十月、伊東甲子太郎という人物が江戸からやってきた。藤堂と同門で、江戸にある当てとは伊東のことだったらしい。近藤がにこやかに屯所にやってきた伊東一派を出迎える。そんな様子を、幹部四人とが隠れて見ていた。

「あれが伊東甲子太郎か……あの人を参謀にするってんだろ? どうなんだ、正直なところ」

 永倉が胡散臭そうな顔で伊東を睨みつける。

「尊王攘夷派だって聞いたぜ? なんで新選組に入ることになったんだ?」
「なんでも、尊王攘夷を掲げているからといって長州浪士と一緒にされるのは心外、なのだそうだ」

 原田と斎藤も伊東たちの方を見ながら言う。

ちゃんどう思う?」

 沖田に感想を求められる。が伊東を見ると、目が合った。

「……なんかやな感じ」

 顔を隠しながらは不快そうに言った。
 夜は広間で宴会だった。酒を振舞われて上機嫌の伊東の周りに、伊東一派が集まっている。その輪の中にいるのは近藤だけで、他の幹部たちは少し離れて伊東たちを見ながらちびちびと酒を飲んでいた。千鶴は小姓としての手伝いで宴会会場にいるようだが、は顔を出しただけで早々にその場を離れて中庭に出た。そもそも一般隊士が幹部たちに混じっている方がおかしい。何か勘ぐられるわけにはいかないからと、土方に耳打ちされて出てきたのだった。
 日課になった素振りをする。毎日千回、この重い木刀を振ると決めた。この重さに慣れた時、自分は自在に真剣が操れるようになっているはずだ。

「ねえ、そこのあなた」

 六百を数えた頃、の集中が途切れた。声の方を振り向くと、そこに立っていたのは伊東だ。

「……何ですか」

 汗を拭いながら問いかける。

「あなたはもしかして、こちらの八木さんのお宅に住んでいるの?」
「そうですけど」
「おかしいわね。一般隊士は皆、お隣の前川邸に住んでいると聞いたのだけど」

 暗くて表情はわからない。

「広間にいたでしょう、小姓の雪村。あいつと同じ部屋ってだけですよ」
「ああ、あの可愛らしい子。細かいことに気が付いて、良い子ね。彼との付き合いは長いの?」
「幼馴染です」

 短く答えて、は伊東から顔を逸らして再び素振りの体勢に戻る。だが、伊東は立ち去ろうとせず、縁側に置いてあった草履を履いて近くにやってきた。

「あなたの体格じゃ、その木刀は重いんじゃなくて? もっと軽いものから始めた方が――」

 そう言って伊東がの肩に手を置き、が反射的にその手を振り払って距離を取った。そして、やってしまった、と思う。過剰反応をしすぎた。伊東は表情を変えずにを見ている。

「あなた、もしかして……」

 伊東が何か言おうとした瞬間。

「伊東さん。何してるんだ」

 鋭い声が飛んできた。伊東が声の方を振り返る。土方がそこに立っていた。

「あんたの歓迎会なんだぜ。主役がいなくてどうするんだ」
「あら、ごめんなさい。こんな暗いところで木刀を振っている子がいたから、声をかけただけなのよ」

 伊東がから離れて縁側で草履を脱いだ。そしてもう一度の方を振り返る。

「そういえば、あなたの名前は?」
「……です」
「そう、君。またね」

 微笑んで、伊東は広間に戻って行った。それを目で追い、引き戸が閉まったところでがようやく息を吐きだした。

「何を話してた」

 土方が低い声で問いかけてくる。大声で話すわけにはいかないと、は土方の方に近付いた。

「おれがこっちに住んでることを怪しんでるみたいでした。それと……」
「何だ」
「……肩に手を置かれて、やべ、って思って思いっきり振り払っちゃいました」

 土方が眉を寄せる。

「バレましたかね……」
「少し触れたくらいじゃわからねえと信じてえところだがな……目ざとい奴だ。気をつけろよ。おまえも今日はもう素振りやめて部屋に戻ってろ」
「そうですね……」

 まだ途中だったのに、と思いながらは部屋に戻ることにした。
 そして夜遅くになってから、千鶴が部屋に戻って来た。が座ったまま木刀を振っていたので、びくりと肩を揺らした。

ちゃん、部屋の中で素振りしてるの……?」
「だって、伊東さんに邪魔されたから最後までできなかったんだよ」

 さすがに外でやるのと同じようにやると部屋の中の物を壊しそうなので、ゆっくりと時間をかけて振っているだけだ。明日残りの回数を足して素振りをしようと決めている。千鶴が戻って来たので、木刀を振るのも終わりにした。

「広間の方大丈夫だったか? 伊東さんの相手とか」
「うん。皆さんもいたし……ちゃんこそ、大丈夫だったの? 土方さんが少し不機嫌そうに戻って来たから気になってたんだけど」

 ああ、と言っては伊東に声をかけられたことを千鶴に話した。女であることに気付いたのか、気付いていないのか。怪しまれているのは確かだろう。屯所で注意しなければならない人間が増えてしまった。
 そして翌日。は隊士たちとの稽古が終わってから、中庭で沖田を待っていた。

君」

 声が聞こえて眉を寄せる。振り向けば、中庭にやってきたのは伊東だ。

「熱心ね。先程まで壬生寺で稽古していたのではなくて?」
「……まだまだ強くならなきゃいけないので。これからうちの組長に稽古をつけてもらうところです」
「あなた何番組だったかしら?」
「一番組です」
「そう、沖田君の……」

 品定めをするようにを見て、伊東は微笑んだ。

「沖田君なら土方君に呼ばれていたようだし、まだ来ないと思うわ。よかったら、私が稽古をつけましょうか?」
「伊東さんが?」

 が怪訝な顔をする。

「ええ。この伊東、これでも江戸では道場主をしていましてよ。教えるのは得意ですわ」

 自信満々に言う伊東に、はしばし考え込んだ。実際今は時間が空いている。沖田が本当に土方に呼ばれているなら来るまで時間がかかるかもしれない。だが、伊東に剣術を教わるというのは、どうにも気が進まない。

「……いえ、結構です。総司さん捜しに行きますので、それでは」

 が中庭から立ち去ろうとする。

「待ってちょうだい」

 手首をがっしりと掴まれた。

「女の子のようだ、と言われたことはないかしら」

 核心を突いてくる。が伊東を睨みつけた。

「ありますよ。そういうこと言ってきた奴は、ぼこぼこにぶちのめしてきました」
「勘違いしないでね。あなたを侮辱するつもりはないのよ」

 伊東が微笑む。

「ただね、もし女の子が男と性別を偽って紛れ込んでいたら、いろいろと問題でしょう? だから確認をしているのよ」
「だから、男だって言ってるじゃないですか。それともなんですか、ここで脱げとでも言いますか?」

 そう問いかけると、伊東は驚いて目を丸くする。さすがにその言葉は予想していなかったようだ。伊東が何か言いかけて口を開いた時――の肩を背後からぐいと引き寄せる者がいた。伊東に掴まれていた手が離れる。

「うちの組の子に何か用ですか?」

 沖田だった。敵を前にしたような鋭い視線を伊東に向けている。

「あら、沖田君。土方君との話はもう終わったの?」
「質問に答えてください」
「少しお話していただけよ。ねえ?」

 は答えない。

「稽古をするんでしょう? 見学をしてもいいかしら? 天然理心流の稽古がどんなものか、興味があるわ」

 そう言って、伊東は脇に移動した。沖田はそれを睨みつけてから、小さく息を吐いた。

「じゃあ、ちゃんやろうか」
「……よろしくお願いします」

 距離を取り、頭を下げてから構える。見学者がいるというのは少しやりにくかったが、は木刀を振りかぶって踏み込んだ。

「いっ!?」

 だが、沖田はそれをするりとかわし、の背中に容赦なく木刀を打ち付けた。が痛みで呻く。体勢を戻す前に、今度は沖田が踏み込んで来る。避ける間もなく、腕や足、腹に木刀が叩き込まれる。

「そこまでよ!」

 伊東の声に沖田が手を止めた。はようやく息ができたが、痛みで声が出せそうにない。

「なんですか、伊東さん。邪魔しないでもらえますか」
「沖田君、今の稽古はなに?」

 伊東が困惑した声で問いかけた。

「撃剣の稽古ですけど」
「撃剣は普通防具をつけて竹刀でやるものよ。防具もつけず、ましてや木刀でやるものじゃないわ」
「これが僕のやり方です。これから不逞浪士と斬り合いすることになる男が、この程度で音を上げるわけないじゃないですか」

 ようやく沖田の意図を理解する。伊東が見ている前で、少しでも手加減しようものなら勘ぐられる。

「そうですよ、伊東さん。おれたちの稽古に文句つけないでください」

 掠れた声でが続く。伊東が納得しがたい顔で、さらに何かを言おうとした時――

「伊東参謀。副長がお呼びです」

 斎藤がやってきて伊東に告げた。伊東は困った顔をして、と沖田を再び見てから、「わかったわ」と言って中庭から立ち去った。去り際に、斎藤が沖田に目配せした。
 伊東がいなくなって、は崩れるようにして地面に膝をついた。

「ごめん、大丈夫?」

 沖田が脇に片膝をついて、に声をかけた。

「大丈夫だけど……総司さん、いつもは手を抜いてたってこと?」

 手は抜いてない、本気でやっていると言っていたのに、いつもとの力加減の違いに戸惑う方が大きかった。沖田が息を吐く。

「手を抜いているんじゃなくて、加減をしてるんだよ。本気でやったら骨が折れるどころじゃすまないんだから」
「ぐぬぬぬ……」

 沖田に本気を出させていないという事実の方が体の痛みより堪えた。真面目にはやっている。でも本気は出せない。そういうことなのだろう。所詮自分の実力は沖田に加減してもらう程度なのだ。沖田がやる気が削がれたからと言って、今日はこれで終わりになった。
 沖田に本気で相手をしてもらうには自分が強くなるしかない。でも、強くなるための近道は沖田に稽古をつけてもらうこと。新選組に来てからそろそろ一年。自分は少しでも強くなれているのだろうか。は、そう思わずにはいられなかった。