ロイが中央司令部に異動になって、しばらくが経った。
軍議に行く前にトイレで顔を洗っていたロイは、ガツンと何かがぶつかる鈍い音が聞こえ鏡越しに後ろを見た。そして、思わず顔を顰める。鏡に映った個室の上から、アームストロングの頭が覗いていた。見事に天井に頭を打っている。
「どうも」
「ああ」
挨拶をしながら頭を屈めてアームストロングが個室から出てくる。それにタオルで顔を拭きながらロイも答える。
「少しお痩せになったのでは?」
「ああ」
実際、中央に来てからロイは痩せてきていた。いや、やつれたの方が近いかもしれない。大して気にも留めずに話を受け流す。
アームストロングがロイの隣の洗面台で手を洗う。ふと鏡に映ったアームストロングをもう一度見て気づく。
「ケガしたのか」
頭に巻かれている包帯を見てロイが問う。
「南で少し戦りましてな。なに、かすり傷です」
大したことは無いとアームストロングが言う。デビルズネストでの戦いの怪我だった。
「そうそう。エルリック兄弟に会いましたぞ。南方司令部に査定に来ておりました」
「そうか。まだまだ軍の狗をやる気だな。鋼のももうじき十六だったか」
ふぅ、とロイが息を吐く。
「元の身体に戻るのが先か。人間兵器として戦場に駆り出されるのが先か……」
「……あのような場所に少年を放りこむと言うのですか」
苦しげな表情でアームストロングが言う。
イシュヴァールの殲滅戦。 血生臭いなんてだなんて、そんな生易しい言葉じゃ表現しきれない戦いだった。
何処を見ても視界に入る死体。幼い子供もたくさん死んだ。
そんな戦争に、あの十五歳の少年を駆り出すというのか。
「鋼の錬金術師は人間兵器として使われるかもしれないリスクを覚悟してこの世界に飛びこんで来ている。大人も子供も例外は認められない」
「建前、ですな。誰もそんな世界は望んでおりません」
「軍人でありながら、君はこの軍事国家を否定するのか」
「否定はしません。ただ、我輩のこの力はこの国の弱き人民を守る力でありたいのです」
はっきりとアームストロングが言い切る。
「あの内乱を経て、この国は変わらねばならぬところへ来ているのではないでしょうか。……そして、それができるのは戦場の痛みを知り、かつ冷静に上を目指せる人物です。マスタング大佐」
そっとロイに目を向ける。
「なんの話だね」
依然ロイはアームストロングに視線を向けはしなかった。
いいえ、と一言言うと立ち去ろうとアームストロングは足を動かした。そして突然思い立ったように再び足を止めてロイを見る。
「マスタング大佐。一つお聞きしてよろしいですか」
「まだ何かあるのか?」
いい加減うんざりとしたようにロイが聞き返す。アームストロングは少し戸惑うように間をあけて尋ねた。
「……あの子は何故軍に所属しているのですか?」
誰とは言わない。だがロイはわかったようで、僅かに驚いた表情で初めて面と向かってアームストロングの顔を見た。
「……に会ったのか?」
「ええ、南で。エルリック兄弟の師匠と知り合いらしく、一緒におりました」
ダブリスに知り合いがいるなんて聞いたことがなかったが、とロイは思う。そして、この一ヶ月何処にいたのかがやっとはっきりした。
「は言っておりました。……『自分は大総統に忠誠を誓った事など一度も無い』と」
「……」
ロイが表情を歪める。まさか、本当にそんな事を思っているとは。
いや、思っていたとしても、その事を口にすれば危険因子とみなされてもおかしくはないというのに。
「もうすぐ十八歳とはいえ、まだ少女……彼女はイシュヴァールも経験しております。その時点で、普通なら軍を辞めるのではないでしょうか。また、いつ死ぬやもしれない、いつ戦場に駆り出されるかわからない世界に留まるなど……」
「本人に言ってみてはどうだ」
苦笑しながらアームストロングの言葉を遮る。
「きっと笑って流されると思うがね」
僅かに肩を竦めながらロイが言う。それを聞いてアームストロングも思う。彼女はきっと、いや絶対に言わないだろう。
「大佐は理由がおわかりで?」
「……少しだけだ。この件はヒューズの方が詳しいだろう」
「ヒューズ准将ですか?」
「どうやら、あの我侭娘は私の心配性があまりお気に召さないようでね。その分、ヒューズはお節介だがあまり深くは突っ込みはしない」
仕方ないのさ、というロイにアームストロングが微笑んだ。
「大佐に心配をかけたくないのでしょう」
「私としてはもう少し頼って欲しいものだがな」
一か月前に東方司令部で頑なに話すことを拒んだを思い出す。忘れるはずがないのに、知らないと言い張っていた。知れば自分たちが危険になると思っての彼女の判断だったのだろう。
「ヒューズといえば……」
ロイが切り出した。
「兄弟にヒューズの死は知らせたのか?」
アームストロングの表情が固まる。気まずそうに目を伏せた。
「……いえ。言い出せませんでした」
「が言った様子は?」
「恐らく伝えていないでしょう。知らされていたなら、我輩に何かしら聞くでしょうから」
「いつかは知らされる事だぞ」
が言っていないだろう事は想像の範疇。彼女は事実を言える程この件について心の整理が出来ていないだろう。表向きには何でもないような顔をしていたとしても、だ。
「第五研究所と賢者の石。石の材料は生きた人間」
突然話し出すロイに、アームストロングは目を丸くした。
「世話好きのあいつの性格だ。エルリック兄弟が調べていた事に首を突っ込んで、知らなくてもいいことを知ってしまった……ちがうか?」
返答を待つことなく、言葉を続ける。
「自分達に関わりを持ったせいでヒューズが死んだと知れば兄弟が傷つく……か。人が良いな、君は」
「……ずいぶんお調べになりましたな」
アームストロングが表情を緩めた。
「もう一息だ」
バサッと脱いでいた上着を羽織るロイ。そして、アームストロングは再び難しそうな顔をした。
「……も色々と調べているようです」
ロイも表情を曇らせる。
「あの子はどこまで知っているのでしょうか……」
「……」
止めていた手を再び動かし、上着の前を留める。そして小さく息を吐いた。
「あまり詳しく知っていない事を祈るばかりだな」
「ええ、全くです」
アームストロングも神妙に頷く。詳しく知れば知るほど、彼女は危ない道へ進んでいくだろう。それはロイもアームストロングも望んではいない。
「では。気をつけてください。何処で誰が聞いているかもわかりませんので」
「ああ」
トイレのドアを開け、二人はそれぞれ反対方向へと歩いていった。
会議室で行われる軍議。
ロイがそこに着いた時には、既にの姿もあった。自分の席からは離れているため話はできない。の表情はいつもの年相応の顔ではなく、将校の風格を示すようなもの。にとっては親子ほどの差がある周囲の他の将校達にも退けをとらない。
こうして一緒に同じ軍議に参加するというのはここ最近になってからだ。
そして改めて気づかされる。僅か十代で将軍職についている少女。
それがいかにすごい事か。いかに辛い事か。
自分の方を見もしないに、誰にも気づかれずに僅かに眉を寄せる。
そこで丁度、大総統がドアを開けて会議室へと入ってきた。
30.行き倒れ
が仕事に復帰してから既に一週間以上が経っていた。司令部勤務となったは、以前より軍議に出る回数が増えたためかいつも眠そうな顔をしていた。もっとも普段からやる気のない表情なのだが。
今日も相変わらずの軍議を終えたは、コート片手に欠伸をしながら廊下を歩いていた。
「あれ」
ふと見知った顔を見てを思わず声を漏らす。ハボックだった。どこかに外出していたようで、今司令部に入ってきたところだった。
「ジャン少尉ー」
「お? か」
声をかけると、ハボックは振り向いて手をひらりと振る。
「どっか行ってたの?」
決して駆け寄ったりはせず、今まで通りの速度で歩きながらは首を傾げる。外から来たのだから、聞かずともどこかに行っていたに決まっているのだが。
「あー、うん。そうそう」
意外にも言葉を一瞬濁した。そんな僅かな反応だったが、それをが見逃すはずもない。がスッと目を細める。
「なに隠してるの」
怪訝装な表情に、しまった、とハボックは内心冷や汗をかいた。
―― いいか。絶対にには話すなよ
ロイからそう口止めされている。
確かに隠し事をしている。この勘の良いに隠し事をしろなんて、随分と無茶な注文をするものだと思ったものだ。
「あっ! そうだ! お前に言ってなかったよな!」
話題を切り替えるように、突然ハボックが笑顔で言った。
「何を?」
「ビッグニュース! めっちゃいい話!」
「いい話ぃ? 期待させといて実はそうでもないとかじゃなくて?」
あまりの明るさに不審に思いつつハボックを見上げる。話を逸らされたと思いながら。そして、何かを自分に隠してやっているのだということを確信した。
だが、ハボックはそれはそれは満面の笑顔でこう言った。
「俺に彼女が出来た!!」
「……」
ハボックが天を指さしてポーズを決める。デレデレとした表情を隠しもしない。
はそれを無表情で見た後、首を傾げた。
「妄想?」
「違う!!」
「え、じゃあマジなの」
そこで初めて表情を驚きに変えた。万年彼女募集中のイメージが強すぎるのである。
「いや、もうこっちに引っ越してきたばっかの時に優しくしてくれてさぁ~。もうすっげぇいい女! 色っぽいし!」
「へー。前の彼女は吹っ切れたの?」
「……」
「あ、ゴメン」
平然と聞き返すに浮かれていたハボックに突然暗い影が下りた。一気に沈むハボックには一応の謝罪をする。
前の彼女は、ロイが異動になった時に一緒に自分もいかなければならないと言った時にフラれたそうだ。「私と仕事どっちが大事なのよ!」と言われ頬を叩かれたとに訴えて来たのは、が復帰した次の日くらいだっただろうか。そこで彼女ではなく仕事を取ってくるあたりがハボックである。
だが、もう次の彼女が出来たとは……変わり身が早いというか何というか。
「つーか、。どうした?」
「は? なにが?」
突然話を振られて、頭が追いつかない。今までいじけていたのに突然話を変えるなとは思う。いや、とハボックは話を続ける。
「何か元気ねえっつーか、疲れてそうっつーか」
は首を傾げる。まったく身に覚えがない。いつも通りのつもりだ。
「気のせいじゃない?」
ハボックが僅かに眉を寄せた。それを見ても首を傾げる。何かいつもと違うだろうか。ただ会議が終わって若干疲れているのは確かだ。
テンションが高い時を元気だと言うなら、普段はかなり元気がない部類に入るだろうとは自身も思う。ハボックが何を基準にして言っているのかはわからないが。
「じゃ、私行くね」
一言言うと、が再び歩き出す。
「どっか行くのか?」
「視察という名の気分転換」
さぼりに違いない。
「ナルホド……いってらっせー」
意図がわかったハボックは苦笑しながらの背に声をかける。歩きながらは振り返らずにひらひらと手を振った。
「……気のせい、気のせいね……」
ハボックの呟きがに聞こえることは無かった。
司令部から出て三十分程経っただろうか。街を歩いていると、ふと人だかりができているのに気が付いた。
「どうかしました?」
「あら、将軍さん」
近くにいた女性に声をかけると、に笑顔であいさつをしてくれた。それに笑顔を返すと、女性が指さすままに視線で中心を見る。そして怪訝そうに顔を歪めた。
「……何コレ」
その中央でぶっ倒れているのは、長い黒髪を一本に括っている少年だった。この辺では見ない服に、背中には剣を一本背負っていた。
「行き倒れ? こんなところで?」
倒れている少年はぴくりとも動かない。この場に軍人は自分しかいない。仕方なしに、近づいて肩を揺する。
「もしもーし。生きてる?」
ぐぎゅるるるるる……。
腹の虫が返事をした。
「……」
は思わず無言になる。まさか、腹が減って倒れているというのか。
「ハァ……」
思わずため息をついて額に手を当てた。
「いやー食った食っタ! ごっそーさン!」
あっはっはと笑う行き倒れ少年。は結局少年を引きずって近くの飲食店へと足を運んでいた。少年の向かい側でコーヒーを飲んでいるは、頬杖をついて少年を呆れたように見ている。
「いや、私奢るとは一言も言ってないんだけど」
「硬い事言わなイ! ホント死ぬかと思ったヨ。アリガトー。あ、あとこれとこれとこれ注文したいんだけド」
「ふざけんな」
メニューを持って指差していく少年に、テーブルの下から蹴りを入れる。行き倒れていたところを見ても、金なんて持っていないのだろうけれど。
「で? どこの国の人? 喋りに訛りがあるよね」
金は持っていないけれど、この国の人間ではない。不法入国の可能性もあるだろうが、の管轄ではないので見ないふり。今は気分転換に来ているのであって、不法入国者をしょっ引くために来ているのではない。
少年は笑顔を崩さずに頷いた。
「ウン。シンから来タ」
「シン!? そんな遠くから来たの!?」
「ソウ! クセルクセス遺跡を通って砂漠越えして来タ」
シンというのはアメストリスからずっと東にある大国だ。その間には大きな砂漠があり、クセルクセスという一夜で滅びたと伝えられている遺跡もある。
「砂漠越えなんてしないで、海回って来た方が楽だったんじゃないの?」
「ウン。でも、クセルクセス遺跡を見ておきたかったんダ」
「ふーん。で、何しに来たの」
「ちょっと不老不死の法を探しにネ」
「不老不死ぃ? なんでまた」
最近もそんな言葉を聞いたなとは思う。
「いろいろと事情があるのサ」
「ふーん」
肩を竦めて言う少年に、興味がなさそうにが相槌を打つ。最近は不老不死の方法を探すのが流行りなのだろうか。
「ところで、お姉さん軍人だよネ? その服」
の青い軍服を指差して少年が言う。
「うん、そう。国軍少将、・。よろしく」
「将軍! すごいナ。アメストリスはその若さで国軍の将軍職に就けるのカ」
「いやいや、私が異例なだけ」
「フーン。あ、俺はリン・ヤオ。ヨロシクー」
「リンね。よろしく」
リンが差し出す手をが握る。
「ちゃんは練丹術……こっちでは錬金術だっケ。それは使えるノ?」
「まあ、それなりに。国家資格持ってるし。なんでわかったの?」
「その若さで将軍職に就くなら、国家錬金術師? きっとそういう上に登りつめるための力を持っているんじゃないかとネ」
「ふうん。なかなか良い勘してるじゃない」
は素直に驚いた。まさにその通りだった。
「やっぱりそうカ! じゃあ、聞いた事あるかナ!」
リンが笑顔を増した。
「賢者の石」
がぴくりと反応する。
「探してるんだけド、知らないかナ」
「……それは不老不死の法のため?」
「そウ」
お互いに探るように顔を見る。
賢者の石。それは、ヒューズの死にも繋がるキーワードだ。製造方法も、実在するのかもわからない。ただ、ヒューズが殺されたところから見ても、実在し、そして安全な製造方法ではないことは確かだった。
「……悪いけど知らない。私も探してるとこ」
「あ、そうなんダ。空振りだったナ」
ぱっとリンは表情を変えた。恐らくが知っていたとすれば、どうにかして聞き出そうとしたに違いないとは思う。背中の剣は伊達ではないのだろう。
「ところで、リンは一人でシンから来たの?」
「ううン。あと二人いたんダ」
デザートを食べながらリンが言う。
「その二人は?」
まさかと思い、が聞き返す。三人で来たのに、今ここにはリン一人しかいないではないか。リンは気まずそうに視線を泳がせた。
「……行方不明」
「明らかにリンがいなくなったんだと思うけどね」
迷子かよ、と思いながらはため息をついた。
コーヒーを口に運びながら店内に目を向けた。ふと視界に入る時計。司令部を出てから一時間半以上経っていた。
「やば、かなり時間経っちゃった。私、戻るから」
そう言ってコーヒーを一気に飲み干す。
今回は奢るから今度は奢れ、と言い放つと伝票を持って立ち上がった。
「一緒に来た二人に会えるといいね。じゃね」
「ウン。アリガトー」
ひらひらと手を振り合い、は会計をしてから店を出て行った。
その後ろ姿をリンがずっと見ていたことを、は知らない。