『……ああ、そうか……そういうことか……』

 声が聞こえる。
 それは、よく聞き慣れた声だった。
 だが、何も見えない。

 視界はただひたすら『赤』だった。

『ハッ……馬鹿馬鹿しい……簡単な事じゃねえか……』

 自嘲染みた笑い声。
 そして、何かが引きずられる音が聞こえる。
 音はだんだんと近付いて来て、すぐ近くで止まった。

『……間違ってたのは、俺の方だったんだ』

 “彼”が笑いながら、両手を合わせるのが見えた――気がした。

 気がしただけなのは、そこで“私”の意識は途絶えたからだ。




19.「またね」





 見慣れた天井が見えた。
 自分は一体何をしていたんだっただろうか、としばし考え、思い出す。ここはロイの執務室だ。応接用のソファに横になった状態でロイと話をしていた記憶はあるが、途中で眠ってしまったらしい。
 まだ痛む身体をゆっくりと起こすと、テーブルの上にあるすっかり冷めてしまった飲みかけのコーヒーが目に入った。それに左手を伸ばし、一気に飲み干す。相変わらずいつ飲んでもまずい東方司令部名物のコーヒーは、冷たくなって更にまずくなっていたが、寝起きの乾いた喉を潤す役割はきちんと果たしてくれた。
 カップをテーブルに戻し、頭を掻く。
 何か、夢を見たような気がする。どんな夢だったかは思い出せない。
 ただ、懐かしい気がしたと同時に、酷く息苦しかったような気もする。だから、喉が渇いていたのかもしれない。
 思い出そうと試みるが、それは部屋に鳴り響いた音によって遮られた。
 音の発信源に目を向ける。見るまでもなくわかっていた。電話が鳴っている。
 どうやら、この執務室の主は、自分が寝ている間にどこかに行ってしまったようだ。この部屋には自分しかいない。は息を吐いて、仕方なく立ち上がった。

「はい、。大佐はいないよ」

 受話器を取って、すぐにそう言う。

『いえ。将軍へお電話です』

 電話交換手が答えた。は首を傾げる。

「私に?」
『はい。中央司令部のグラクシー少尉からです』
「リッドから? 繋げて」

 交換手が返事をすると、一度通信が途切れる。
 そして、再び繋がった時には、中央司令部で聞き慣れた声がした。

『どーもー。勝手に病院抜け出した将軍閣下、その後お加減いかがですか』
「怒られたいの?」
『怒りたいのはこっちなんスけど?』

 ひくりと頬を引きつらせ低く問えば、電話の向こうの声も低くなる。
 病院から抜け出した事は確かだが、ここまで嫌みったらしく言われると腹も立つ。しかも、仮にも上司に向かってだ。
 リッド・グラクシーという人間がそういう人物であることは自身もよくわかっている。そして、口は悪くとも自分の事を心配してくれていることも理解している。申し訳ない気持ちが無いわけでもないため、それ以上はため息をつくだけに留まった。

「で、何の用?」
『ああ、そうそう。突然なんスけど、明日上層部会議が入ったんですよ』

 思い出したように、リッドは用件を言った。

『他の業務は調整したんですけど、これはどうしても出て欲しいとかごねられまして。仕事できそうですか? 無理そうなら無理って言っときますけど』
「会議? ……ああ。多分あれだな」

 思い当たる議題を見つけ、は息を吐く。あれ? と怪訝そうにリッドが聞き返してくるが、は答えなかった。

「まあ、座って喋るくらいならできるし……出るって言っといて。今日そっち戻る」

 帰ると言うとロイ達が煩そうだな、と思いながらは言う。イーストシティに来てから五日、目に見える包帯の量に変わりはない。

『了解。……あ、今日は別に業務無いんで、戻ってきても司令部寄らなくていいっスよ』
「そう……ありがと」

 思わずふっと笑うと、それが聞こえたのかリッドは無言になる。それじゃ、という不機嫌そうな声を最後に一方的に通話が切れ、は受話器を戻しながらくすくすと笑う。自分よりいくつも年上だけれど、可愛い部下に違いはない。

「さて、と」

 誰もいない部屋で独り言を呟く。過保護なここの司令官をどう言いくるめるかを考えなければ。まだ仕事が出来る状態ではないとか何とか言うに決まっている。
 と、そう思ったのだが、それは杞憂に終わった。

「えっ? 視察中?」
「何でそんな嬉しそうなんだ」

 司令室にいるかと思えばそこにもロイの姿は無く、ハボックに聞いてみるとホークアイと共に街の視察で外出中だという。これは面倒な事を言われる前に退散出来るかもしれない、と笑顔になると、ハボックが怪訝そうな表情になった。

「いや。セントラル帰ろうと思ったんだけど、ロイがいたらまだ戻るなとか煩そうだなと」
「帰るって? いつ」
「今日」
「はあ!?」

 ぎょっとしてハボックが叫ぶ。そして、眉間を押さえた。

「何でお前はなんでもかんでも唐突なんだよ……」
「将官は忙しいのですよ」

 は何でもないように肩を竦める。

「業務調整してもらったんじゃねえのかよ」
「明日の会議だけどうしてもって言うからさ」

 そう話していると、後ろから頭をわしゃりと掴まれた。驚いて振り返ると、そこにいたのはブレダだった。

「何だ。、帰るのか?」
「うん」
「まだ怪我治ってねーだろ。大丈夫か?」
「会議なんて座ってるだけだし、別に問題ないよ」

 ぐしゃぐしゃになった髪を左手で直しながらは答える。長時間同じ姿勢で座っていることにはなるだろうが、歩き回れと言われているわけでもない。痛み止めの薬さえ飲んでおけば、何とかなるだろう。

「というわけで、お世話になりましたー。ロイによろしく言っといてー」

 ひらひらと司令室の人間達に手を振りながら、が立ち去ろうとする。
 こうと決めたら梃子でも変えないのがである。ハボックはため息をつきながら灰皿に煙草を押しつけ、立ち上がった。

「ったく……仕方ねえ。駅まで送ってやるよ」

 壁にかかっている軍の車のキーを取りながら、ハボックが立ち去るの背に向かって声をかけた。が笑顔で振り返る。

「えっ、まじで? ジャン少尉やっさしー!」
「はいはい」

 再度ため息をつきながら仕方無さそうに歩いていくハボックの後ろを、が嬉しそうについていく。
 そんな姿を見送ったブレダの近くに、ファルマンとフュリーがやってきて、同じように二人が消えていった扉に目を向けていた。

「何だかんだで、ハボック少尉もさんには甘いですよね」

 ファルマンが言う。

「将軍を彼女にしたら、逆玉狙えるよな。最近彼女出来たらしいけど、乗り換えればいいのに」
「でも、どちらかというとやはり兄妹みたいに見えますね」

 冗談めかして言うブレダに対して、フュリーは可笑しそうに笑った。
 司令部に複数ある軍用車のうちの一つにキーを挿し、運転席にハボックが、助手席にが乗り込んだ。ゆっくりとした動作で車に乗り込むを横目に見て、最初の時のような精神的な不安定さこそ無くなったものの、やはりまだ身体が痛むのだろうなとハボックは思う。
 司令部の駐車場を出発した車は、駅へ向かってイーストシティの街の中を走り出す。

「おっ?」

 少し走ったところで、前方に今乗っている車と同じ車が脇に停車しているのが見えた。見慣れた軍人が二人、脇に立っている。

「大佐達だな」
「少尉、ちょっと速度落として」

 言いながらは助手席側の窓を開けた。車が減速する。

「やっほー」

 窓から外へ手を振り声をかけると、ロイとホークアイが振り向いた。何故がハボックの運転する車に乗っているのかといった表情だ。

「今からセントラルに帰るから」

 はにこりと微笑んだ。
 ロイがぎょっとする。

「は!? ちょ、待ちたまえ! 君にはまだ話がっ」
「じゃあ、またねー」

 発進、とが前方を指差すと、イエス・マム、と答えてハボックはアクセルを踏み込んだ。ロイが何か叫んで追いかけようとしているが、車の速度に追いつけるはずもなくだんだんと遠ざかっていく。小さくなったロイが頭を抱えて項垂れているのがバックミラー越しに見え、ハボックは息を吐く。

「……これ、後で俺が文句言われるよな」
「まあ、うまいこと言っといてよ」

 窓を閉めながら、は軽い調子で言った。
 そして左腕で頬杖をついて、窓に額をこつんと当てる。

「……ねえ、少尉」
「んー?」

 少し沈黙した後、は言葉を続ける。

「軍人ってさ……『また』とか、考えちゃいけないのかな」

 は? と声を漏らして、ハボックはちらりと隣に目を向ける。は視線を前に向けたままでいた。冗談で突拍子の無いことを言ったわけではないことは表情から見て明らかだった。

「電話でね……『またね』って、言ったんだ。前日の夜。……でも、『また』は来なかった」

 主語は無い。だが、のその言葉から、彼女が何を言わんとしているかはすぐに理解した。
 彼女はヒューズが死ぬ前日、彼とまた会う約束を電話でしたのだろう。だが、その約束は果たされる事はなかった。約束してから、ほんの数時間後の出来事だったに違いない。
 が事件の前後について話をするのは、初めてだった。

「軍人が、いつ死ぬかわからない職業なのはわかってるよ。……けどさ。そんな何気ない言葉すら、言うことが許されないのかな」

 またね。また会おうね。
 たったそれだけの約束すら叶わなかった。

「……今、ロイに対して無意識に言って思い出しただけ」

 そう言うと、は息を吐いた。

「余計な話したね。忘れて」
「……」

 それから、互いに始終無言だった。

 駅前まで来ると、ここでいいよ、とは言った。ハボックは道路脇に車を寄せて停める。
 車が停止すると、はドアを開けて外に出た。

「送ってくれてありがとね」

 運転席のハボックに笑顔で礼を言うの表情は、先程までの横顔とは違い、話していた内容も彼女の表情もまるで幻だったのかと思う程だ。

「おう。気をつけて帰れよ」
「はいよー」

 ひらひらと手を振り、はドアを閉めて駅へと向かって歩き始める。
 ハボックも車を降りると、ポケットから煙草とライターを取り出し、車内では吸っていなかった煙草を十数分ぶりに味わう。肺に溜まった煙を吐き出し、の背に目を向けた。



 が立ち止まり、振り返る。
 ハボックは煙草を指の間に挟んだまま手を上げ、微笑んだ。

「またな」

 が目を丸くする。

 また会おう、と。そう約束をする。
 たったそれだけの、些細な約束。

「うん。またね」

 自由に動く左手を大きく上げて、も笑顔で返した。

 その約束が、今度は守られることを願って。

 ハボックは、再び歩き出したが駅の人混みに紛れ、姿が見えなくなるまでその背を見守った。
 煙を吸い込み、そして吐き出す。

「……さて……帰ったら大佐に何て言い訳すっかな……」

 つい先程まで美味しかった煙草が、急に不味くなったような気がした。