二月に入り、屯所に来て一か月が過ぎた頃。今日は沖田が巡察当番のため稽古がなく、は部屋で寝転がっていた。千鶴とのおしゃべりも話題がなくなってしまった。
「そうだ」
がぴょんと起き上がる。
「土方さん帰って来たんだし、そろそろ外に出してもらえるように頼みに行ってみないか?」
「あっ、そうか」
土方と山南が帰って来てからは、慌ただしい日々が続いていた。土方も落ち着いた頃合いだろう。
「外に出られなくても、何か出来ることがあれば……」
そうと決まれば、と二人は部屋を出て広間に向かった。だが、そこに求めていた人物の姿はなかった。
「誰もいないね……」
「でも、あんまり出歩くのもなあ……」
幹部の誰かがいればよかったが、あいにくと彼らの姿もない。出歩くなと言われている手前、土方捜しにうろつくのも躊躇われる。
すると、広間に背の高い男が入ってきた。この八木邸で暮らして一か月、見た覚えがない人物だった。
「あの、すみません。土方さんを見ませんでしたか?」
「お、おい」
こういう時の度胸は千鶴の方があった。が千鶴の袖を引くが、すでに遅い。男がぎろりと二人に敵意の目を向けた。
「おまえたちはどこの誰だ? なぜここにいる?」
低く問われる。男は刀に手を伸ばした。
「え……あの、私たちは……」
「誰だと聞いている。答えろ!」
怒鳴り声に刀に添えられた手。正直に答えるしかなさそうだと、二人は目を見合わせた。
「わ、私は……雪村千鶴といいます」
「……」
「ほう……副長の小姓と一番組に取り立てられたという見習い隊士とは、おまえたちのことか」
「は、はい」
どうやら屯所内では、千鶴も見習い隊士扱いになっているらしい。隊士とはほとんど会ったことはなかったが、それでも冷たい目で見られることが多かった。目の前の男も然りだ。
「ふうむ……おまえたち、局長や副長とはどんな関係だ? 同じ江戸の出身らしいが、どんな縁故を使って取り入った?」
そこまで話が広まっているのか、と思う。八木邸にいる幹部だけが知っているわけではなかったのか。
「そんなことはしていません!」
「そうムキになるところを見ると、ますます怪しいぞ。ここは、おまえたちのような剣の腕も才覚もなさそうな者が、うろうろしていいところではないんだがな」
そんなもの、無いことくらいわかっている。は奥歯を噛んだ。
「もう一度聞く。どうやって、あの二人に取り入った?」
「……」
二人は答えない。答えられる言葉を持ち合わせていなかった。
「この私、武田観柳斎が聞いているのだぞ! なぜ答えない!」
武田と名乗った男が鯉口を切ろうとしたその時。
「おい、武田! こんなところで何をしている?」
広間に聞きなれた声が飛び込んできて、内心ほっと息を吐いた。土方だった。武田は抜こうとした刀を納める。
「これはこれは土方副長……なに、近藤局長に少々用がありましてね」
先程までとは違う声音で、武田が言う。土方は険しい表情のままだった。
「ほう……俺は何も聞いちゃいないが」
「最近お姿が見えない山南総長の代わりに、相談に乗ってほしいと言われているのです。しかし……近藤局長もいらっしゃらないようなので、私はこれで失礼します」
そう言うと武田は広間を立ち去ろうとする。
「……ところで、土方副長。その者たちを小姓と一番組に取り立てたというのは本当ですか?」
足を止めて武田が問う。土方が眉を寄せた。
「ああ……少しばかり訳ありでな」
武田が頷く。
「承知しました。訳ありならば、詳しく聞くのはやめておきましょう。ですが、あまり同じ郷里の者ばかりを周りに囲うのはいかがのものかと思います。では、失礼」
最後に嫌味を言って、武田は姿を消した。二人は揃って息を吐く。
「おい、おまえら。屯所の中を勝手に歩くんじゃねえ!」
「はい! すみませんでした」
千鶴が背筋を伸ばしてから頭を下げた。も軽く頭を下げる。
「おまえらの正体を知っているのは、この八木邸に寝起きしてる奴だけだ。前川邸からこっちに来る奴らには気をつけろ。いいな」
前川邸とは、この八木邸の近くにある屯所のことだ。八木邸よりも広く、隊士のほとんどは前川邸で暮らしている。
「わかりました、これからは気を付けます」
「それで、誰なんですかあいつ。やな感じ」
「ちゃん」
千鶴に袖を引かれた。
「あいつか……五番組組長の武田観柳斎ってやつだ。腕はそこそこだが、文学だか軍学の多少の知恵を持っている奴だ。抜け目のない奴だからな……気をつけろ」
「はい」
「組長なのか……」
八木邸の幹部たちとはずいぶん違うものだとは思う。
「それから、用がないならおまえらもこの辺でうろうろしてないで部屋に戻っていろ」
「あの……私たち、土方さんにお願いがあったんです」
千鶴が慌てて言う。
「何もしないで部屋に籠っているのは、皆さんにも申し訳なくて……何かお手伝いをさせてもらえませんか? 掃除でも洗濯でもなんでもやります!」
「おれは一番組って一応言われてるんだから、稽古とかしたいなあって」
土方は二人の言葉に眉を寄せた。
「部屋に籠っているのはそんなに退屈か?」
「それはその……多少は……」
「めっちゃ暇です」
また袖を引かれた。土方が溜め息を吐く。
「……わかった。源さんに伝えておくから、雪村は後で指示を仰げ」
「本当ですか!?」
「は総司に稽古つけてもらってるんじゃなかったのか?」
「沖田さんはいつも暇なわけじゃないし。部屋で素振りはできないです」
「わかったわかった、おまえは中庭にでも出て刀振ってろ。源さんの手伝いもしろよ」
「やった!」
はあ、と土方がまた溜め息を吐く。
「その代わり、あまり外から来た奴と関わるんじゃねえぞ。いいな」
「わかりました。あの……ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
後から井上がやってきて、屯所内に限って行動範囲を広げてもいいと知らされた。そして、掃除、洗濯、炊事の許可と、稽古の許可が出た。
「あの……ちゃんにお料理はちょっと無理かなって、思うんですけど……」
千鶴が言いにくそうに井上に告げた。はあははと笑いながら目を逸らした。井上はおかしそうに笑う。
「なに、みんな不得意ながらも協力して頑張っているんだ。君も慣れるさ」
「そうかなあ……」
ということで、二人は昼食の手伝いをすることになった。
「じゃあ、君は魚を焼いてくれるかい?」
「おっ、簡単そうだな。任せてよ!」
が七輪を持って勝手場から外に出る。火をつけて、魚を網に乗せて……さて、いつまで焼けばよいのだろうか。首を傾げながらは魚を見つめていた。もう少し火が強くないと魚も焼けないのでは? と思い炭を追加してうちわで仰ぎ始める。火はごうごうと燃え盛り、もくもくと煙を上げ始め――
「ちゃん、焦げてない!?」
勝手場から千鶴が飛び出してきた。
「え? まだ焼けてなくない……?」
「ひっくり返すんだよ!」
「あ? ああー! なるほど!」
「あとそんなに火は強くなくていいの!」
「は魚を食べたことがないのか……?」
勝手場の中から斎藤の怪訝な声が聞こえた。
こうしてその日の夕食と翌日もは手伝ったのだが、その甲斐なく、千鶴が「食材を無駄にしたくないので」「私が二人分働きます」と頼み込んだことで、は食事当番からは外されることになったのだった。