もうとうととし始めた明け方。ドン、と腹の底に響くような大きな音が空に轟いた。
「大砲!?」
目が覚めたと千鶴が思わず立ち上がる。幹部は互いに顔を見合わせると頷き合った。
「行くぞ!」
斎藤が声をかけた。だが、そこに会津藩士が立ち塞がった。
「待たんか、新選組! 我々は待機を命じられているのだぞ!」
「……待て、だと?」
土方が低い声で言った。
「てめえらは待機するために待機してんのか? 御所を守るために待機してたんじゃねえのか! 長州の野郎どもが攻め込んできたら、援軍に行くための待機だろうが!」
「し、しかし出動命令はまだ……」
「自分の仕事に一欠片でも誇りがあるなら、てめえらも待機だ云々言わずに動きやがれ!」
新選組が走り出す。会津藩士はもう止める言葉を持たなかった。
「私たち、どこに行くんですか?」
千鶴が問うと、斎藤が答えた。
「敵が確実にいる場所、蛤御門を目指す」
「蛤御門……会津藩の主力が守っているところですよね?」
「うむ。蛤御門では激しい戦闘が始まっているだろう。あんたたちも、今のうちに気を引き締めておけ」
二人がそれぞれ返事をする。うろたえていた会津藩の予備部隊も、蛤御門まで新選組の後をついて来た。
だが、蛤御門に到着した時、戦いは既に終わっていた。門には金属の弾を打ち込まれたようで、あちこちに傷が刻まれていた。負傷者が倒れ、焼けた臭いが漂う。敵の姿はもうなかった。隊士たちが土方の指示で情報を集めるために散開した。
「しかし……天子様の御所に討ち入るなど、長州は一体何を考えているのだ」
近藤が呟く。
「やってることが、よくわからんねえ。長州は尊王派のはずなんだがなあ」
井上が同意した。状況確認をした斎藤が戻って来る。
「夜半から朝方にかけて蛤御門へ押しかけた長州勢は、会津と薩摩の兵力によって退けられた模様」
「薩摩が会津の手助けか……世の中、変われば変わるもんだな。あんなに仲が悪かったはずなのにな……いや、長州が共通の敵となっただけか」
土方が苦笑した。その時、原田が走って戻って来る。
「土方さん! 公家御門の方には、まだ長州の奴らが残ってるらしいぜ」
逆側から山崎が走って来る。
「副長。今回の御所襲撃の中心人物らが、天王山に撤退しているそうです」
天王山とは京と大坂の間にある山だ。京を離れようとしているのだろうか。
皆が自然と土方を頼る。少しの思案の後、土方は不意に淡く笑みを浮かべた。
「……てめえら、今から忙しくなるぞ」
そして表情を引き締めて、指示を出し始めた。
「原田。隊を率いて公家御門へ向かい、長州の残党どもを追い返せ!」
「あいよ!」
「斎藤と山崎は状況の確認を頼む。当初の予定通り、この蛤御門の守護に当たれ」
「承知!」
「はい!」
原田と斎藤の隊が離れていく。土方は近藤に向き直った。
「それから大将、あんたには大仕事がある。手間だろうが、会津の上層部に掛け合って追討の許可をもらってきてくれ」
「長州軍の追討だな?」
近藤が頷く。
「天王山に向かった奴ら以外にも敗残兵はいる。商家に押し借りしながら落ち延びるんだろうよ。追討するなら、俺らも京を離れることになる。その許可を貰いに行けるのは、あんただけだ」
「なるほどな。局長である俺が行けば、きっと守護職も取り合ってくれるだろう」
そう簡単な話だろうか。最初に所司代に追い返されたり、会津藩邸でも予備軍扱いされたことを考えれば、まともに取り合ってくれるとは思えない。だが、近藤以外にそれができる者がいないのも事実だった。
「源さんも守護職邸に行く近藤さんに同行して、大将が暴走しないように見張っておいてくれ」
「はいよ、任されました」
冗談のような口調で土方が言うと、くつくつと小さな笑いが隊士たちから漏れた。近藤も苦笑をする。
「残りの者は、俺と共に天王山に向かう。それから――」
土方の視線がと千鶴に向いた。
「、おまえは一番組扱いか?」
「はい! 天王山に向かいます!」
迷うことなどなかった。が隣に目を向ける。
「じゃあ、私も!」
千鶴も頷いた。
土方率いる残りの新選組隊士が走り出す。隊士たちの走る速度は緩まない。千鶴が息を切らして少し遅れだしたが、は千鶴に合わせて隣を走っていた。すると、隊が足を止め始める。不思議に思って、二人は顔を見合わせると、皆の脇を通って先頭の土方の元へと向かった。
男が一人立っていた。土方が合図をしたため止まったようだ。だが、一人の隊士が無視して駆け続けようとした。
「ぎゃあっ!?」
目にも留まらぬ速さで抜刀した男の刀が、隊士の体を斬りつけていた。
「てめえ、ふざけんなよ! おい、大丈夫か!?」
永倉が駆け寄って助け起こす。だが、隊士に既に息はない。
「だんだら模様か……その羽織り、新選組だな。忠臣蔵の真似事とは、相変わらず野暮な風体をしている」
その声では思い出す。
「おまえ! 池田屋で総司さんに怪我させたやつ!」
そうだ、こんな金の髪で、月明かりに照らされて、つまらなさそうに話をする男だった。
男がに目を向ける。
「あの夜も池田屋に乗り込んで来たかと思えば、今日もまた戦場で手柄探しとは……田舎侍にはまだ餌が足りんと見える。……いや、貴様らは『侍』ですらなかったな」
薄く笑みを浮かべて言うと、すぐに笑みを消し去った。
「ここで引き返せ。さもなくば、今の者のように血反吐を吐いて倒れることになるぞ」
「おまえが池田屋で総司を倒した奴か。大した凄腕らしいが……ずいぶんと安い挑発をするじゃねえか」
土方が言う。
「『腕だけは確かな百姓集団』と聞いていたが、この有様を見るにそれも作り話だったようだな。池田屋に来ていたあの男、沖田と言ったか。あれも剣客と呼ぶには非力な男だった」
「……なんだと?」
が刀の柄に手をかけた。沖田が強いことはよく知っている。きっとあの池田屋の時だって、不利な状況に追い込まれたか、卑怯な手を使われたに決まっている。
「」
土方が低く名を呼ぶ。仕方なくは構えを解いた。
「総司の悪口なら好きなだけ言えばいい。でもな、その前にこいつを殺した理由を言え! その理由が納得いかねえもんだったら、今すぐ俺がおまえをぶった斬ってやる!」
そう言って永倉が刀を抜いた。足元で事切れている隊士の下に、赤い血の海が広がっていた。
「ふん……貴様らが武士の誇りを知らず、手柄を得ることしか頭にない幕府の犬だからだ」
男がつまらなさそうな目を向けてきた。
「敗北を知り戦場を去った連中を、何のために追い立てようと言うのだ。腹を切る時間と場所を求め天王山を目指した、長州侍の誇りを何ゆえに理解できぬ?」
腹を切る? 大坂に逃げようとしていたのではなかったのか? 土方を見る。驚いていない様子を見る限り、それを予想していたのだろう。長州藩士たちは、死ぬために天王山に向かっている。
「……誰かの誇りのために、誰かの命を奪ってもいいんですか?」
が驚いて土方から隣に目を向ける。千鶴が真っ直ぐに男を見据えていた。
「誇りとは自分自身で守るもの……心の中にある大切なものは、他人の手が触れた瞬間に本質を失ってしまいます。誰かに形だけの『誇り』を守って貰うなんて、それこそ『誇り』が許さないと思います」
男がおかしそうに口元に笑みを浮かべた。
「ふむ……面白いことを言うな。ならば新選組が手柄を立てるためであれば、他人の誇りを犯しても良いと言うのか?」
「それは……」
千鶴は黙ってしまった。土方があからさまな息を吐く。
「偉そうに話し出すから何かと思えば……戦いを舐めんじゃねえぞ、この甘ったれが!」
土方が怒鳴った。男の表情が不機嫌に変わる。
「身勝手な理由で喧嘩を吹っかけたくせに、討ち死にする覚悟もなく尻尾巻いた連中が、武士らしく綺麗に死ねるわけねえだろうが! 罪人は斬首刑で充分だ。自ら腹を切る名誉なんざ、御所に弓引いた逆賊には不要のもんだろ?」
「……自ら戦いを仕掛けるからには、殺される覚悟も済ませておけと言いたいのか?」
「死ぬ覚悟もなしに戦を始めたんなら、それこそ武士の風上にも置けねえな。奴らに武士の『誇り』があるんなら、俺らも手を抜かねえのが最期のはなむけだ」
そう言うと、土方は刀を抜いて構えた。永倉を目で制す。永倉は少し迷ってから、刀を納めた。
「……口だけは達者らしいが、まさか俺を殺せるとでも思っているのか?」
地を蹴るのは同時だった。真昼の町中に金属のぶつかる音が響く。そして睨み合う。土方が刀を抜いた姿を初めて見たは、背筋がぞわりとする感覚があった。――この人は、強い。沖田とはまた違う強さだ。だが、対する男も強かった。刀を片手で構えているにも関わらず、土方の重い一撃を受け止めていた。
永倉が男の死角で刀を抜いた。沖田が言っていた、一人に対して複数人で囲うのが新選組のやり方だと。よし、と思っても刀の柄に手をかける。
「馬鹿野郎! てめえら、自分の仕事も忘れたのか!?」
土方の怒鳴り声に、抜刀しようとしたはびくりと硬直した。仕事――それは天王山に向かった長州勢を追討すること。それが今新選組に与えられた仕事のはずだった。
「貴様ら新選組が通る様を、俺が黙って見過ごすとでも思っているのか?」
「おい、余所見してんじゃねえよ。真剣勝負って言葉の意味を知らねえのか」
構えたままの土方は、男に一瞬でも隙があれば斬りこむだろう。視線すらこちらに向けず、男と対峙したまま声を投げる。
「こいつの相手が終わればすぐに後を追いかける。だから早く行け!」
永倉が素早く刀を納める。
「土方さん、後のことは任せたぜ。行くぞ、おまえら! 全力で走れ!」
「行くぞ千鶴」
「う、うん」
が千鶴の手を引いた。千鶴が慌てて駆け出す。
「邪魔をするな!」
男の一撃を土方が受け止める音が背後で聞こえる。
「ぐっ……なんて馬鹿力だ……!」
千鶴が土方の声を聞いて振り向いた。するりと繋いだ手が離れる。
「千鶴!?」
千鶴は隊士の間を縫って逆に走っていた。そして小太刀を抜く。だが、構える間もなく、千鶴は地に座り込んでいた。男が刀を突き付けている。
「土方さんッ!」
隊士の間を抜けて状況を視認したが力の限り叫ぶ。土方の刀が男に向かって振り下ろされた。金属音が一際大きく響いた。
「こいつから離れろ!」
「貴様……邪魔立てするな!」
「てめえの相手はこの俺なんだよ! それとも、そんなガキ相手じゃねえと刃も振るえねえってのか!?」
「言わせておけば、この幕府の犬が……!」
土方の挑発の後、打ち合いが始まる。がやっと戻って来て、千鶴の小太刀を拾った。
「! 雪村を連れて行け!」
「はい!」
土方はこちらに目を向けなかったが、は頷いた。腰を抜かしている千鶴の手を掴んで立たせると、またその手を引いて走り出す。
「怪我したのか?」
千鶴が頬を押さえていた。その指の隙間から血が見える。
「うん、少しだけ……」
「見られたか?」
「わからない……」
千鶴の傷は、きっともう塞がっている。そういう体質だと、だけが知っている。秘密にすると約束しているから、誰にも知られるわけにはいかなかった。
先を行く隊士たちに合流して、天王山の麓で待機し始めて数刻経った。永倉たちは多くの隊士を連れて山を登っている。たちは敵が下りてきた時のための待機だった。
「……そろそろ日が暮れますね」
千鶴が不安げに言う。頬の血は拭ってしまっていて、傷はなかったことになっている。
「大丈夫ですよ。そろそろ戻って来ると思います」
島田が言う。
「わかっています。でも……」
「あっ!」
が声をあげた。
「土方さーん!」
そして大声で叫んで手を振る。こちらに気付いた土方が近付いてきた。千鶴が涙を拭っているのを見て、は笑いながら肘で小突いた。
「ご無事でしたか、副長。怪我もないようで何よりです」
島田もほっとしたように言った。だが、土方は不機嫌そうだった。
「せめて一太刀浴びせたかったんだが、途中で薩摩藩の横槍が入りやがった」
「薩摩藩の横槍ですか?」
「ああ。奴は風間……風間千景とか言ってた。薩摩の手の者らしい」
「風間千景……」
が繰り返す。
「あの人……風間さんは、薩摩藩の指示を無視していたんでしょうか?」
千鶴が問うと、土方は頷いた。
「おそらくな。薩摩の連中も扱いかねているようだった。大分迷惑してるようだが、風間には強く言えないらしい」
「なるほど……その風間とやらは、薩摩の中でも相当に優遇された立場があるのでしょう」
未だ不機嫌そうな土方が息を吐く。
「奴は特権の上に胡坐をかいているだけの甘ったれだ。そんな奴に『誇り』だなんだと言われる筋合いはねえ」
足音が聞こえてきて、山の上に目を向ける。永倉が率いていた隊が戻って来た。永倉は土方の姿を見てほっと息を吐いた。
「上に行って見てきたぜ。残念だが……長州の奴らは、残らず切腹して果ててた」
誰もが予想していた状況に、驚く者はいなかった。
「自決か……敵ながら見事な死に様だな」
「え?」
「どうして……?」
と千鶴がそれぞれ疑問の声を同時にあげた。罪人は斬首が当然と言っていたのに、土方は切腹した彼らを称えた。その意図がわからない。土方が二人に目を向ける。
「わからねえみてえだな。確かに新選組としては良くねえよ。奴らに目的を果たさせちまったんだからな。だがな、潔さを潔しと肯定するのに敵も味方もねえんだよ。……わかるか?」
二人は顔を見合わせてから、土方に目を戻す。
「わかるようなわからないような、感じです……」
「おれも」
土方は口元に笑みを浮かべた。
「おまえらも、もう少し俺たちといれば、わかるようになるかもしれねえな」
その後、新選組は下山し、皆と合流するため御所へと戻ることになった。
「見事な死に様、か……よくわかんねえな」
ぽつりとが呟くと、隣の千鶴が頷いた。
「うん……ここで死ななかったら……もしかしたら生き延びることや、他にも何かできたかもしれないのに……」
千鶴は怪我や病気を治してきた医者の娘だ。だから、自ら命を絶つことを簡単に受け入れられないのだろう。
死は終わりだ。他に何か残るとは思わない。死に様に見事だとかそうじゃないとか、何か違いがあるというのがよくわからなかった。
「人を殺すからには、人に殺される覚悟をしろ……か」
昼間の土方の言葉を繰り返して呟く。――自分には、本当にその覚悟があるだろうか。
「副長! 京の町が!」
隊士の声がして、皆が木々の間から目を向ける。そして、言葉を失った。
「燃えてる……!?」
京の町が、火の海に包まれていた。
長州の過激派が御所に討ち入った事件は、後に『禁門の変』と呼ばれることになる。新選組の動きは後手に回り、活躍らしい活躍は出来なかったが、長州の御所への攻撃は会津藩と薩摩藩の協力の前に失敗に終わった。そして、彼らは京から逃げながらも都に火を放っていた。運悪く北から吹いていた風は、京の町や御所の南方を焼野原にした。長州藩は御所に向けて発砲したことを理由に、朝廷に歯向かった逆賊として扱われていくことになる。
それと同時に、薩摩と長州に腕の立つ人物たちがいることが判明する。池田屋で沖田を倒した男は風間千景。藤堂の額を割ったのは天霧九寿。そして、長州で共に戦っていた不知火匡。彼らは何者なのか、今後も新選組の前に立ちはだかるのか。
そんな不安も残しながら、『禁門の変』は幕を閉じたのだった。