16.死闘





 遊んであげる。
 ラストのその言葉に、は眉を寄せる。随分と余裕そうではないか。

 は両掌を向かい合わせる。バチィッという錬成反応と同時に左手を上へとスライドさせた。右手の錬成陣で形作った氷の剣を、左手の錬成陣で再構成する。
 錬成した剣を右手に持ち、は地面を蹴った。
 素早く間合いを詰めて斬りかかるが、ラストはそれを後ろに跳ぶことで避ける。は更に踏み込む。だが、ラストは大きく跳躍し、の頭上を跳び越えて背後へと着地した。すかさずは振り返りざまに背後へと剣を薙ぐ。
 刃物と刃物がぶつかり合う高い音が鳴り響いた。
 は目を瞠る。
 刃はラストの指先から伸びる鋭利な爪に受け止められていた。

「伸縮自在の爪……か」
「……驚かないのね」

 の呟きを聞き、ラストは首を傾げて問いかけた。
 間合いをあけるために互いが後ろへ一旦引き、距離を取る。

「資料室にいたのはあんただね」

 が確信した口調で言う。
 ラストはにこりと笑みを浮かべた。

「素晴らしいわね、その推理力」

 まるで、よくできました、と言わんばかりの表情だ。
 ヒューズを最初に襲撃した時の武器は飛び道具だろうというのが、の最初の予測だった。だが、この謎の力を持った女ならば、離れた距離にいる人物への攻撃は十分可能だ。
 そして、あっさりと肯定を返すということは、をこのまま無事に帰すつもりも無いということだ。

 ラストが踏み込んでくる。
 振り下ろされた爪を、横に大きく跳ぶことで避ける。空振ったラストの爪は地面を深く抉った。
 は剣を左手に持ち替え、右腕を地面に叩きつけた。空気中の水分を集めて錬成された氷が地面を走り、巨大な棘となってラストを襲う。だが、それはラストの体に届く前に爪で切り裂かれる。ラストの爪が再び伸びてきて、はそれを手にした剣で弾き返した。
 右手の爪を防いでいる間に左手の爪までもが伸びてきて、の軍服を引き裂いた。は舌打ちする。両手の爪が伸びるであろうことは予測していたが、彼女の爪がどこまで伸びるのかわからず間合いが取り難い。
 十本の爪がを襲う。すべてを防ぎきることは一本の剣しか持たないには不可能だった。爪が頬を掠り、軍服を切り裂いていく。
 しばし、が一方的に切り付けられる状況が続いた。だが、の目から戦意が失われたわけではない。ラストの攻撃パターンをしっかりと見つめ、隙を狙う。
 爪が伸ばされると同時、地面を蹴り一気に間合いを詰め、懐へと飛び込んだ。振り下ろした剣はラストの肩に届き、鮮血が舞う。ラストの表情が歪んだ。
 いける。再び間合いをあけながら、は額を流れ視界を遮る血を袖で拭った。
 その視界が狭まった一瞬の隙をついて、ラストの爪がの右手の甲を切り裂き、握力が緩んだ瞬間に剣を弾き飛ばした。舌打ちし、剣を再練成しようと右手を構える。
 だが、それよりも早く、ラストの右の爪がへと伸びた。
 右肩から手首までを五本の爪が貫き、その勢いのままは壁に叩きつけられる。

「ぐッ……!」

 張り付けられた右腕は動かない。左手で右肩に突き刺さった爪を抜こうと試みるが、びくともしない。右腕を血が伝い、指先から地面へぽたりと滴る。

「貴女は右手で氷を錬成する。右手を封じればもう何も出来ない」

 ラストは笑みを浮かべると、左の爪を二本伸ばしの挟み込むようにして構える。その手首を捻れば、の首が掻き切れるだろう。
 歯噛みしてラストを睨みつける。そして、はふと気が付いた。

 ラストの肩に、先程斬り付けたの傷が無い。

 まさか、と思う。確かにさっき斬ったはずだ。
 傷が、治ったとでも言うのか?

「……」

 劣勢ながらも、殺さないように、とそう思っていた。
 今までは。

「……何も?」

 は、口角を上げた。
 ラストがはっと気が付いた時には遅い。

 血で壁に描かれた錬成陣は完成していた。

「ッ!」

 錬成反応と共に壁から巨大な棘が現れ、それは一直線にラストの身体に向かって伸びた。間一髪でに突き刺していた爪を引くと同時に、ラストは大きく後ろへ後退する。離れた場所に着地したラストは驚愕を表情に張り付けていた。

「そういう事は、指先まで封じてから言うものだ」

 左手で右肩を抑えながら、ははっきりと言った。

「本当ね。覚えておくわ」

 ラストはそう言って、笑みを浮かべた。
 右の指先を動かすだけで、腕を激痛が走る。骨も傷ついているのだろう、とは冷静に考える。流れる血も止まらない。
 元々の古傷もあり、はただでさえ長時間戦うことができない。加えて、この出血量ではまともに立っていられるのもあと僅か。
 激痛を堪えて右手の平を上へと向ける。錬成反応がの周囲を奔り、空中に複数枚の刃が浮かぶ。宙に浮かんだ刃は、が右手を大きく振るのに合わせて、目標目掛けて一直線に飛翔した。刃を避けるため、ラストが横に跳ぶ。
 ラストの回避する方向を読んでいたは、既に間合いを詰めていた。
 伸ばされた爪は使い物にならない右腕を盾代わりにして回避する。右腕の痛みを奥歯を噛み締めて堪え、既に錬成済みだった左手に持った氷の剣を、迷わずその胸に突き立てた。
 ラストは血を吐き、がくんと膝を折った。ふらつきながら、は数歩後退する。確かに心臓を貫いた。しかし、警戒を解く事はしない。
 の予想が正しいのならば……――

「……あんた……何なの……?」

 声が僅かに震えた。
 自らの手で胸に突き立てられた剣を抜き、遠くへと放り投げると、ラストは血の流れる口元に弧を描いた。胸からは確かに血が流れている。だが、そこで錬成反応が起こる。傷跡は光が奔ると同時に修復される。
 生体錬成を行なう錬金術師か? しかし、錬成陣はどこにも持っていないように見える。陣も無しにノーモーションでの錬成など不可能だ。
 伝説上の物質である、賢者の石でも無ければ。

「……人間じゃ、ない?」

 そんな事は有り得ないと、そう思いながらも口について出たのはそんな言葉。

「さあ。どうかしら」

 ラストは否定も肯定もしなかった。
 まずい、とは初めて冷や汗を流す。傷が修復し、急所を刺しても死なないような人間相手にどうやって戦えというのか。この片腕が動かない状態で。
 相手をすると自分から戦いを挑んだ事が軽率な行動であったと、血が抜けたことで冷静になった頭で考える。自分を尾行している人物は、ヒューズの死に関わりのある人間だという確信はあった。だからこそ、気が逸ったのかもしれない。まさか、殺しても死なない人間だなんて思わなかった事も確かだ。
 すっかり傷はすべて綺麗に治ってしまったラストが一歩に近付き、は一歩後退する。既に足下には血溜まりが出来ていた。呼吸が苦しい。
 この状態では、逃げることもままならない。かといって、どう戦えばいいかもわからない。この状況をどう打開する? 考えたくても、頭が回らない。
 打開案が思い浮かばない。その結果、どうなるのかはしっかりとわかっている。
 つい先程見たばかりの、まだ血の跡の残る電話ボックスが脳裏を掠めた。
 その時だった。

 パンッ!

 乾いた発砲音が薄暗い路地に反響し、は背後からの衝撃に、身体が傾くのを感じた。喉をせり上がって来た血が、口から零れる。
 倒れそうになるのを、歯を食いしばり、右足を前へと出して踏みとどまった。
 腹を撃たれたのだと、そう理解するのに随分と時間がかかった。

「あら、丁度良いところに」

 ラストが笑いながらそう言った。
 も背後へと視線を向ける。

「よう、!」

 そう言って笑顔で右手を上げている人物は、の見知った人物だった。右腕の機械鎧が、街灯に照らされて鈍く光っている。

「……エ、ド……?」

 赤いコートの金髪の少年。そこにいたのは、エドワードだった。
 何故、ここに? 何故、この女と親しげにしている?

 何故、拳銃を持っている?

 驚愕の表情でエドワードを見つめていたのは、ほんの数秒のことだった。はすぐにエドワードを睨みつける。

「……いや、エドじゃないね……あんた誰?」
「何言ってんだよ。オレだよ。エドワード・エルリック」

 困ったように眉を下げて、エドワードは言う。
 だが、は動じない。

「エドはもうセントラルにいない。それに……彼は人に拳銃を向けられるような子じゃない」

 ほんの短い付き合いでも、彼はそんな事を出来る人間ではないとは思っていた。人体錬成という禁忌を犯し、自身の手足と弟の身体を失ったエドワードが、人の命を奪う武器を簡単に手に出来るはずがない。自分と似ていると、そう思うからこそ、はっきりと言える。彼は、人を殺せない。
 深く息を吐き出す。吐き出された息は、血の味がした。

「マースを殺したのはお前か」

 はっきりとした声で、は言う。それは確信した口調だった。

「何を根拠に言ってんだよ?」

 肩を竦めてエドワードが言った。

「マースは電話をしていたはずなのに、外を向いて死んでいた。ナイフを持ったままね。背後から襲われたわけではなく、正面から撃たれたんだ」

 つい先程、電話ボックスの近くの兵に聞いた情報だ。

「ナイフで応戦しようと振り向いたけど、結局しなかった……いや、できなかった」

 電話しているところの不意をついて背後から撃った方が遥かに楽に殺せるにも関わらず、敵はヒューズに反撃の余地を与えた。それは何故か……推理するのは簡単だ。
 人の死に様を、苦しむ様子を見るのが好きな、愉快犯。

「マースが殺すのを躊躇うような……そんな人間に姿を変えれば楽だよね」
「姿を変えることができるって? そんな人間がいるとでも?」
「伸縮自在の爪を持つ、死なない人間がいるんだ。姿を自在に変えられる人間がいても、もう驚かないよ」

 そんな人間が存在するなんて有り得ないけれど、事実、今まで相手にしていた女はそんな人物だったのだ。もう、どんな人間……否、化け物が現れたところで驚きはしない。

「さぞや愉快だった事でしょうね。彼が戸惑う姿を見るのは」

 この目の前の人物が、何に姿を変えたのかすら予想が容易く、反吐が出る。
 死んだヒューズの足下には、彼の愛する家族写真が落ちていたというのだから。

「くくくっ……あっはははは!」

 エドワードが肩を震わせて笑い出した。
 そして、にやりと、エドワードが絶対にしないような狂喜の笑みを浮かべる。

「ご名答。さすがだねえ、流水の錬金術師。正解のプレゼントに、良い物を見せてあげるよ」

 バチィッとその身体を覆うのは確かに錬成反応だった。ラストが自身の傷を修復したものと同じだ。
 エドワードの姿は再構築され、身長は伸び、赤いコートは青の軍服へと変わる。

「ほら。会いたくて仕方ないだろう? 君の友達。マース・ヒューズ中佐さ」

 黒髪に眼鏡をかけた男――ヒューズが、にこりと微笑んだ。
 刹那、その頬を氷の刃が掠めた。
 ヒューズは口笛を吹いた。頬から流れる血を拭うことなく、愉快そうな表情でを見つめる。

「そんなものはどうだっていい。お前がどうして姿を変えられるかなんて、興味もない」

 の怒りを具現化するように周囲の空気が凍りだし、冷気が足下を逃げるように這っていく。パキ、パキ、と凍てついた空気は刃となる。固体に再構築されたのは二酸化炭素。ドライアイスの刃だった。
 刃は容赦なくヒューズの姿をした人物の元へと飛翔し、その身体に突き刺さる。僅かに仰け反ったヒューズは、血を流しながらも口元から笑みを消さない。傷はラストと同様、端から錬成反応と共に修復される。この人物も、殺しても死なないのだと確信する。
 それでも、目の前にいる友の仇を、ただ黙って見ているだけなんてことはできなかった。
 動かない右手でまた剣を錬成し、左手でそれを持って地面を蹴る。

「あーあ。まったく、怖いなあ」

 ヒューズはそう言って肩を竦めた。そして、また錬成反応がある。
 青い軍服のまま、身長が少し縮む。髪は黒のままだったが、ヒューズやロイの髪型ではない。
 その黒髪の間から、両耳の赤いピアスが見える。

 少年だった。

「え……」

 の目が見開かれた。
 剣を握っていた手が、思わず緩む。


「…………シュウ……?」


 少年は笑顔で、銃口をへ向けた。

 は、反応できなかった。




「ちょっとこの子の推理力を甘く見ていたようね」

 ため息と共に女が言う。

「ホント。まさかこの能力まで見破るとはねえ」

 男は愉快そうな声で言った。全くだわ、と女が返す。

「で。殺さなくていいの?」
「まだ友人の仇を討つ人間が誰かがわかっただけ。彼のように、私達の計画を見抜いたわけじゃないわ。それに、大事な人柱候補だもの、丁重に扱わなきゃ」
「ははっ! 丁重? こんな状態までやっといてよく言うよ」

 男が声をあげて笑う。

「大丈夫よ。この子はこの程度じゃ死なないわ。……さて、帰りましょうか」
「だね。じゃ、またね。将軍」

 二人分の足音が遠ざかっていき、やがて消えた。




 戦いの傷跡が残る薄暗い路地の血溜まりの中で、動く姿があった。
 左腕に力を入れ、うつ伏せの状態から起き上がろうとするが、全身を痛みが駆け、思わず呻く。せり上がって来た血を、咳と共に吐き出した。

「ッ……くそっ……」

 道路の真ん中からせめて壁際へと、は這うようにしてなんとか移動する。ほんの数メートルが、とてつもなく長い距離に思えた。
 ようやく辿り着いた壁に背を預け、深く息を吐き出す。

「……なんで……シュウのこと、知ってるの……」

 先程の少年の姿を思い出す。確かにあの姿は、記憶に残る本人のものと変わりなかった。
 彼らが何故知っている? 関わりがあったというのか? 一体どんな……?
 だが、それを考えるには、もう思考は覚束なかった。
 流れ続ける血は止まらない。呼吸が苦しい。右腕はもう動かない。

「……情け、ない……」

 撃たれた腹を抑えても、止血にもなりはしない。
 脱力感と共に、意識が遠のいていく。目を閉じてはいけないと、そう思いながらも、もう体は言うことを聞いてくれなかった。

「生きなきゃ……いけない、のに……」

 こんなところで、死ぬわけにはいかないのに。

 どさり。支えきれなくなった体が、倒れる。
 の意識は、そこで途絶えた。