40.動かぬ足で







 その日も仕事が終わり、ロイ達の見舞いに行こうと病院へ向かっていたところだった。
 日の沈むのが早い冬の夜。外はもう暗闇に包まれていた。
 コートのポケットに両手を突っ込み、欠伸を噛み殺しながら病院のドアをくぐると、軍服の男と一般の女性の二人組が視界に入った。

将軍。お疲れ様です」

 こちらに気付いた男が、ビシッとその場で敬礼する。
 誰だっただろう、と頭の片隅で思いながらもも「お疲れ様」と敬礼を返す。部下にとって将軍職についている人物は少ない上に、のような年齢でその地位にいるという珍しさも相まって名前も顔も当然覚える。だが、にとって自分より下にいる者は数多い。よほど毎日顔を合わせているか目立つ人物でなければ、そうそう顔と名前など一致するわけもなかった。
 そんな二人のやりとりを見ていた女性が、「え?」と声を漏らした。

「貴女がさん?」

 僅かに赤くなった目を丸くして、驚いたように女性が言う。

「はい、そうですけど……失礼ですが、貴女は?」

 泣いた後のようだ、とその目と手に持たれているハンカチを見て判断しながら、は問い返す。
 何処かで会った事があっただろうかと焦るが、それはほんの一瞬。名を確認してきたのだから初対面だ。

「わたくし、ジャン・ハボックの母で御座います。息子がいつもお世話に……」

 女性は深々と頭を下げた。
 今度はが目を丸くする番だった。

「ジャン少尉の……!」

 なるほど。言われて見れば、彼の髪色と似ているかもしれない。
 こちらこそお世話になっております、と言っても頭を下げる。初対面の人間の前ではとても礼儀正しい女性に変貌するのはいつもの事だ。

「話には聞いておりましたが……本当にお若いんですねぇ」

 一体どんな話をしていたのだろう。
 朗らかに話す女性に笑みを向けながら、後で問いただそうとは心に決めた。

「今日は、少尉のお見舞いに?」
「ええ……実は、退役する事になりまして」
「退役!?」

 表情を曇らせる女性に、はぎょっとして問い返した。
 まさかこんな場面で冗談を言うはずもない。
 そして納得する。この隣の軍人は退役軍人局の者だ。脇に抱える封筒はそれに関する書類に違いない。

「そんな、どうして……」
「下半身不随では軍には勤めていられないから、と。息子自身の判断で」

 話す女性の目には再び涙が浮かぶ。
 手に持っていたハンカチでそれを拭う女性を見て、は「そうですか……」と小さく返すしか無かった。
 は人体学について勉強はしていないから詳しくない。それでも、脊髄の損傷は今の医学じゃ治す事など出来ないというのは理解していた。ハボックの怪我では、下半身丸々神経信号が途切れてしまっていると聞いた。兵役復帰は難しいと。
 だが、まさか退役するだなんて、考えもしなかった。いや、普通に考えれば退役の判断は自然なものなのだろうが。ただ、彼が自分から戦線離脱するなんて、自身が考えたくないだけなのだ。

「いつでしたか……随分前に息子が帰って来た時に、貴女の事を話していました。上司ではあるけれど、とても思いやりのある良い子で……まるで妹のようだと」
「……」

 何を勝手に自分の事を話しているのか。そう思う傍ら、自分の知らぬところでそんな風に思っていてくれたのかと、今になって心が痛む。
 あの怪我を負わせた原因に、自分も少なからず関係している。それは間違いなく事実。
 だが、目の前にいる彼の母親が、それを知るはずもない。目尻に涙を浮かべたまま、女性はやんわりと微笑んだ。

「お世話になりました」

 そう言って頭を下げる女性に、は上手く笑顔を返せなかった。

 何となく重い足取りのまま、ロイとハボックの居る病室へと向かう。
 もう既に何度も行き来している廊下を歩いていると、丁度目当ての病室から誰かが出てきた。
 後ろ手でドアを閉めながらこちらに気付いたその人物はもう見慣れすぎている。ブレダだった。


「やほ」

 軽く片手を上げて挨拶する。それにブレダも片手を上げて答えた。

「大佐はいないぞ」
「そうなの? あの怪我で何処ほっつき歩いてるのさ」

 くいっとドアを親指で指しながら言うブレダに、は眉を寄せた。
 ハボック程では無いにしろ、ロイとてかなりの重傷だ。無理をすればいつ傷口が開くかわからないというのに、一体何をしているというのか。
 がそう考えていると、ブレダは「ちょっと」と手招きしてを呼んだ。首を傾げながらも、場所を変えて話がしたいのだと分かるとは大人しくブレダの後に続いた。
 然程遠くには離れずに、すぐそこの角を曲がって二人は足を止める。

「ハボのやつが退役するって言い出してよ」

 壁を背にして寄りかかり、ブレダが切り出した。

「ああ。知ってる。下でお母さんに会った」

 ブレダの隣の壁に寄りかかりながらは頷く。
 手持ち無沙汰の両手はいつだってコートのポケットに突っ込まれている。これはもう癖だった。

「そうなのか。じゃあ、話が早い。それで大佐とあいつで言い合いになっちまってな」
「言い合い?」

 言い合いというよりは、ハボックが苛立ちをぶつけたようなものだったらしい。
 下半身の動かないハボックは、自分はもう使えない駒だと言った。だから全て諦めて退役する。それをどうにか出来ないかと渋るロイに、ハボックは怒鳴ったのだ。
 捨てていけ。置いていけ。
 同情なんていらない。諦めさせろ、と。
 動かない体を無理やり動かし、ロイの胸倉を掴んでそう怒鳴ったのだそうだ。
 ロイは「わかった」と言って頷いた。
 置いていくから、追いついて来い。自分は先に行く、と。
 そう言い残して、ロイは病室を出て行ったそうだ。
 少ししてその後をホークアイが追って行き、彼らはまだ病室には戻ってきていない。

「それで、少尉は今どうしてるの?」
「少し一人にしてくれ、ってよ」
「……そっか」

 自分で退役すると決意した彼の心の内には、そんな思いがあったのかと、今更ながらに思う。
 一番悔しいのは彼自身。
 に笑顔を見せていたって、辛くないはずがないのだ。

「治らない、んだよね」
「らしいな……脊髄ってのがいけなかったみたいだ」

 ブレダは士官学校時代からのハボックの友人だった。
 彼が友人の退役に何も思わないはずもなかった。

「ドクター・マルコーがいればな……」

 小さくため息と共に呟かれた言葉を、静かな廊下で聞き逃すはずは無かった。

「ドクター・マルコー……!?」

 反射的にブレダを見上げ、そして反応してしまった事に後悔する。自分とマルコーの繋がりは、誰にも知られていないはずなのだ。
 だが、の思いに反して、ブレダは驚く様子も無くに目を向けた。

「ああ。そういや、お前は会いに行ったんだったよな。アームストロング少佐に聞いた」

 ブレダはつい最近まで国外に出ていた。アメストリス国を東に出た先にある、クセルクセスの遺跡に行っていた。これは入院中のロイに聞いた話だ。
 殺人犯に仕立て上げられ、ロイによって事実上殺害されたロスをシンに送るため。そして、情報収集のためだった。その先シンへとロスを連れて行ったのは、リンの部下だと聞いている。の予想は当たっていた。
 しばし休暇をとっていたアームストロング、そして半ば拉致のようにアームストロングに連れて行かれたエドワードも共に行っていた。そこで彼らが互いに持っている情報を交換したようだ。
 がアームストロングにマルコーの事を聞いたのは、彼が休暇を取る直前だった。
 そんな話までしたのか、とは思わず眉を寄せて息を吐く。

「ていうか、何でそこでマルコーさんが……」

 言いかけてふと気付く。
 きょろきょろと軽く周囲を見渡し、聞き耳をたてている者がいないのを確認すると、小声で尋ねた。

「……もしかして、賢者の石?」
「ご名答」

 賢者の石はあらゆる法則を無視した練成が可能だという。確かに、治療不可能と言われたハボックの怪我も治せるかもしれない。
 だが、そこまでわかっていて何故行動に移さないのか。

「マルコーさんなら、快く貸してくれるんじゃ……」
「遅かった」
「え?」

 の言葉を遮って、ブレダは一言そう告げた。
 遅かった? 意味がわからない。
 苦々しげな表情でブレダは続ける。

「大佐にそれを進言してすぐ俺が行ったよ。でも診療所は荒らされて、ドクター・マルコーの姿も、賢者の石も何処にも無かった」
「なっ……!」

 思わず息を飲む。

「村人の話によれば、俺が行く前に、軍服を着た俺がドクターを訪ねて来たらしい。ホムンクルスの中に姿を変えられる奴がいるって話だ。恐らくそいつだろう」

 ブレダに姿を変えたホムンクルスがマルコーを訪ねた。
 そしてマルコーを連れて行き、賢者の石も奪っていった、と。

「……エンヴィーかッ」

 は小さく舌打ちする。
 先を読まれていたのか。それとも、別の理由があってマルコーを連れて行ったのか。
 数日前に出会った、変身していない状態の髪の長い男の姿が脳裏に蘇る。ことごとくこちらの行動を邪魔するつもりなのか。

「チッ。もう少し早ければ……」

 悔しげに吐き捨てるブレダの声を耳に入れつつ、は考える。
 ホムンクルス達がマルコーを連れて行ったのは何の為か。まさかこちらの邪魔をする為だけではないだろう。それならばその場で殺せば良いのだ。
 彼を何かに利用しようとしている。それは何か。
 自然と行き着く答えは一つだけ。賢者の石だ。
 なるほど、とは思う。彼らがマルコーにコンタクトを取ってきたという事で確信出来た。
 まさか面識の無いマルコーを連れて行ったわけではあるまい。長く行われてきた賢者の石の研究には、確実にホムンクルス達が関わっている。もしかすると、奴らの手引きで研究が行われていたのかもしれない。ホムンクルス達の核となるのは賢者の石なのだから。これはロイ達に聞いたことだ。ラストがロイ達に胸に入っている賢者の石を見せたと聞く。
 それに、奴らがシュウの事を知っていた点についても、これで納得出来る。シュウも賢者の石の研究員だった。面識があるわけである。
 少しずつ。だが確実にバラバラのパズルのピースが合わさっていく。
 それでもまだ足りない。

?」
「え? ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」

 怪訝そうに覗き込んでくるブレダに、ヒラヒラと手を振って返す。
 どうも最近思考に耽る事が多くなってしまった。考えなければいけない事が多いのも事実だが。

「少尉、これからどうすんの?」
「ああ。今日はもう帰って寝るよ。ずっとあちこち飛び回ってたからな」

 ロクに休めていないと言いながらブレダは首を回す。
 長い休暇を使ってクセルクセスまで行き、帰って来るなりマルコーを探しに。年内の休暇は全て使い切ってしまったそうだ。
 そんなブレダに苦笑しながらも、お疲れ様と労いの言葉をかける。

は?」
「折角だし、ちょっとジャン少尉のところに顔出してくよ」
「そうか。……ま、お前なら大丈夫だろうな」

 一人にしてくれと言っていたハボックだが、きっとになら当り散らしたりはしないだろうとブレダは思う。
 気をつけて帰れよ、と一言言い残してブレダは帰って行った。
 その背を見送ってから、はハボックの居る病室へと向かった。

 コンコンとノックをすると、いつもよりも元気の無い声で「はい」と返事が聞こえた。
 控えめにドアを開ければ、まず目についたのは誰もいない手前側のベッド。ロイは未だ帰って来ていないようだ。
 奥の窓際のベッドにはハボックが居る。

「……

 こちらに向けられた目に、いつもの飄々とした彼は感じられなかった。
 ふっと笑顔を浮かべて、ドアを閉めるとハボックの方へと近づく。

「さっき、下で少尉のお母さんに会ったよ」
「ゲ。……変な事言ってなかったか?」
「別に? お世話になりました、って頭下げられちゃった。いいお母さんじゃん」

 顔を顰めるハボックに、は肩を竦めて返す。
 いいお母さんだというその言葉が、心底そう思っているようで。ハボックは思わず眉を寄せた。彼女は母親という存在を、その身に感じた記憶が無いのだ。
 そんなハボックの思いとは裏腹に、は何でもないようにロイのベッドへと座った。

「退役するんだってね」

 あくまで声音は暗くせず、いつもの調子では言った。

「……ああ」

 一瞬の沈黙の後、ハボックは目を逸らせて肯定する。

「……そっか」

 やっぱり冗談なわけがないよな、とは今更な事を考える。
 しばらく、気まずい沈黙が続いた。

「大佐にさ……『置いてけ』って言ったんだ」

 目を逸らせたまま、ハボックがぽつりと呟いた。
 は黙って耳を傾ける。

「下半身が動かない、そんな使えない駒はいらない。邪魔になるだけだ。だから捨ててけ、って。そう言った」

 一体どんな表情で話しているのか。
 向こうを向いたままの彼の表情は伺えない。

「……でも、捨ててくれなかったでしょ?」
「ああ……『置いていくから、追いついて来い』だとさ……。全く、酷い上司だよな。こんな状態になっても、諦めさせてくれないなんて」

 酷いやつだと言いつつも、その口調はどこか可笑しそうで。どこか自嘲にも似ていて。

「……ロイらしいよ」

 きっと勢いで散々言った後で考えて気付いたのだろう。
 自分の知っている上司は、そういう人物だったと。

「甘すぎるんだよ。馬鹿だあの人は」
「だから、ロイの下には人が集まる」

 がそう言うと、ようやくハボックがこちらに目を向けた。
 ね。と笑みを浮かべて同意を求めると、そうだな、と彼も笑みを零して呟いた。
 そう。そんなロイだからこそ、自分はこんなところまでついて来たのだった。ホークアイも、ブレダも、ファルマンも、フュリーも。そんな上司だからこそ、遥々セントラルまでついて来た。

「……追いつけるんだろうか」

 視線をから自身の足へと移し、ハボックが呟く。
 この感覚の無い足で、追いつく事など出来るのだろうか。

「大丈夫だよ」

 は言う。
 再び目の合ったハボックに、は柔らかく微笑んだ。

「ロイは待たないけど……たまに振り返ってくれるから」

 立ち止まって待つ暇など無い。彼は上へと上り続けるだろう。
 それでも、決して見捨てたりはしない。部下達を想って、何度だって振り返る。

「……そうか」

 自分達よりも遥かに長い時間ロイと付き合っているだ。彼女が言うからには、きっと大丈夫に違いない。
 元より、ロイがそういう人物だという事はわかりきっていたのだが。

「足掻いてみるかな」

 そう呟く彼の声は、最初の病室に入ってきた時とは違っていて。

「ありがとな。

 ふっと口元に笑みを浮かべるその表情は、の好きなハボックのものだった。

「大したこと言ってないよ」

 も笑顔を返す。
 自分はハボックの怪我を治してやる事は出来ない。
 ただ励ます事しか出来ない自分が情けなかった。