天使の話
「お若いの。“天使”の話は知っておるか?」
老人が問いかけた。
問われた男は眉間に皺を寄せる。
「天使?」
「何だ、おっさん。そんなのも知らないのか? イシュヴァール人なら知らないヤツはいないぜ?」
男の横で少年が呆れたように息を吐く。
いいか? と少年は指を立て、男の視線を自分に向けると話し始めた。
「六年前、国家錬金術師を投入してのイシュヴァール人の殲滅戦があったろ? その時、一人の女の子が現れたんだ」
「子供? 戦場にか?」
男が驚いて問い返す。
少年の代わりに、老人が頷いた。
「そう。わしを含めた十数人のイシュヴァールの民は、戦火から逃れる為建物の中に隠れていたんじゃ。その中で、一人の女性がずっと泣きつづけていた。逃げる途中で逸れてしまった娘の名を呼びながら」
その場にいなかった男も、その様子は鮮明に想像ができた。
あちこちで銃声や爆音が響き、悲鳴が聞こえる。そんな戦火から逃れるため、離れた建物の中に皆で体を寄せ合い隠れていたのだろう。
「そんな時、突然見張りをしていた男が駆け込んできてな、こう叫んだ。『アメストリス人の少女が一人、あんたの娘を抱いてこっちに向かってきている』……とな」
少年は老人の話を目を輝かせて聞き入っていた。
老人は一つ息を吐いて、続けた。
「我々は驚愕した」
戦場で別れた子供とは、もう二度と会えないだろうとその場にいる誰もが思った。あの、女も子供も老人も構わず殺されていく戦いの中、生きて会える事など無いだろうと誰もが諦めていた。
だが、そんな絶望しか無い彼らのもとに、奇跡が訪れた。
「その少女は幼いながらも青の軍服を着ていた。怪我をしていたようで、軍服は血に染まっていたが、しっかりとした足取りで我々の方へと歩いてきた。腕に無傷の4歳の子供を抱いて」
「その少女は軍人だったのか?」
「そのようだ。まだ10歳かそこらの子じゃった」
昔を思い出すように、老人は柔らかく微笑む。
「少女は娘を母親に手渡した。当然、母親も我々も大喜びしたよ」
「結局、その子は名前は言わないで帰っていったんだって。でも、その子は言ったらしいんだ。『生きていればまた会えるから。名前はその時でいいじゃないですか?』ってさ」
この少年は、母親がイシュヴァール人であると言っていた。イシュヴァールの地で育ったわけではないのかもしれないし、あの地の生き残りであったとしても六年前であれば鮮明な記憶など無いだろう。実際に会った者ではなくとも、その少女の話は聞かされているという事だ。
少年は明るく笑って言った。
「そして、その少女は俺達にこう呼ばれてるんだ! 戦場に似合わない笑顔と優しさを持っていて、青空のように綺麗な青い髪を持っている……“青い天使”って!」
そんな話があったとは知らなかった。と同時に、無理も無いとも思う。自分以外のイシュヴァール人にはこれまで会ったことは無かったのだから。
ふと視線を上へと移す。布を繋ぎ合せて作られたテントの中、隙間から僅かに見えるのは青空。
「青いって部分は、髪もそうだけど軍服の事じゃないかっていうのもあるけど。噂は流れていくと、元は何だかわからなくなっちまうしね」
笑いながら少年は肩を竦める。
「だが、これは噂ではない。真実なのだ」
青空から目を離し、男は老人に目を戻した。
老人は微笑む。
「彼女は去り際に言ったよ。『いつか、こんな醜い争いのない。平和な国になるといいですね』と」
大人びた口調で。でも子供のような明るい笑顔で。
その僅か10歳程の少女は、そう言ったのだ。
「軍人にも、アメストリス人にも、彼女のような優しさを持った人もいるということじゃ。我々はこの事実を語り継いでいき、再びあの醜い争いを起こさぬようにせねばいかん」
老人は男を見て、そして少年へと目を向けた。
自分よりも若い者へと。目が合った少年は笑顔で頷いた。
「きっと彼女も生きているじゃろう。次に会うときは、きちんと名を訊かんとなあ」
「オレ、一度会ってみたいんだよなあ! “青い天使”に!」
どんな人なんだろう、と少年は嬉しそうに言う。
男ははっとした。
「……青い髪の軍人……子供……?」
―― あんた……人の命を何だと思ってるの?
以前、イーストシティで鋼の錬金術師を殺そうとしていた時、目の前に立ちはだかった国家錬金術師を思い出す。
まだ子供と呼べる年齢の、青い軍服をまとった少女。
「……あいつか……?」
思い返してみれば、あの雨の降る中でも、彼女の髪は青空のような色をしていたかもしれない。
「知っているのか?」
「……いや……何でもない」
呟きを聞いて問いかける老人に、男は首を振った。
何であれ、彼女が国家錬金術師である限りは自分の敵。
そう思って、男は目を瞑った。
「……“青い天使”……か」
―― 名乗る程の者じゃない……なーんて、かっこいい事言える程人間出来ちゃいないですけど
―― でも、また会えるじゃないですか。生きていればまた会えます。
―― 名前は……その時でいいんじゃないですか?
男はその“天使”の名を知っている。
彼女の名は……―――