元治元年七月初旬。池田屋事件からしばらく経った頃。八木邸の中庭で木刀が打ち合う音が響いていた。
「一本も取れなかった……」
ぜーぜーと肩で息をしながら、ががっくりと地面に膝をついた。相手をしていたのは斎藤だ。息一つ乱さずに、涼しい顔での前に立っている。
「いや、あんたの立場を考えれば、十分な強さだと俺は思う」
十代の少女である、という意味だとわかった。は溜め息を吐いて立ち上がる。
「今のおれに見合う強さじゃだめなんだよ。実戦に使える強さじゃないと」
強くなったと沖田にも確かに認められた。だが、それは一般隊士として過不足がない程度という意味合いだったのだろうと今なら思う。隊士との手合わせはまだ許可されていないため、どのくらい強いのかは想像でしかないが。
「あんたがいた道場はどんなところだったのだ?」
斎藤に問われて、は木刀を構える。
「先生は神道無念流の出らしいけど、他の目録か何かも持ってたみたいだし、別に道場はそういう看板背負ってたわけじゃなかった。町人が行ける程度の町道場だよ」
今思えば自分が教わっていたのは何だったのかと思う。沖田がよく言う「道場剣術」を習っていたのだろう。沖田は試衛館の師範代だったようなので、今は天然理心流を教わっていると思ってよいのかもしれない。
「神道無念流か。新八が目録を持っている」
「へえ、そうなのか。斎藤さんは?」
そう問いかけると、斎藤は黙り込んだ。は首を傾げる。
「今まで左利きの武士を見たことがあるか?」
代わりにそう問いかけられ、首を振った。
「斎藤さんが初めてかなあ。今までみんな右利きだった」
「普通はそうだ。だから、どの道場に行っても免状や切紙など受け取ったことはない」
は目を丸くした。
「えっ、じゃあどこの道場にもまともに通ってないのに、斎藤さんはそんなに強いのか!?」
斎藤が無言で頷く。衝撃だった。斎藤が居合の達人なのは知っている。誰からも習わずに居合ができるようになったはずもないが、その道場にずっと通っていたわけでもないということだ。
「強いってなんだ……わかんなくなってきた……」
が頭を抱えた。斎藤も頷く。
「ああ。どんな大層な肩書きを持っていても、打ち合えば無名の俺に負ける。では、本当の強さとは何か。そう考えていた頃もある」
「それ、今は答え出てるのか?」
「簡単なことだ。真剣で斬り合って、勝った方が強い」
「お、おう……確かにそうだけども」
もしかすると、自分が難しく考えすぎているだけなのかもしれない。実はもっと単純で明快なのではないか? 沖田から一本取るためには、技術を身につけるというよりも、もっと違う道があるのかもしれない。
「あ、ちょっと一君困るよ。その子、まだ怪我の療養中ってことになってるんだから」
ちょうど考えていた人物、沖田がやってきた。池田屋の怪我がまだ治っておらず、隊務に復帰はしていなかった。
「ああ、すまん。に引っ張られてな」
「ちゃん?」
「もう治ってるし」
目を逸らしてそう言うと、は斎藤に向かって頭を下げた。
「ありがとうございました! またよろしく!」
「ああ」
手を振って二人と別れる。玄関の方に回って室内に入ろうとすると、ちょうど巡察に出ていた二番組と十番組が戻って来たところだった。
「お、千鶴おかえり」
「ただいまちゃん」
「俺らにはなしかー?」
「ああ、永倉さんと原田さんもおかえり」
「俺らはついでか」
玄関で草履を脱いで、一緒に室内に入る。本来ならばも巡察に同行しているはずだったが、池田屋で怪我をしたせいで、巡察に行くのを土方と沖田に禁じられていた。そのため、千鶴だけが組長たちに同行している。
広間の横を通りかかると、ちょうど広間の引き戸が開いた。井上が顔を出す。
「君、ちょうどいいところに。今、部屋に向かおうとしていたんだよ」
「なに源さん?」
広間に招かれて入る。千鶴と永倉、原田も続いた。
「君の隊服が届いたんだよ」
「あっ、この間測ったやつ!」
行李を開けると、浅葱色の隊服と白の隊服が二着ずつ。鉢金も一緒だった。
「着てごらん」
浅葱色の隊服を手にして、袖を通してみる。するりと通った袖の長さはぴったりだ。
「うん、丈もちょうどいいね」
井上が満足げに言った。
「池田屋の時、平助のでも袖とか余ってたもんな」
「小さいからな」
「うるせえぞ! 別に特別小さいわけじゃないだろ! 大人がでかいだけだ!」
長身の二人を見上げては抗議した。
「ちゃん、どうして隊服を……?」
ずっと黙って見ていた千鶴が、嬉しそうなに向かって問いかけた。
「おれ、一応一番組の見習いだろ? 巡察中も『何で隊服着てないんだ』ってこそこそ言われてるの気になってたんだよな」
「おう、。そいつらは誰だ? こそこそ陰口叩くなんざ、男の風上にも置けねえ。組と名前は?」
「知らない」
永倉に詰め寄られるを見ながら、千鶴は息を吐く。
「変かな」
が千鶴の様子を見て眉を寄せる。隊士扱いであるならば、隊士らしくすべきだろうとは思う。だから、隊服を作ろうと言ってくれたことは素直に嬉しかったのだ。
「あ、ううん。ごめんね、似合ってるよ」
千鶴は慌てて首を振る。はよくわからず、首を傾げた。