血の臭いが混じる。どさり、と山南が倒れた。床に血だまりが広がっていく。
 まるで夢でも見ているようだった。は声の出し方を忘れてしまったように、何も言うことができない。

「山南、さん……?」

 千鶴が近付こうと歩み出した。

「近づかない方がいいよ」

 冷たい声で沖田が言う。

「深手は負わせたけど、また襲い掛かってこないとは限らないしね」
「え……?」
「あの薬を使ったら、この程度じゃ死ねないんだよ」

 沖田の言葉を脳内で繰り返す。

「じゃあ……山南さんは、生きてるんですか……?」
「死ねないって言ってるんだから、生きてるに決まってるでしょ」

 よかった。そう言って千鶴は力が抜けたように、床に崩れ落ちた。はようやく構えていた刀を下ろす。

ちゃん」

 びくりと肩が跳ねた。近付いてきた沖田が、の肩に手を乗せた。

「殺す覚悟がないなら、刀を抜くんじゃないよ。それは子供の玩具じゃないんだから」

 言い返す言葉はなかった。殺すつもりで刀を抜いた。ただ、それが山南だったからできなかっただけだ。でも、沖田は山南であっても躊躇わずに斬った。なぜ? ――わからない。

「でも、僕を呼んだのは上出来だよ。土方さん呼んで来てくれる?」

 何と答えたかは覚えていない。刀を納めて、土方の部屋に向かう。それから幹部たちが広間に集まった。近藤と井上が山南を部屋へと連れて行き、永倉たちは周囲の見張り。千鶴は沖田に連れられて部屋に戻ったが、は土方と共に広間に残ることになった。

「なるほど。雪村が『薬』を探しに行ったんじゃねえかって思って、おまえも後を追いかけたと」
「はい。そうしたら広間から千鶴の声が聞こえて、飛び込んだらあの時みたいな白髪のやつがいて……殺そうと思ったんですけど、山南さんだって気付いたら、何もできなくて……」

 俯いたままのの話を聞いて、土方は溜め息をつく。

「あの……」

 は言葉を続けようか悩んだ。土方が鋭い視線をに向けているが、話は続けさせてくれるようだった。

「『薬』っていうのは山南さんが飲んだもので、『らせつ』は白髪で赤い目のやつらのこと……でいいんですか? 殺しても簡単には死なないっていう……」

 思い切って問いかける。

「殺されるかもしれないと思いながらも、それを聞きたいのか」

 土方が逆に問う。は頷いた。

「だって、その薬……おれも飲んでるかもしれないんでしょ?」

 ようやくいろんなものが繋がったのだ。新選組が隠し続けてきた『薬』と『らせつ』の繋がり。先程の山南の姿と京に来た日に見た隊士。自分の髪色と怪我が治る体質をずっと訝しんできた幹部たち。これらを繋ぎ合わせると、自分の怪我が治る体質は神からの授かりものではない。『薬』を飲んで『らせつ』になったからだ。自分の怪我を治した者が誰か、は知っている。自分にそのような嘘をついたのも、誰か知っている。――雪村綱道。すべて彼に帰結する。

「おまえの推測は正しい」

 土方が言った。

「俺たちは初めておまえを見た時から、羅刹のようだと思っていた。髪の色も、怪我が治るところもな。だが、どうにも腑に落ちねえのは、羅刹と似ているところがありながらも、おまえは羅刹にあるはずの特徴がねえってことだ」
「特徴?」

 が首を傾げる。

「髪色も怪我がすぐ治るところも羅刹に近い。これは確かだ。だが、羅刹は昼間は動けず、夜にしか動けない。羅刹は血を求めて狂うが、おまえにそのような症状はない。身体能力も今のところ並だと俺は思う。……だから、おまえが薬を飲んでいたとしても、俺たちが使っているものとは違うんじゃねえかと思っている」

 土方はそこで言葉を区切って、続ける。

「第一、変若水は新選組に持ち込まれた時はまだ研究の初期段階で、まったく使い物にならなかった。おまえが薬を飲んだのは、それよりもっと前だ。同じものだとは思えねえ」
「おちみず……」

 それが薬の名なのだとわかった。綱道が新選組に持ち込んだものだということも理解した。自分が飲んだのは変若水のような『何か』……それもわかった。

「……雪村先生は、本当にいなくなったんですか?」

 視線を落としたまま問いかける。

「それは、俺たちが殺したんじゃねえかってことか」
「いえ……新選組がまだ研究を続けてるならそれは違うと思います。ただ……なんで研究の途中でいなくなったんだろうって思って。薬は完成したわけじゃないんでしょ?」

 土方が息を吐く。

「そうだ。だから俺たちは綱道さんを捜してる。羅刹になった奴らを戻すことができるのかどうか、それも聞かなくちゃならないしな」

 が顔を上げた。

「戻せるかもしれないんですか……? また普通の人間に?」
「わからねえ。わからねえから、捜して問い詰めなきゃならねえんだ。新選組に薬を持ち込んで、引っ掻き回して、とんずらってのは許されねえからな」

 そうですか、と言ってはまた俯いた。会話はそこで終わった。

「……俺と千鶴は、どうなりますか」

 殺されるのを覚悟で話を聞いた。話は終わった。だから、殺されるならそろそろだろうと思った。土方がいろいろと話してくれたのは、すぐに殺せるからだ。いろんなことが一度に起こりすぎて、抵抗する気にはなれなかった。仕方がない。そんな風にさえ思う。

「どうしてほしい?」

 土方から意外な言葉が返って来た。は顔を上げて土方の目を見た。感情の読めない目だ。

「……千鶴だけは、助けてほしい、です。雪村先生を捜すなら、あいつはきっと必要だから」
「おまえ自身のことはどうなんだ」
「……」

 はまた視線を落とした。膝の上でぎゅっと拳を握る。

「まだ死にたくないけど……殺されても仕方のないことを知った自覚はあります。それに……」

 一度言葉を区切る。

「……おれは、新選組の仲間じゃないし、雪村先生捜しの役にも立たないし、お情けで置いてもらってるだけだし……」

 言葉尻がどんどん小さくなっていく。情けなかった。虚しかった。千鶴を置いて一人死にゆくことに申し訳なさもあったが、それも仕方がないのだと諦めた。
 土方が苛立ったような溜め息をついたので、はびくりと肩を揺らした。

「おまえはもう少し骨のあるやつだと思っていたが……見込み違いだったか」
「え……?」
「雪村を守るとか息巻いてたのは口だけだったのかって言ってるんだ」

 ギリと歯を噛む。

「違います」

 はっきりと否定する。

「おれは、本気で千鶴を守ろうと思ってた。そう約束したから、この命に代えても守るんだって、そう決めてました」

 握りしめた拳が震える。

「でも、おれ……なにもできなかった。あいつが死ぬかもしれなかったのに、山南さんのこと斬れなかった……!」

 涙が出そうで、瞼をきつく閉じる。結局、口だけだったのかもしれない。覚悟がなかったのかもしれない。千鶴のためならなんだってできると思っていた。それなのに、山南のことを斬れなかった自分が酷く滑稽だ。千鶴のためを考えるなら、あの場で山南を殺すことこそ一番だったと思うのに。

「それは、おまえが俺たちを仲間だと思ってるからじゃねえのか」

 土方の言葉に、顔を上げた。

「おまえは自分を新選組の仲間じゃねえって言ったが、おまえは俺たちを仲間だと思ってるんじゃねえのか」

 はこくんと頷いた。

「……思ってました。さっきまで」

 でも、沖田が言ったのだ。自分と千鶴は、新選組の仲間ではないと。
 しばしの沈黙があった。

「おまえらは腐っちまってる姿しか知らねえだろうが……山南さんは元々才もあり腕も立つ人だ。大局も見えるし、頭も回る。つまんねえことにこだわって意地張ってばかりの俺の手綱を、うまく取ってくれてな。あの人がいなきゃ、今の新選組はあり得なかった。……俺にとっちゃ、兄貴みてえなもんだったんだ」

 土方が急にそんな話を始めた。何の話だろう。は黙って耳を傾けた。

「あの薬を捨てちまわなかったのも、山南さんの腕を治すためだった。俺たちには、山南さんが必要なんだ。……あの人を失うわけにはいかねえんだよ」

 だから、と言って土方は苦笑した。

「斬らないでくれて、助かった」

 は目を瞠った。何もできなかった自分への劣等感を、溶かしてくれるような言葉だった。千鶴の敵はすべて斬ってしまいたかったけど、山南は敵ではない。自分はそう思っていたのだ――仲間だと。

「確かにおまえたちはいてもいなくても困らねえ。おまえの利用価値は雪村より低い、これも確かだ」
「……」
「でもな、お情けで置いてやるほど俺たちは甘くねえ」

 逸らそうとした視線を土方に戻す。

「おまえら二人ともまだ殺さねえ。だが、余計なことをすれば即座に殺す。その上で、おまえはおまえが仲間だと思うやつらに何ができるのか考えろ」
「何が、できるか……」

 存在価値は自分で作れ。そういう意味だとわかった。新選組のために何ができるか。
 それでも、自分がここにいるのは千鶴のためで、千鶴以外のことは二の次。綱道が見つかって、千鶴が新選組を離れることになったら、自分も新選組に用はない。そう思うのに、少し胸がもやもやとするのはどうしてだろう。
 山南は翌日目を覚ました。見た目はいつも通り。だが、『羅刹』になってしまっているという。もう自分は人間ではないと言う山南は、動かなかった左腕を自在に動かして見せた。初めての成功例となったのだ。羅刹のことを知らない者たちから山南たち羅刹を隠すため、山南は死んだことにしてほしいと言ってきた。山南は切腹し、沖田が介錯したということになった。

「総司さん!」

 いつもの沖田との稽古の時間。は沖田がやってくるなり、叫んだ。沖田が目を丸くして立ち止まる。

「おれは! 新選組の仲間じゃないかもしれないけど! ここにいる価値なんてないかもしれないけど!」

 言葉にすると悔しくてまた涙が出そうだった。でも、涙を堪えて、木刀の切っ先を沖田に向けた。

「少なくともここにいる間は、仲間として認めてもらえるように、必死に食らいつくからな!」

 自分の腕はまだまだだ。覚悟もきっとなにもない。千鶴を守る、仲間として認めてもらう、今はきっと口だけだ。

「絶対追いつくからな! 待ってろ!」

 考えて、考えて、結局自分にできるのは剣術だけなのだとわかった。剣術でしか、自分は誰かの役には立てないだろう。そう思ったから、はそれを宣言する。自分の師である、沖田総司に追いつくのだと決めた。
 沖田は無言でを見てから、意地悪く笑った。

「僕は君が追いつくまで、何十年も待ってなきゃいけないのかな?」
「ぐっ……」

 が顔を歪める。沖田は天才だ。そんな彼に追いつくなど、もしかしたら何十年とかかる話なのかもしれない。
 ふっと笑みを浮かべ、沖田が続ける。

「……嘘だよ。早く追いついておいで」

 待ってるから。

「はい!」

 仲間と思われてなくてもいい。の存在価値を、いつか認めさせてやる。
 元治二年二月。は決意を新たにする。