数日が経って、屯所はすっかりいつも通りになった頃合い。
「!」
「はい!」
中庭で木刀を振っていたが、ひゃっと首を竦めた。振り返ると、こちらを睨んでいるのは土方だ。
「おまえ、池田屋での傷がまだ治ってねえだろ。素振りしてんじゃねえ」
「もう治りましたよ」
なんでもないようにが答える。池田屋事件から十日。腹に空いていた穴はすっかり塞がり、いつも通りの動きができるようになった。数日寝ていた分を取り戻さなければと素振りをしていたところだった。
土方はの言葉聞いて怪訝そうに眉を寄せてから、息を吐いた。
「おまえが大怪我したところは他の隊士たちも見てるんだ。その体質は誰でも彼でも話していいものじゃねえ。大人しく療養してろ」
「ええー」
「副長命令だ」
そう言って土方は廊下を歩いて立ち去った。その背を見送ると、はまた木刀を構える。
「!」
びくりと肩を震わせて、振り返る。鬼のような形相の土方が戻って来ていた。
「わかりました、やめます、やめますって」
仕方がないと、は木刀を下ろして中庭から移動することにした。
とはいえ、療養していろとなると本当にやることがない。池田屋での働きが認められても千鶴も玄関先くらいまでは出ることを許可されたが、歩き回っていても怒られるに違いない。
「お、。何してるんだ、そんなところで」
永倉がやってきてに声をかけた。
「素振りしてたら、土方さんに怒られた」
不満げに口をとがらせて言うと、永倉が呆れた顔をした。
「そりゃそうだろ、おまえまだ怪我してることになってるんだからな」
「だってもう治ったし。療養してろって言われても暇だなと思ってたところ。永倉さん、話し相手になってよ」
そう言っては縁側に腰を下ろす。仕方がない、と溜め息を吐きながら永倉も隣に腰を下ろした。
「いやしかし、おまえに怪我させちまったのは悪いと思ってたんだよな……」
そう言って、永倉は頭を下げた。
「悪かった!」
「え? なんで謝るの?」
が目を丸くする。
「俺が誰か来いって言ったのが悪かったわけだし……」
確かに、池田屋内に飛び込んだのは永倉の声があったからだ。は眉を寄せる。
「……おれより武田さんの方がよかった?」
「武田さん?」
「永倉さんが、気心しれた人の方がいいって言うから……武田さんよりおれの方がまだましだったかと思ったんだけど」
そう思っていたのは自分だけだったかもしれない。目を逸らしてそう言うと、大きな手が頭に下りてきて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜた。
「悪いな、気を遣わせちまったみたいで。確かにあの人よりおまえの方が戦いやすかった。来てくれてありがとな」
大して役には立たなかったのに。それでも、感謝をされて、少し心が軽くなる気がした。
「あれ、ちゃん何してるの? 君、療養中ってことになってるんだから部屋にいなきゃだめじゃない」
沖田がやってきた。歩いている姿はいつも通り、怪我の方は快方に向かっているようだ。
「そういう総司さんだって療養中なんだから寝てなきゃだめだろ」
「僕はいいんだよ。ところで、広間の方なんだか騒がしい気がするんだけど」
「そういやそうだな。誰の声だ?」
広間に向かおうと三人が歩いていると、同じく声を聞きつけた原田に斎藤、藤堂が合流した。広間には千鶴と土方、そして見知らぬ男が一人談笑をしていた。おっ、と永倉が声をあげる。
「おいおい、八郎じゃねえか!」
「聞いたことがある声だと思ったら、おまえだったのか」
「新八さん、原田さん……それに皆さんも、お久しぶりです」
丁寧な物腰の男だった。江戸の頃の知り合いだろうとは思う。
「そうか、おまえも京に来たのか! 武者修行か? それとも京見物か?」
「なわけねーし。お偉いさんの護衛とか視察なんだろ?」
「まあ……はい。そういうところです」
男は苦笑して答えた。
「あんたが京に来るとなると、それなりの職務に就いたということか」
斎藤が微笑んだ。
「ふうん……君も京に来たんだ。ま、死なない程度に気を付けなよ」
「助言ありがとう。覚えておきます」
今のは助言だったのだろうか。沖田の嫌味も受け流すくらいには仲が良いのだなと思いつつ、会話が途切れたところでが口を開いた。
「それで、どちらさま?」
「あ、君ははじめましてですね。僕は伊庭八郎といいます」
伊庭がにこりと微笑んだ。
「心行刀流伊庭道場の跡取り息子なんだぜ。なっ!」
永倉が伊庭の肩を叩いた。が腕を組んで首を傾げる。
「伊庭道場の息子の、伊庭八郎……?」
そこで、目を見開いて伊庭を指さした。
「あー!? 八兄!?」
視線が集まった。伊庭が目を丸くする。
「その呼び方……もしかして、ちゃん?」
「そうだよ! うわー! めっちゃ久しぶりじゃん!」
伊庭の肩をばしばしと叩きながら、は笑みを浮かべた。
「なんだ? 知り合いだったのか?」
原田が問う。ええ、と伊庭が頷いた。
「幼い頃、遊んだことがあって」
「雪村診療所に蘭方書読みに来てた、ひょろひょろの色白の弱そうな兄ちゃんだったよな!」
「うっ……まあ、まだ剣術もやっていませんでしたし……否定はしません」
驚いたのは千鶴だった。
「ちゃん、覚えてるの?」
「千鶴覚えてないのか?」
が問うと、戸惑いがちに千鶴が頷く。
「まあしょうがないか、おれたち五つくらいだったもんなあの頃。八兄、そのあと来なくなったし」
「道場の稽古が忙しくなりまして。すみません」
「ふうん。それで試衛館のみんなと付き合いがあったみたいな感じ?」
「ええ、その通りです」
沖田が突然の肩に手を乗せた。隣を見ると、にっこりと笑みを浮かべている。
「ねえ、ちゃん。僕と伊庭君、どっちが強かったと思う?」
「え? 総司さんじゃないの?」
皆が噴き出した。伊庭だけが顔を顰めている。
「ちゃん……即答は傷つきます」
「だって、あの時より身長でかいし体格良くなったとはいえ、ひょろひょろの記憶しかなくて。比較してくるってことは、もしかして同じくらいなの?」
周囲に視線を向ける。
「まあ、いい勝負だったよな」
「ちょっと、僕の方が強かったでしょ」
「いやいや、大して変わらなかったじゃねえか」
へえ、とが意外そうな顔をする。沖田が強いことは知っている。それと同等だと周囲が言うほど、伊庭も強いということだ。子供の頃の記憶にある姿からは想像できないなと思う。
「よっしゃ、じゃあ八兄、手合わせしよ!」
「えっ、それはちょっと……君は女の子ですし、そういうのは……」
断る伊庭の言葉が言い終わる前に、の頭に軽いげんこつが降った。いてっ、と言って肩を竦める。
「君は怪我してるから稽古禁止だってば」
「だってー!」
そのやりとりを見て、伊庭が眉を寄せる。
「怪我……? まさか、池田屋に行ったんですか?」
責めるような視線を幹部たちに向ける。
「この子、一番組の見習い隊士なんだよね」
「なんですって?」
沖田の言葉を聞いて、伊庭が背後を振り返る。渋い顔をした土方が腕組みをして溜め息をついた。
「ああ、そういうことになってる」
「トシさん、女の子ですよ。隊士扱いしなければ他に示しがつかないかもしれませんが、戦場に出すなんて……まさか千鶴ちゃんも――」
「いえ、私は戦場には行ってません!」
千鶴が慌てて首を振る。あの日、千鶴は山南の命で本命が池田屋であることを土方たちの隊に伝える伝令の役割を果たし、池田屋では隊士の応急処置に駆け回った。のように突入したわけではないので、嘘をついているわけではない。
「それで、怪我の具合は……起きていて大丈夫なんですか?」
「軽傷軽傷! 問題ないって!」
詰め寄って来る伊庭に、が首を振った。本当は大怪我と呼べるほどの怪我が治ったというのが正しい。だが、それを伊庭に言う必要はない。そうですか、と伊庭はほっと息を吐く。
「今後は戦場には出ないようにしてくださいね。君は女の子なんですから」
「……」
念押しされて、は黙り込む。
「……おれが戦場に出るのはそんなにおかしいか?」
確かに役には立たなかった。だが、永倉は言ってくれた。来てくれてありがとう、と。
「君は預かってもらっている身なのでしょう? 本当の隊士ではないはずです。いくら剣術の稽古をしていようと女の子が――」
「もういい、わかった」
が低い声で言う。そして背を向けて歩き出した。
「部屋戻る」
「おい、!」
藤堂が手を伸ばしたが、はそれを払って立ち去った。
木刀を持って中庭に出る。剣を持っている間は、余計なことを考えずに済むからいい。苛ついても、悲しくても、剣を振っていれば雑念は消える。……消えるはずだった。
「くそっ……」
でも、何度木刀を振っても、伊庭の言葉が頭から消えない。女の子なんだから。その通りだ、間違っていない。もっと女らしくしなさい。剣なんて持たない方がよいのでは。喧嘩をするなんてまるで男みたい。昔から言われ続けた言葉が脳裏をよぎる。
女であることを煩わしく思ったことは一度や二度ではない。きっと男だった方が、千鶴を守るという約束も難なくできた。それでも、は女である自分にそれを課した。千鶴を守るのは他の誰でもない、自分であると幼い頃に指切りをした。――でも、それを果たすには、自分はまだまだ弱すぎる。
木刀を振るのをやめて、はその場にしゃがみこんだ。頭を抱える。
「何も知らないくせに……!」
ぎゅっと目を瞑る。悔しくて涙が出そうだった。あんな言葉をかけられるのは今に始まったことではないのに、ぐさりと突き刺さった刃が抜けそうにない。
「ちゃん」
声がかかり、びくりと肩を揺らす。目元を拭って立ち上がる。
「なに」
振り返ると沖田が立っていた。斎藤たち四人も、その後ろに立っている。
「伊庭君には僕から言っておいたから」
「え? なにを?」
「余計な口出ししないで、って」
が目を丸くする。沖田は笑っていなかった。
「強くなりたいんでしょ?」
試すような視線。心に刺さった刃が、抜けていく感覚があった。
笑ったりしない。この人たちは、強くなろうとする自分を笑わない。女だから守られろと言ったりもしない。強くなろうとする自分の意思を尊重してくれる。
「……強くなりたい」
沖田の目を真っ直ぐに見つめ返し、は言う。
今の自分じゃ、千鶴を守るには程遠い。だから、強くなりたい。
沖田が挑戦的な笑みを浮かべる。
「合わせてあげる気はないから。追いついておいで」
どうして自分なんかにそこまで。そう思うよりも、嬉しさが勝った。は勢いよく頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
皆がほっとしたように笑みを浮かべた。