そしてその日の夕方。暇だ暇だと言っていたは昼寝をしていた。一人になった千鶴は、はあ、と息を吐く。

「いつまでこんな生活が続くのかな……父様が無事かなんてここにいる限りわからないし、外出許可は土方さんが帰ってくるまでわからない」

 ちらりと背を向けているを見て、また息を吐く。

「でも……今のところ、皆さん良くしてくれてるし……きっと、根は良い人たちだよね……?」
「君さ、騙されやすい性格とか言われない?」

 突然の声に、千鶴は飛び上がりそうになった。

「!? ど、どど、どうして沖田さんがっ!?」

 千鶴が開けっ放しの障子戸のところでにやにやと笑っている沖田に向かって叫ぶ。

「あれ、もしかして気付いてなかったとか? この時間帯は僕が君の監視役なんだけどな」
「もしかして、今の私の独り言も全部……?」
「ん? 何か言ってたの?」

 にこりと笑う沖田に、聞かれていたことを確信して千鶴は顔を赤くした。

「あと、二人なのに独り言って、不思議なことするんだね」
「いえ、ちゃんは寝ていて……」
ちゃん起きてるよ」
「えっ!?」

 ばっと視線が背中に向く。ばつが悪そうに起き上がり、は頭を掻いた。

「……ごめん、起きてた」
「い、いつから……!?」
「千鶴が喋り出したあたりから……」
「なっ、なんで止めてくれなかったの!?」

 沖田は腹を抱えて笑っている。

「総司。無駄話はそれくらいにしておけ」

 そして、斎藤がやってくる。千鶴はぽかんと口を開けた。

「……あの! 斎藤さんも、今の話、聞いていたんですか!?」

 斎藤は表情を変えない。

「つい先程、来たばかりだが」
「よかった……!」

 千鶴が胸を撫で下ろす。

「あ、その、すみません。私、いきなり声をあげてしまって……」
「気にするな。……そもそも今の独り言は、聞かれて困るような内容でもないだろう」
「!」

 ぐさりと刺された感覚。ついにが噴き出した。

「た、確かに隠さないといけないような内容の独り言ではないですけど……! 独り言を言っていたということが……私にとってはその……問題で……」

 千鶴がを睨むと、は申し訳なさそうに手で謝罪しながらも肩を震わせていた。

「夕飯の支度が済んだのだが、邪魔をしただろうか? あんたと総司の話に一区切りがついたら、声をかけるつもりだったんだが……放っておくと長引きそうだったからな、話の腰を折らせてもらった」
「いやいや、いいんだよ斎藤さん」

 がくつくつと笑いながら立ち上がる。千鶴が頬を膨らませた。

「もう、ちゃん!」
「ごめんってば」

 廊下を走る騒々しい足音が近付いてくる。そして、藤堂が部屋に駆け込んできた。

「あのさ、飯の時間なんだけどー」

 不満げに頬を膨らませているのはこちらも同じだった。

「すまん平助、今行く」

 斎藤が謝罪する。

「ああ。千鶴に、おまえらも急げって。早くしねえと食うもの無くなっちまうからさ」
「ごめんなさい、藤堂さん。すぐに行きます」

 千鶴が立ち上がる。藤堂が眉を寄せ、頭を掻いた。

「あー、その藤堂さんってやめない? みんな平助って呼ぶから、それでいいよ」
「で、でもいいんですか……?」

 藤堂が笑みを浮かべる。

「歳も近いから、そのほうがしっくりくるし。あと、そのですますもやめようぜ。も気軽に呼べよな」
「おう、わかった」

 既に幹部に敬語など使っていなかったがすぐに頷いた。出遅れた千鶴が、あ、と声を漏らす。

「……じゃあ、平助君、でいい?」
「そそ、それでいいよ。んじゃ早く行こうぜ!」

 こうして五人で広間へと移動した。広間には既に食事が用意されており、原田と永倉が定位置についていた。

「ようやく来たか」
「おめえら遅えんだよ。この俺の腹の高鳴りをどうしてくれんだ?」

 原田と永倉がそれぞれ声をかけてくる。はあ、と藤堂が溜め息をついた。

「新八っつぁん、それってただ腹が鳴ってるだけだろ? 困るよねえ、こういう単純な人」
「おまえらが来るまで食い始めるのを待っててやった、俺様の寛大な腹に感謝しやがれ!」
「新八、それ寛大な心だろ……」

 原田と永倉の間に千鶴が座り、永倉の隣に藤堂が座る。そして、その向かい側に沖田、、斎藤と並んで座った。監視のためだろうが、は千鶴の隣でないことが不満だった。

「それじゃあ、いつものように自分の飯は自分で守れよ」

 原田の声が合図だった。いただきます、と言って食事が始まる。

「今日も相変わらずせこい夕飯だよなあ。というわけで……隣の晩御飯、突撃だ! 弱肉強食の時代、俺様がいただくぜ!」
「ちょっと、新八っつぁん! なんでオレのおかずばっか狙うかなあ!」
「ふははは! それは身体の大きさだあ! 大きい奴にはそれなりに食う量が必要なんだよ」
「じゃあ、育ち盛りのオレはもっともっと食わないとねー!」

 いきなり騒ぎ始める永倉と藤堂を向かい側に見ながら、は沖田と斎藤の間で静かに食事をとっていた。こちら側は静かでいい。千鶴の方は大変だなと思う。
 しばらくして沖田が箸を置いた。

「沖田さん、もう終わりか?」
「うん、あんまりお腹一杯に食べると馬鹿になるしね」

 が問うと、沖田は食べかけの膳を避けて、脇の酒に手を伸ばしていた。

「おいおい馬鹿とは聞き捨て……だが、その飯はいただくぜ!」

 永倉が自分の膳を越えて突撃してくる。

「どうぞどうぞ。僕はお酒をチビチビしてればいいし」
「んじゃ、俺も酒にするかな」

 原田は綺麗に食べ終わった後だった。

ちゃんと千鶴ちゃんは、ただご飯とか気にしないで、お腹一杯食べるんだよ」

 沖田がのんびりと言った。千鶴は咀嚼した米を飲み込んでから、口を開く。

「わ、わかってます。少しは気にしてます! 私は!」
「千鶴、おれも多少は気にしてる」
「気にしなくてもいいが……自分の飯は自分で守れ」

 斎藤が言った。
 しかし賑やかだな、とは思う。男所帯というのはこういうものだろうか。には父と母がいる。父は静かな人だったし、兄も弟もいないからよくわからない。でも、千鶴が楽しそうに笑みを浮かべているのを見て、も頬が緩んだ。家族が父しかいない千鶴は、父が京に出てきてからは一人で食事をとることが多かっただろう。時々も家に呼ぶことはあったが、千鶴が申し訳ないからと言ってそう頻繁に来ることはなかった。

「千鶴。最初からそうやって笑ってろ。俺らも、おまえを悪いようにはしないさ」
「原田さん……」

 そんな会話が聞こえ、の箸が止まる。
 悪いようにはしない。本当だろうか。はまだ新選組という組織を信頼しきっていなかった。こうして笑い合い騒ぎ合う仲であっても、彼らが刀を持てば、否、その腕さえあれば自分たちを組み敷くことは可能なのだ。女と男の絶対的な力の差。それを忘れてはいない。

「心配しなくていいよ」

 ぽつりと隣から小さな声が聞こえた。が隣に目を向ける。

「君たちが僕たちの害にさえならなければ、僕たちが何かすることはないから」

 沖田が正面で笑い合う千鶴と原田を見ながら言う。

「害になるつもりはないけど」

 も小さく呟く。そうして、また正面に目を戻した。久しく見ていなかった千鶴の安心したような笑顔に、は気が引き締まる思いだった。

「あんたらが千鶴の害になったら、おれは全力で抵抗するよ」
「うん。だから、今はお互い協力しようってことでいいんじゃないの? ……守りたいものが同じならね」

 はまた隣に目を向ける。

「え? 守りたいものって――」
「ちょっといいかい、みんな」

 広間の戸が開いて、井上が入ってきた。和やかだった空気が変わる。

「大坂にいるトシさんから手紙が届いたんだが、山南さんが隊務中に重傷を負ったらしい」
「え!?」

 千鶴が声をあげた。沖田が持っていた盃を床に置く。

「何があったの?」
「ああ……二人が訪ねる予定の大坂の呉服屋に浪士たちが無理矢理押し入ったらしい。駆け付けたトシさんと山南さんが、なんとか浪士たちを退けたらしいが、その時に斬られたそうなんだ」

 二人きりだったとはいえ、新選組の幹部に怪我をさせられるだけの腕のある浪士だったのか、それとも人数がいて捌ききれなかったのか。

「それで山南さんは?」

 が問う。

「相当の深手だと手紙に書いてあるけど、傷は左腕とのことだ。剣を握るのは難しいみたいだが、命に別状はないそうだよ」
「よかった……!」

 井上の言葉に、千鶴がほっと胸を撫で下ろした。命がある、ひとまず安心できる。そう思ったのは千鶴だけのようだと、は周囲の反応を見て思う。誰一人として、安心したという表情をしていなかった。

「数日中には屯所へ辿り着くんじゃないかな。……それじゃ、私は勇さんと話があるから」

 井上はそう言うと、広間を出て行った。

「剣を握れないほどの深手か……腕の筋まで断たれているかもしれん」

 斎藤が静かに言う。
「刀は片腕で容易に扱えるものではない。最悪、山南さんは二度と真剣を振るえまい」
「あ……」

 千鶴は自分だけが安心していたのだと気づいた。ちらりとに視線が向く。は無言で頷いた。

「片腕で扱えば、刀の威力は損なわれる。そして、鍔迫り合いになれば確実に負ける」
「だろうな……」

 が呟く。それは剣術に詳しくないであろう千鶴とに向けての言葉だったが、には十分に理解できていた。刀を握れなくなった新選組の幹部はどうなるのだろうか。除隊になるのか、それとも刀を使わないような裏方に回るのか。

「薬でも何でも使ってもらうしかないね。山南さんも納得してくれるんじゃないかなあ」

 沖田が言った。永倉が睨む。

「総司、滅多なこと言うもんじゃねえ。幹部が羅刹になってどうするんだよ」
「『らせつ』?」
「『らせつ』ってなんですか?」

 問いは同時だった。と千鶴が聞きなれない言葉に首を傾げていた。ああ、と藤堂が声をあげる。

「羅刹ってのは、薬を飲んだらどんな怪我も治っちまう――」
「平助!」

 原田が突然藤堂を殴り飛ばした。ガタンと大きな音が鳴り、空になった皿や膳がひっくり返って響き、藤堂は壁際まで大きく吹っ飛んだ。

「いってえなあ、もう……」
「平助君、大丈夫……?」

 頬を押さえながら起き上がる藤堂に、千鶴が近付き助けようとする。藤堂はそれを手を上げて断った。はあ、と永倉が息を吐く。

「……やりすぎだぞ、左之。悪かったな、平助。先に口を滑らせたこっちも悪かった」
「大丈夫か? 悪かったな」

 原田が申し訳なさそうな顔で謝罪する。

「いや、今のはオレが悪かったけど……ったく、左之さんはすぐ手が出るんだからなあ」

 藤堂は仕方なさそうな顔で言った。まるで気にしていないという様子だ。

「千鶴ちゃん、。今の話は、二人が聞いちゃいけない話に、ほんのちょっと首を突っ込んだところだ。これ以上のことは教えられねえんだ。気になるだろうけど、何も聞かないで欲しい。それと、さっきの平助の話は忘れてくれ」

 永倉が近くにいた千鶴の頭をぽんぽんと撫でた。千鶴が俯き、は眉を寄せた。

「羅刹っていうのは、可哀想な子たちのことだよ」

 冷たい声で沖田が言う。
 可哀想な子。その言葉で、『らせつ』というものが歓迎されていないものであることは理解できた。だが、山南をそんな『可哀想な子』にしようと言い出したのは沖田ではないかとは思う。

「おまえさんたちは何も気にしなくていいんだって。だから、そんな顔するなよ」
「……」
「忘れろ。深く踏み込めば、あんたらの生き死ににも関わりかねない」

 斎藤が言う。と千鶴は無言で頷いた。

「さて、飯を再開するか……って、おいおい! 俺の飯がひっくり返ってるじゃねえか!」
「ああ、悪い。さっき平助を殴った時か……」
「左之てめえー!」

 取り繕ったような賑やかさが戻る。
 壁があった。それは彼らが彼ら自身を守る壁ではなく、自分たちを守るための壁だとは感じた。立ち入らせないことで、彼らは守ってくれている。それでいいと思う。自分たちは『新選組』ではないのだから。だから立ち入らない。はそう決めた。

「らせつって……仏教でいう『羅刹』のことかな」

 夜。布団にもぐった二人は、なかなか寝付けずにいた。

「仏教?」
「そういう名前の鬼神がいた気がする」

 ふうん、とは相槌を打つ。

「でも、薬を飲むとか、『幹部が羅刹になる』っていうのは――」
「千鶴」

 が遮った。

「やめよう。あっちはおれたちに深入りさせないようにしてくれてるんだから」
「……うん、ごめん。そうだね」

 新選組の秘密を知っても喜ぶ人は誰一人存在しない。口封じに殺されでもしてはかなわない。そうなれば、千鶴の父を捜すこともできなくなる。

「おやすみ、ちゃん」
「おやすみ、千鶴」

 それっきり、会話はなかった。