「やーな天気」
雨の日は髪がうねるから嫌いだ、とぶつぶつ呟きながらはロイの背後の窓を睨みつけている。
タッカーの家に行ってから数日。今日の天気は生憎の曇り空で、今にも雨が降り出しそうだ。
どうにもやる気がしないは、ペンで机をコンコンと叩いたりクルクル手元で回して暇を持て余していた。
「。手が止まっているようだが」
目ざとく見つけたロイが、そう声をかけてくる。普段自分がサボると怒るくせにサボるんじゃないと言わんばかりの口調だ。
だが、はハッと鼻で笑う。
「どこ見て言ってんの。手は動いてるじゃん」
「そういうのを屁理屈と言うんだ」
馬鹿にしたような笑みで手元でペン回しをする。何故彼女がこうも堂々としているのか、ロイにはさっぱりわからない。明らかに自分の方が正しい事を言っているはずなのに、とロイはため息を一つつく。
面倒そうにしながらも、もようやく書類に手をつけ始める。だが、その集中力は五分と持たなかった。
「あーッ! 駄目だ!」
バンッと机を両手で叩いては突然立ち上がる。
静まり返った室内で突然叫びだしたため、さすがのロイも驚いて顔を跳ね上げた。
「……何だね、急に」
「天気悪いとやる気にならない。じめじめじめじめ……頭にキノコ生えるわ!!」
「生えるわけないだろう」
騒ぎ出すの対応も長年の付き合いで慣れたものだ。冷静にツッコミを返すロイだが、やっぱりそんなものはの耳には入らない。
「じゃ。そういう事で、気分転換に遊びに行って来るね」
シュバッと片手を上げて、はロイにそう告げた。ロイは「は?」と眉を寄せる。
「雨が降りそうなのにか? というか、一体何処に行くつもりなんだ」
「タッカーさんとこ。可愛い女の子見て癒されてくる」
ニーナのところに遊びに行くと約束はしていたのだ。だが、どうにも仕事が片付かなくて行くに行けなかった。やる気がしないまま机に座っていても仕方が無い。気分転換してから、仕事は改めて取り掛かればよい。
そう決断してからの行動は早い。勢い良くドアを開けて、は執務室から出て行った。
開け放たれたまま閉めてもらえなかったドアを見つめながら、相変わらずの行動はわからないとロイはため息をついた。
5.雨と涙
どんよりと暗雲が漂う空を見上げながら、はタッカーの家までやってきた。
かろうじて雨は降っていないが、いつ降り出してもおかしくはない。そんな重苦しい空気だった。
「タッカーさーん。でーっす。こんにちはー」
タッカー邸の呼び鈴を鳴らし、声をかける。
返事は無い。
もう一度鳴らしてみる。が、誰も出てこない。
エルリック兄弟が居るのだから、誰も居ないはずはないのだが。は首を傾げながら扉を引いてみた。鍵はかかっていなかった。
「勝手に入りますよー、っと」
一応そう断ってから、は家の中へ入っていった。
物音が聞こえない。おかしい。
兄弟を連れて外出したのかと思ったが、鍵が開いていたため、その可能性は低いだろう。
何かあったに違いない。の勘がそう告げる。
ふと、近づいてくる足音が聞こえて、周囲に向けていた視線を前方へ戻す。
「……エド?」
「……」
エドワードは、眉を寄せ、今にも泣きそうな顔をしていた。
頬に僅かに血がついている。外傷は無い。エドワードの血では無さそうだ。
はエドワードの様子に、自分の勘が間違っていなかった事を確信する。
「何があった?」
が尋ねる。
エドワードは苦しそうな表情で俯いた。ぼそぼそと小さく喋っているようだが、聞き取れない。
エドワードに近づき、屈んで目線を同じにする。
「エド」
優しいが、真剣な声色でが話を促す。
「ニーナと、アレキサンダーが……合成獣に……」
「え……!?」
エドワードは自分の後ろの方にある部屋を、力無く指さした。
その部屋を見てから、はエドワードの頭にぽんと手をのせ、そして部屋へと走っていった。
僅かな照明しか無い室内。研究室のようだ。
の足音に気付き、部屋の中央で膝をついていたアルフォンスが振り返った。
そして、は息を呑んだ。
アルフォンスの影から現れたのは、毛の長い犬……否、犬と似た動物がいた。
先程のエドワードの言葉を思い出し、確信する。その動物が、ニーナとアレキサンダーの合成獣なのだと。
「……ニーナ……ちゃん?」
その声に気付いて、合成獣がを見る。
はビクッと体を強張らせた。
合成獣は、苦手だった。
腹がズキンと痛んだような気がして、無意識のうちに手を当てていた。
はゆっくりと合成獣に近づくと、傍らに膝をついた。
「……おねえ、ちゃん」
ニーナは鼻をひくひくと動かしての匂いを嗅ぐと、ペロッとその手を舐める。
は眉を寄せて、その頭を撫でた。
「……遊びに来れなくて、ごめんね」
寂しそうに笑いながら、は謝罪する。
こんな事になるならば、仕事を投げうってでも遊びに来てあげればよかった。こんな事態が起こるだなんて、誰が想像できただろう。
「……」
静かに声をかけてくるアルフォンスの、その声も沈んでいた。
それをきっかけにしたように、は俯いたまま立ち上がった。
すっと顔を上げ、冷めた目で正面を見やる。
壁を背に、タッカーが座り込んでいた。その顔は傷だらけで血が滲んでいる。それを見て、エドワードの頬の血は、タッカーを殴った時についたものだということに気が付く。
はニーナの脇を通り、無言でタッカーに近づいた。
「タッカーさん。どういう事ですか」
いつもよりも低いその声。
怒りを押さえ込み、は静かに言う。
「査定に間に合わないからって、自分の家族を使ったんですか」
合成獣の練成にだって限界がある。人間を使った練成……確かに、そうすれば人語を話す合成獣の練成は不可能ではない。成功の確率だって上がるだろう。
タッカーは何も言わない。と目を合わせようともしない。
この男は、一体何のために国家錬金術師になったというのだ。
ただ研究資金が欲しかったのか?
自分の家族を実験材料にしてまでして、金が欲しかったのか?
そこでは思う。
二年前、タッカーが資格をとった時に発表した合成獣。あれも人語を話していたはずだ。
誰を使った?
「……二年前の合成獣……あれ、奥さんでしょう」
タッカーの資料には目を通したことがある。一度記憶したものはそう簡単には忘れない。タッカーの妻は、二年前……国家錬金術師の資格を取ったのと同時期に、家を出たことになっていた。
「……」
「無言という事は、肯定ととって構いませんね」
軽蔑するような目で、は一方的に問いかける。
死にたい、と。そう言って餌を食べずに餓死したというその合成獣。夫の実験に使われ、人の姿では無くなった。そんな姿で、生きていたくはなかったのだろう。
一体、どれ程の悲しみが彼女の内にあったのか。想像も出来ない。
「……最低だな。お前」
そう吐き捨てて、は一度目を閉じる。
脳裏に、ニーナの笑顔が過ぎった。
どうして家族を実験材料として……道具として使えるのだろう。
理解できなかった。
理解したくもなかった。
が振り返ると、廊下にいたエドワードも部屋へと戻ってきていた。ニーナはアルフォンスに擦り寄っていて、彼はニーナの頭を優しく撫でている。
肩に入っていた力を抜き、は再びニーナの元へと近づいた。
「ごめんね……私の力じゃ、元には戻してあげられない」
そう言って、はアルフォンスへと顔を向ける。
アルフォンスはゆっくりと頭を振った。自分達にも出来ない、と。
「ごめんね」
ニーナの頭を撫でて、謝罪する。
謝ったところで、時間が戻るわけでも、ニーナが元に戻るわけでもない。
二年前に気が付いていれば、今回の事は防げたのかもしれない。だが、まさか自分の妻を使って合成獣を作っただなんて、誰が想像し得ただろう。
人間を使った練成は違法だ。誰もそんな合成獣で国家資格をとる人などいないと、最初から思い込んでいた。その考えの浅さが、今回の事件も招いてしまったのだ。
エドワードが近づいてきて、代わりには立ち上がる。
「司令部には私が電話する。二人は宿に……」
「ここに居る」
「でも」
「ニーナと、アレキサンダーの近くにいる」
「……」
有無を言わせないエドワードの口調。
は小さく息を吐くと、何も言わずに部屋を出た。
タッカーの家の中で、電話はすぐに見つけることができた。
「私。・少将。大佐に回して」
タッカーの家の電話から司令部に電話をかける。
コードを告げると、『少々お待ちください』と言う受付の声と共に一度通信が途切れ、少しして『か?』というロイの声が聞こえた。
「うん。あのさ、今タッカーの家にいるんだけど……」
『ああ。……どうした? 何か問題でも?』
の声のトーンがいつもと違う事に気付いて、ロイは問う。
は近くの壁に背を預けて、目を閉じた。
「大問題だね……すぐに来てくれる? 何人か連れてさ」
『……何が起こった?』
「ニーナちゃんが……っ」
―― ……おねえ、ちゃん
言葉に詰まった。
『……話はそっちで聞こう。すぐに行く』
「わかった……待ってる」
通信が切れる音がして、も静かに受話器を置いた。
静まり返る室内。
はゆっくりとその場に座り込んだ。
「……馬鹿だな」
どうして、二年前に気付かなかったんだろう。
怒りとも、悲しみともわからない。言葉にはできないやるせなさが、の胸にこみ上げる。
膝を抱え、顔を伏せた。
きつく閉じた瞼の裏が熱い。
随分と急いだらしく、ロイは十五分と経たぬうちに数名を連れてタッカーの家へとやって来た。
から事の次第を聞き、ロイは兵たちに指示を出し始める。その隣に、はただ黙って立っていた。
エルリック兄弟も一度外へと出る事となった。帰り際に「またあそぼ」と言うニーナに、アルフォンスは手を振り、エドワードは眉を寄せた。
タッカーを数名の憲兵に任せ、ロイとも一度帰ることになった。
帰り際、ロイと二人になった時にがぽつりと呟いた。
「世の中には自分の命捨ててまで、他人の事助けるやつもいるっていうのに……自分の血の繋がった家族を、実験材料にするなんてね……」
私には、わからないよ。
は消え入りそうな声で呟く。
ロイは声をかける代わりに、の頭に優しく手を乗せた。
いつの間にか、雨が降り出していた。
「いつまで、そうやってへこんでいる気だね」
「……うるさいよ」
司令部の階段をホークアイと共に下りてきたロイが、階段に腰掛けているエドワードに声をかけた。エドワードは振り向かずに、一言だけ返した。ロイは息を吐く。
「軍の狗よ悪魔よとののしられても、その特権をフルに使って元の身体に戻ると決めたのは君自身だ。これしきの事で立ち止まっているヒマがあるのか?」
「『これしき』……かよ」
ぎゅっと自分の赤いコートを握る。
「ああ、そうだ。狗だ悪魔だと罵られても、アルと二人元の身体に戻ってやるさ。だけどな。オレたちは悪魔でも、ましてや神でもない」
エドワードは勢い良く立ち上がると、苦しそうな表情で続けた。
「人間なんだよッ! たった一人の女の子さえ助けてやれない、ちっぽけな人間だ……!!」
それはロイに訴えているのか。それとも、自分の無力さに苛立っているのか。嘆いているのか。
ロイが振り返ってエドワードに目を向けてみれば、彼は俯いたまま、両拳をぎゅっと握り締めていた。
その後ろ、司令部から別の足音が聞こえてきた。だ。
階段を下り、ロイの横まで来るとは一度立ち止まった。
「ロイ。タッカーの資格は剥奪して、裁判にかけるって。明日中央から引き取りに来るみたい」
「わかった」
今まで中央司令部に電話をかけていたようだ。淡々と説明をすると、は再び階段を下りだす。
「私、もう一回タッカーのところ行って来るから」
「何で……そんなに平然としてるんだよ」
下りながら言えば、背後からエドワードの声がかかった。
階段を下りきったところで、は立ち止まる。
「感情表に出してたら捜査は進まないよ」
「だからって……何でそんなに平然とやってられるんだよお前。女の子が実験に使われたんだぞ? 何とも思わないのかよ!!」
「思わないわけないでしょ!?」
振り返らずに、は怒鳴った。
彼らにの表情は伺えない。
「今後、こんな事件が起こらないように……早急に解決しなきゃいけないんだ」
「……」
「もう二度と……こんな事件は起こさせない」
そう言い切ると、はタッカーの家の方へ走っていった。
「にしては、珍しく感情的でしたね」
ホークアイが意外そうに言う。
「ああ。こんな事件だからな」
ロイも頷いた。
そして、納得いかなさそうな表情で俯いているエドワードを見る。
「あの子は人の命に関しては、人一倍敏感だ。そんな人間が、この事件を何とも思わないわけがないだろう」
エドワードは何も言わなかった。
そしてアルフォンスも、無言でただ自分の足元を見ている。
「……カゼをひく。帰って休みなさい」
ロイはそう言うと、階段を下りていった。
雨はやむことなく、降り続いている。