最後の書類にサインを入れると、はペンを置いてぐーっと大きく伸びをした。首を回してゴキッという音を聞きながら、壁の時計に目を向ける。五時を過ぎたところだった。
 かれこれ数時間机に座りっぱなしだったは、欠伸をしながら今度は両肩をぐるぐる回す。肩も首も随分凝っていた。

「ロイー。エドとアルっていつ迎えに行くの?」

 少し離れた机に座るロイに尋ねる。
 二人を送って帰って来たロイは大人しく机で仕事をこなしていた。
 が東方司令部にやってくると、ロイはサボりたくてもサボれなくなるのである。の机が同じ部屋にある為だ。うつらうつらとしようものなら、の席から矢の如くペンが飛んでくる。
 面倒そうにしつつも手を動かしていたロイは、の言葉を聞いて時計に目を向け「ああ、もうこんな時間か」と呟いた。

「もう少ししたらハボックが迎えにいく事になっている。それがどうかしたか?」
「私も行こうかなーと思って」
「サボるなよ」
「今日の分は終わったもん」

 不満そうに言うロイにべーっと舌を出して見せ、は席から立ち上がる。
 ロイに手を振り部屋を出ると、両手をポケットに突っ込み、ハボックの居そうな場所を探しに廊下を歩いていった。

 外はもう、オレンジ色に染まっていた。




   

4.錬金術師





 とハボックは、共にタッカー邸を訪れていた。
 は家の前で先に車を降りると、ハボックが車を駐車しているうちに敷地内に入って呼び鈴を鳴らす。すぐに追いついてきたハボックは、の隣で煙草をふかしながら「デカイ家」と屋敷を見上げて呟いた。
 少しして扉が開き、眼鏡をかけた男性が現れた。ショウ・タッカーだ。

「こんにちは、タッカーさん」
「こんにちは。エドワードくん達のお迎えですか?」
「はい」

 タッカーは、とその隣のハボックに目を向ける。
 そして、にこりと人当たりの良い笑みを浮かべて、タッカーは扉を大きく開けた。

「二人は資料室です。こちらへどうぞ」

 お邪魔します、と言ってとハボックはタッカーの後に続いた。

「タッカーさん、お久しぶり……なんですけど、私の事覚えてます?」

 資料室へと向かう廊下を歩きながらが問う。
 前を歩いていたタッカーは驚いたように振り向いた後、しばし考えるように視線を彷徨わせた。

「忘れちゃいましたよね。二年前に合成獣を見に来た者なんですけど」
「……ああ! あの時の! まだ子供なのに軍服を着ていた、と。随分と驚きましたから、記憶に残っています」
「そうです。あの時既に合成獣は死んでしまっていたんですけど」
「すぐでしたからね。それにしても……本当に軍の方だったとは……」
「ええ、まあ」

 タッカーが苦笑しながら言うと、は苦い顔をした。
 二年前も軍服を着て訪ねてきたのだが、当時のは15歳。今でこそ成長して背も伸びた為に驚かれる事は減ったが、当時は軍服を着ていようとも軍人だと信じてくれない者も多かった。予想はしていたが、なんとも複雑な心境である。
 微妙な表情をしているを見てハボックがくつくつと笑い出し、はそれを下から睨んだ。

「お名前は……確か、さんでしたよね?」
「そうです、です」

 覚えていてくださって光栄です、とは笑みを浮かべる。
 他人の前では本当に礼儀正しい奴だ、とハボックはを見ながらそう思う。本人には口が裂けても言えないが。

「ちなみに、こんなんでも少将ですよ。コイツ」
「しょ、将軍なんですか!?」
「ええ、あれから昇進したので」

 ハボックが補足して説明すれば、タッカーはぎょっとしてに目を向けた。あははと笑うから、そんな威厳は全く感じられない。二年前の年齢から考えてもまだは大分若いというのに、将軍なんて地位にいるとはやはり考えられなかった。
 そこで、タッカーは何かに気付いたようにふと立ち止まった。

「あれ? 確か“流水の錬金術師”が、セントラルの将軍という方だったと……」
「あ、それ私ですね」

 やはり二つ名だけは通ってるんだな、とは思う。
 そうですか、と驚きながらもタッカーは資料室へと歩き出す。

「すごいですね……やっぱりいるんですね、天才というのは」

 先程までと声色が変わったように感じて、は前を歩くタッカーの背を見やる。
 タッカーさん? と声をかけてみるが、何ですか? と振り返ったタッカーの表情は笑顔で。
 気のせいだったのかと思い、「何でもないです」とは笑顔を返した。

「うわー、すごい資料の量……」

 資料室の扉が開くなり、は感嘆の声をあげた。

「よぉ、大将。迎えに来たぞ」

 その横で室内に顔を覗かせたハボックは、目当ての人物を見つけて声をかける。
 もハボックの見ている方に目を向け、そして呆れた。
 資料を探しに来たはずのエドワードは、何故か床に倒れていた。上には楽しそうな表情の白い大型犬。
 近くにいたタッカーの娘らしい少女が、を見つけて嬉しそうに駆け寄って来る。は笑顔で少女を抱き上げながら、再びエドワードに目を向けた。

「……何してんの、あんた」
「いや、これは資料検索の合間の息抜きと言うかなんと言うか!」

 阿呆かといった態度を隠しもしないの言葉に、弁解するようにエドワードがガバッと起き上がった。

「で、いい資料はみつかったかい?」
「……」

 タッカーが笑顔で問いかけたのだが、エドワードの顔は面白い程青くなった。どうやら見つからなかったようだ。

「……また明日来るといいよ」

 タッカーが苦笑しながらそう言った。
 資料の量も膨大にあるのだが、この様子だと途中で犬に邪魔されて資料探しどころではなかったのかもしれない。奥から歩いて来たアルフォンスにも尋ねてみるが、彼の方も良い資料は見つけられなかったようだ。

「お兄ちゃんたち、また来てくれるの?」

 に抱かれたままの少女、ニーナが嬉しそうに言う。
 アルフォンスが頷いた。

「うん。また明日遊ぼうね」

 ふと、エドワードの方を見れば、疲れたようにふらふらしながら廊下へと出て行くところだった。
 資料探しのはずなのに、何故あんなにも体力消耗しているんだ……は思わず息を吐く。

「お姉ちゃんは? 明日来てくれる?」

 耳元で楽しそうな声が聞こえて、エドワードから目を戻す。至近距離にある幼い顔は、にこにこと満面の笑みだった。

「私? うーん……私は明日も仕事があるしなぁ……」
「えーっ?」
「ニーナ。は忙しいんだよ。明日もボクらと遊ぼう?」

 残念そうな顔をするニーナに苦笑しつつ、は抱いていたニーナを下へと下ろす。
 そして、屈んで目線を合わすとにこりと微笑んだ。

「明日は来れないかもしれないけど、仕事片付いたら遊びに来るよ」

 ぱっとニーナの表情が明るくなった。

「ホント!?」
「勿論。約束ね」
「うん! 約束!」

 満面の笑みでそう言うニーナの頭を、も笑顔で撫でてやった。
 アルフォンスもニーナに別れを告げ、帰るべくと共に外へと出る。

「ああ、タッカーさん。大佐からの伝言が」

 後に続いて外へ出ようとしたハボックが、思い出したように言った。そして、タッカーの方を振り返る。

「『もうすぐ査定の日です。お忘れなく』だそうです」
「……ええ。わかっております」

 返事をするその表情は、暗かった。




「で? 結局エドは、あのアレキサンダーって犬に遊ばれてたんでしょ?」
「ちっがーう! 逆だ逆! オレが遊んでやってたの!」

 帰りの車内では、助手席のと後部座席のエドワードの言い合いがまたしても勃発していた。
 ビシィッと指を突きつけながらエドワードは否定するのだが、が素直に聞くはずもない。は「ああ、そっか」と両手を叩いて、笑顔で後ろを振り返った。

「遊んであげてたけど、エドが小さかったために大型犬に力負けしちゃったんだね!」
「誰がミジンコ並のどチビだクルァァアアッ!!!」

 暴れだしたエドワードをアルフォンスが抑える。はそんなエドワードの様子に可笑しそうに笑っている。車壊すなよとハボックが呆れながら言うが、は笑いながらヒラヒラ手を振っただけだった。

「そういえば、って国家錬金術師なんだよね? どんな練成するの?」

 これ以上エドワードで遊ばれては本当に暴れて車を壊しかねないと、アルフォンスが話題を変えるように尋ねた。

「あー、そういえばそうだよな。流水の錬金術師だっけ? やっぱ水とか練成するのか?」
「まぁね。基本的な錬金術は一通り出来るけど、メインは空気に圧力をかけての水の操作かな」
「なるほど。圧力をかけることで密度を上げて、水蒸気を液化させてるのか」

 の説明に、エルリック兄弟が感心したように頷く。
 空気中には目には見えない水が、水蒸気という気体の状態で存在している。気体に圧力をかければ液化し、更に圧力をかけることで固体化する。つまり、空気中の水蒸気に圧力をかけて水に相転移させているのである。

「あ。だからあの時、大佐の炎を消したのか」

 エドワードがポンと手を叩いて言えば、は笑いながら肯定を返した。
 駅での事だ。ロイが放った炎を、は右手を翳すだけで消して見せた。水を練成して炎を消したのだろう。辺りに漂った白い煙は、水が蒸発して発生した水蒸気だったのだ。

「じゃあ、そのまま凍らせることもできるのか? 気体に一気に高圧力かけりゃ、固体に昇華するだろ?」
「勿論。まあ、水を凍らせる時はそのままだと不純物も多いから、一旦分解して、水分子だけで綺麗な結晶密度になるように再構築してるけどね」
「ふーん。確かに氷に不純物が入ってると、脆いしすぐ溶けちまうもんな。……つーか、その錬成で何で二つ名が“流水”なんだよ。圧力かけるなら、水じゃなくたって操作できるだろ」

 エドワードが怪訝そうに眉を寄せた。
 の錬成が圧力をかけることによる物質の相転移がメインなのであれば、わざわざ水にこだわる必要も無かったはずだ。例えば二酸化炭素に圧力をかけて液体にすることだって可能である。

「試験で水の錬成しかしなかったからじゃない?」

 は興味なさ気にそう答えた。
 そして、凍らせる方は水分子の再構築しか考えていない、とは付け加える。だが、こちらも試験では見せはしなかったようだ。

「他の錬成も見せれば、合格の確率だって上がったんじゃないの? 圧力での物質相転移って結構評価高そうだけど」
「この私が落ちるわけないじゃん」
「何だよその無駄な自信……」

 不思議そうなアルフォンスに、ふふんと笑って見せれば、エドワードが呆れたようにため息をついた。

「ところで、練成方法は? どうやって練成するの?」

 アルフォンスに問われ、 は両手の黒い手袋を右側だけ脱いだ。
 そして、後部座席の二人に見えるように掌を向ける。

「タトゥー?」

 掌に描かれていたのは、随分とシンプルな一つの練成陣。
 エドワードは思わず目を細めた。
 練成陣を見るだけで、その術者のレベルは大体理解できる。術者が優秀であればあるほど、シンプルな練成陣で複雑な練成が可能なのだ。

「練成陣書く手間が省けるでしょ?」
「でも、消えないんじゃないのか?」

 楽でいいんだよね、と言いながら手袋をはめ直すにエドワードが問いかけた。
 タトゥーを消すには皮膚の切除をしなければならなく、外科手術が必要である。手術をすれば傷跡が残る。掌に傷跡が残るのはいささか不便だ。となると、一生そのタトゥーを入れたままになってしまうのではないだろうか。仮にも女であるというのに、練成陣のタトゥーとは随分と思い切った事をする、とエドワードは思った。
 だが、 は笑いながら首を振った。

「いいの。一生錬金術師として生きてく、って決めたから」

 窓の外を見ながら、 はそう言った。
 その様子が先程まで馬鹿騒ぎしていたとはとても思えない程に静かで、エドワードとアルフォンスは思わず黙り込んだ。

 一生錬金術師として生きていく。

 まだ17年しか生きていないはずなのに、既に一生の覚悟を決めている。
 その決意の裏に、一体どんな思いが隠されているのだろう。

 黙って話を聞いていたハボックは、静かに煙草の煙を吐き出した。