大坂から土方と山南が帰って来た。山南の左腕の怪我は大きく、完治には程遠いことがわかった。そのせいで部屋から出てくることが減り、時折姿を見せたとしても刺々しい態度を取ることが増えた。
 京の冬は骨も凍るほど寒いのだと、一月に入ってから何度思ったかわからない、ある寒い日のこと。は中庭で沖田に稽古をつけてもらっていた。カンカンと木刀が打ち合う音が中庭に響く。懐に入ろうとするの動きを読んで、沖田はするりと僅かな動きで避けてしまう。たたらを踏むの背に、ガツンと容赦なく木刀を振り下ろした。

「いってえ!」
「なんでそんなに懐に入りたがるのかなあ……もう少しいろんな攻め方学んだ方がいいよ」

 地面に膝をついて背をさするを見下ろしながら、沖田が呆れた顔で言う。

「おれよりでかい奴相手なら、懐入っちまった方が有利だからだよ」
「それもそうなんだけど」

 はあ、と沖田が溜め息を吐く。

「まあ、付き合うって言った手前、僕は君のこと強くする気だから。その道場剣術に毛が生えた程度の腕前、少しはましにしてもらわないとね」
「くそー! お願いしますー!」

 嫌味を言われても、沖田の剣が今まで相手にした誰よりも強いことがわかって、はやる気に満ちていた。斎藤の静かな剣術とも違う。ただ、強い。技量がある。どんな攻め方をしても僅かな動きであしらわれる。何度か稽古をつけてもらって、天才とはこの人のことを言うのかもしれないとは感じていた。他の組長の強さはまだ知らない。斎藤と直接剣を合わせたわけでもない。それでも、この人は確かに強い。もし他の組長も同等の強さを持っていたら? ――自分は、この集団から千鶴を守ることはできない。だから、相手が協力してくれるうちに利用しなければならなかった。自分は、強くならなければならないのだから。

「もう一本!」
「今日は終わり」

 そう言って沖田は縁側に腰かけた。はぜーぜーと肩で息をしながら、不満げに沖田を見下ろした。沖田は息一つ乱していない。

ちゃんって、道場では大人も相手にしてたって言ってたっけ」

 手招きされて、仕方なくは沖田の隣に腰かける。

「大人も相手になる人いなかったけど」
「ふーん。僕と一緒だ」
「沖田さんも?」
「試衛館時代、相手がいなくてさ」

 思い出すように遠くを見ながら、沖田が言う。

「試衛館って?」
「近藤さんのところの道場。天然理心流の道場だったんだけど、近藤さんとはその頃に出会って……土方さんと源さんが僕と同じく門下生で、食客に山南さん、新八さん、左之さんと平助。一君も遊びに来てたっけ」

 ということは、幹部はほとんどが新選組結成前からの知り合いということになる。それは仲が良いはずだ、と思った。

「じゃあ、沖田さんはやっぱり新選組で一番強いのか?」
「うん」

 あっさりと返され、は目を丸くした。の驚いた顔に、沖田はにこりと笑みを返す。

「そうじゃないと、一番組の組長なんて名乗れないでしょ」
「そうか……」

 なるほど。ということは、強くなるために沖田に師事することは正しいのだろう。は強くなるためならなんでもやった。剣術も習ったし、体術に関しても人並み以上にはできる。ただ今の時代、刀を扱うことが強さの証になるからそれを選んだのだ。もっとも、今では銃や大砲が戦術として使われていることも知っていた。

「よし、じゃあもう一本!」

 が元気になって立ち上がる。沖田は呆れた顔を向ける。

「今日は終わりだってば。痣になってるだろうから、源さんに湿布でも貰って貼っておきなよ」
「こんなの、一晩寝りゃ治るよ」
「……」

 なんてことのないように言い放つに、沖田は眉を寄せた。

「その体質、大怪我してからって言ってたよね」
「そうだけど」

 一人で素振りを始めながらが答える。

「どんな薬を飲んだの?」
「知らない。雪村先生に治してもらったんだ」

 沖田の表情を見ずには言った。彼が一層顔を顰めたことには気が付かなかった。

「千鶴を守るっていういいことをしたから、そういう体質になったんじゃないかって先生に言われたけど」

 は言わなかったが、千鶴も似た体質で怪我が早く治る。だから、そういう人間もいるのだろうと不思議に思ったこともなかった。

「気味悪いと思わないの? 普通の人間はそうはならないよ」
「いや? だって便利だし」
「便利ね……」
「多少の無茶は利くから便利だよ」
「ああー」

 納得したような呆れたような声に、は素振りをやめて振り返った。沖田は眉間に指をあてて俯いていた。

「君の剣術の欠点がわかった気がする」
「本当!? なに!?」

 ばっと顔を近づけては急きこんで聞いた。沖田はその目を真っ直ぐに見返して口を開く。

「自分の命を大事にしてないんだ」

 は納得するどころか首を傾げる。

「そんなことないよ。おれは千鶴を守るために死ぬわけにはいかないってずっと思ってる」

 千鶴を守るのは自分だと言い聞かせてきた。他の誰でもない、男でもない、女である自分にそう課してきた。だから剣術の腕を磨いたし、時には喧嘩だってしてきた。すべては千鶴を守るためだった。幼い頃に交わした約束のためだった。

「気付いてない、か。まずはそこからかな」

 溜め息を吐きながら沖田が小さく呟いたが、の耳にその小さな言葉は入らなかった。

「おーい、総司に。夕飯の準備ができたぜ」

 原田が千鶴と共にやってくる。原田は最近夕飯の時間になると、一緒に食べようと呼びに来るようになっていた。

「また二人で稽古してたのか? 随分仲良くなったんだな」
「そんなんじゃないんだけどね」

 沖田が言う。だが、この数日が隊務に出ていない暇そうな沖田を見つけるなり、木刀二本を持って中庭に引っ張っていくという姿が、この八木邸でよく見られる光景となっていたのは確かだった。

「はい、じゃあ今日は終わりね」

 沖田が立ち上がって伸びをする。夕食の準備ができたと言われたら、稽古も終わりにするしかない。

「……ありがとうございました」

 ぺこりとが頭を下げる。

「不満そうにしないの。明日も巡察終わったら付き合ってあげるから」

 ぽんぽんと頭を優しく叩かれる。ががばっと顔を上げた。

「やった! よろしく、沖田さん!」

 夕食が終わり、膳を勝手場に運び終えて、二人は部屋に戻ってきた。

「あー、さむ……」
「今日も冷えるよね……」

 早く布団を敷いて温まろうと二人で準備をしていた時だった。今日の八木邸はなんだか騒がしかった。あちこちを走り回るような足音が聞こえる。二人は顔を見合わせた。

「何かあったのかな……見に行った方が……」
「いや、でもおれたちが行っても邪魔になるんじゃないか……?」

 そもそも、自分たちが触れてもいい騒ぎが起こっているとも限らない。もし、あの日の夜の白髪の連中や『らせつ』という存在に触れるようなことがあれば、今度こそ自分たちは明日の朝日を拝めない。新選組はいろいろな秘密を抱えているし、それに触れさせないことで自分たちを守ってくれているのだから。

「でも、もし火事とか斬り合いだったら……寝てる場合じゃない、よね?」
「おい、千鶴……!」

 が止める間もなく、千鶴は障子戸に近付き、手をかけた。引き開ける前に、障子戸が音を立てて開いた。

「おまえら、やっぱり起きてたか。悪いな、うるさくしちまって」
「原田さん!」

 がほっとして声をあげた。今の時間の見張り当番だったのだろう。とりあえず、火事や斬り合いが起きているわけではなさそうだ。

「あの……何かあったんですか?」
「ん? まあ、ただの捕り物だよ。夜の巡察に出てた隊士が、怪しい浪士を捕まえたとかでな」

 原田が答えてくれる。

「そういや、まだこの手の騒ぎに出くわしたことはなかったか。新選組の夜の巡察じゃ、よくあることだから心配はいらねえ。おまえらもそのうち慣れるさ。つうか、ここで暮らす以上慣れてもらわなきゃならねえんだが」

 優しい口調だが、それは『これ以上詮索するな』と同義だとわかった。慣れろ。騒ぎにも、何かを隠されていることにも。廊下を走る足音や、隊士の怒鳴り声などが聞こえてくる。千鶴が怖がっていることに、は気が付いた。

「原田さん、暇なら少し話しようよ」

 がそう提案する。今二人でいるよりは、ここに安心できる幹部がいてくれた方がいいと判断した。

「ちょっと、ちゃん……!」
「はは、いいぜ。面白い話は何もできねえがな」

 原田はそれに気がついてか、部屋の中に入って畳に腰を下ろした。部屋の外は相変わらず騒がしく、聞き覚えのある声も混じっているようにも思えた。

「これだけの騒ぎになっているのに、私たち、ここにいていいんでしょうか?」

 千鶴が問う。

「あの、もし隊士さんがお怪我をしているなら、私、医術の心得がありますから、お役に立てると思います」

 が目を逸らした。こういう時、剣術しかやってこなかった自分にできることはない。

「気にするな、つっても無理な話か。だが、おまえが気にすることじゃねえ。怪我の手当ができる隊士もいるしな」
「……」
「おまえはまだ預かりの身だってことを忘れねえ方がいい」

 そうだ。自分たちは、隊士でもなんでもない。まだ見張りがついている、預かりの身。居候の身。何ができる、というより、何をさせてもらえるのだろう。

「手伝いを申し出てくれた気持ちはありがたいが……夜の巡察だとこういうのはよくあるからな。安心して部屋にいろ」
「よくあるのか……」
「ああ、京は物騒だからな」

 が思わず零した言葉を拾われる。千鶴がごくりと唾を飲んだ。

「やっぱり、あの夜のようなことは、よく起きるんでしょうか?」

 が息を呑む。その話題は、まずい。が何か言う前に、原田が千鶴に近付いていた。そして、その喉元にぴたりと、人差し指を当てる。

「……詮索はそこまでにしとけ」

 低い声で。それは、いつも優しい原田とは別人のような所作で、は一歩も動くことができなかった。なんだ、この空気は。この冷たさは。ひやりとするのは冬だからではない――そう、これは殺気だ。

「俺は聞かなかったことにしてやれるが……もしここにいるのが別の誰かだったら、この首が飛んでたかもな」

 千鶴は動かない。も動けない。全身に当てられている殺気に、指一本でも動かしたら首が飛ぶと思わされた。
 やがて指をはずし、原田は元の位置に戻った。

「脅すような真似をしちまって悪かったな。だが、俺たちの事情に立ち入れば立ち入るほど、おまえたちは元の暮らしから遠ざかっちまうことになる」

 そう言って原田は天井を見つめた。

「俺としちゃ、おまえたちをこっちの世界にゃ踏み込ませたくねえ。あの夜に起きた出来事は、悪い夢だと思って忘れろ。いいな」
「……は、い」
「……」

 千鶴がなんとか返事をしただけだった。そんな言葉も出ない二人を見て、原田は苦笑する。

「安心しろ。あんな目には、二度と遭わせねえよ」

 その声は、いつもの原田のものに戻っていた。まるで先程の殺気は錯覚だったかのようだ。

「騒ぎも収まったみてえだな。よし、それじゃ俺もそろそろ退散するか」

 そう言って原田は立ち上がる。

「夜更かしせずに、さっさと寝ろよ。いい夢でも見て、余計なことは忘れちまえ」
「ああ、おやすみ……」

 がようやくそう言った。原田は満足そうに頷いて、部屋を出て行った。
 二人は無言で布団に入った。千鶴が眠れていないことには気付いていたが、は声をかけなかった。千鶴の父を捜しに来た。新選組の事情に立ち入りに京まで来たわけではない。死にに来たわけではない。だから、彼らの好意に甘えて、自分たちは立ち行ってはいけないのだ――
 急に障子戸が開いて、は飛び起きた。白髪で赤い目の、浅葱色の隊服の男たちが何人も部屋に入って来る。服は返り血に塗れていて、抜き身の刀を持っていた。脇に置いてある刀を手に取って、千鶴を起こそうとする。だが、千鶴は起きない。刀も、錆びついたかのように抜けなかった。なぜか声を出すこともできない。

「ひゃははははは!」

 男が刀を振り上げた。
 誰か、誰か、原田さん、沖田さん、誰でもいいから助けに――!
 ――そうして、は自分の頭蓋骨が割れる音で目を覚ました。朝になっていた。むくりと起き上がって、隣を見る。千鶴の布団は規則正しく上下しており、眠っているのがわかった。はそれに安堵の息を吐いて、起床の準備をする。
 部屋に置きっぱなしだった木刀を持ち、静かに障子戸を開けて、廊下に出た。廊下は部屋以上に寒く、少しの眠気も許さないとばかりに頭が覚醒した。そのまま中庭に出て、は素振りを始める。
 こんな夢を、何度も見る。千鶴を守れない夢。自分も殺される夢。誰も、助けてくれない夢。
 きっと、彼らが自分たちを殺す時はこんな感じだ。自分は殺気で指一本と動かせないうちに殺される。昨日の原田のように。だから強くならなければならない。ここじゃ、自分は千鶴を守れない。夢を見る度、沖田との力の差を見せつけられる度に、そう思う。どうすれば千鶴を守ることができるのか、今では絶対に無理だという答えしかでなくて、毎日が怖い。

「おはよう、ちゃん。今日は一段と早いんだね」

 思わず肩が跳ねた。振り返ると沖田が怪訝な顔で立っている。

「おはよう、沖田さん」

 それを隠して、は笑う。心の内など絶対に見せないと誓って、彼らと接する。それが、今できる最大限の防御だと思うのだ。